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ハンニバルの援軍壊滅す!(同 ⑥)

2007-05-03 07:39:31 | Weblog
紀元前207年春、スペインの司令官だったハンニバルの弟のハシュドゥルバルがガリアの傭兵3万を加えて総勢5万の兵にて北イタリアに入った。
この時、ハンニバルは40歳になり、弟は30代であった。
ハンニバルの戦隊は南イタリアで一進一退の状況であった。

北よりイタリアに入ったハシュドゥルバルは南イタリアの兄と合流の必要性があった。
兄のハンニバルは「いずれ弟の戦隊が北から到着する」ことは知っていたが、当時は携帯電話などない時代である。
情報は手紙しかない。
弟はポー河付近にて兄に手紙を送った。
6人の騎士に持たせた手紙には合流予定地が記載されていた。

ところが6人はローマ側に捕らえられ、手紙はイタリア南部司令官のネオに届けられた。
(まるで、明智光秀の毛利軍宛の手紙が秀吉に渡った状況と似ていますね)
ネオは精兵7千を率いて、夜間にひっそりと北上し、北部方面司令官リヴィウス率いる3万の戦隊と合流した。
(合計3万7千)

[メタウロ会戦]

戦場は崖に挟まれた狭い一帯である。
数ではカルタゴ軍が優っていたが、地形がローマ軍に有利に働いた。
前線では五分五分であったが、これを見たネオ司令官率いる7千の精兵は戦線を離れ、味方の背後を迂回して敵の右翼を突いた。
これがきっかけでまずガリア兵が総崩れとなり、スペインから従えて来た3万の兵が全滅した。
ハシュドゥバル自身も戦死した。

ハンニバルが全てを知ったのは、敵兵より投げ込まれた包みによってであった。
包みの中から弟の生首が現れた。
以後、ハンニバルは南イタリアの「長靴の先端」にこもったきり、2年間出てこなかった。

[当時、スペインはカルタゴの植民地であった]
[カルタゴとはフェニキア人が築いた都市国家である。]
[フェニキア人とは、現在のレバノン付近に住んでいた人種であるがはっきりしない。レバノン人の祖先か? ]
[ガリア人とは今のフランス人の祖先と考えて良いと思います]

5月1日にリセット



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