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佐々成政のアルプス越え

2007-05-04 14:33:02 | Weblog
日本でもアルプス越えをした武将が居ますね。

織田信長亡き後、秀吉連合軍と家康枢軸国が対立し、「小牧・長久手の戦い」以後も双方は対立していました。
家康枢軸国とは家康以外には「織田信雄(信長の次男・清洲の城主)」と「佐々成政・越中富山の城主」でした。
織田信雄としては「父親の信長と長男の信忠亡き後は、次男の自分が織田家の後継者」と思っていましたが、
秀吉が我が物顔で居ることに我慢できなかったのです。
(なお、信長の長男信忠は本能寺の変で既に死亡していた)
一方、家康としては秀吉と戦う大儀名分として信雄の要請に応じて参戦したのでした。
ところが、1584年12月に佐々成政が末森城で前田利家軍と戦闘中に「秀吉と信雄が講和す」とのニュースが突然入り驚きました。
なぜなら、雪が解ければ春には秀吉が北陸に援軍を出すことは目に見えていたからです。

成政は「これはヤバイ!」と思いました。
なんとしても、ここは家康に援軍を頼むしかありませんでした。
でも頼れる家康のお城は北アルプスの立山連峰の向こう側の浜松でした。
普通の道路は近江経由でしか行けません。しかし、そこは秀吉連合軍の領地です。
その為、富山→黒部峡谷→北アルプス→信濃へと「アルプス越え」を決行したのでした。
まぁ、現在でも真冬に富山から長野県に通じる道路はありません。
これを「さらさら越え」といいますが、その名前は「さらさら峠を越えて行ったから」といわれています。
でも、さらさら峠とはどこにあるのでしょう?

結局、成政は冬の北アルプスを越えて無事浜松に到着し家康に面会できました。
さすがの家康も突然成政が現れてびっくり仰天しました。
しかし、成政に援軍を出すことはとても無理でした。
次に、成政は清洲の信雄にも会いに行きました。でも信雄はつれない返事。
成政は失意のうちに帰ったのです。

翌年、秀吉連合軍が北陸に攻めて来ました。
そして、富山城の少し手前の丘陵地帯に布陣しました。
圧倒的な数の秀吉連合軍相手では勝敗は目に見えています。
成政は降伏せざるを得なかったのです。

この時に秀吉が布陣した丘陵地帯は「太閤山」と名づけられて、現在は住宅団地となっています。
地元でも「太閤山」の名前の由来を知っている人は少ないと思います。