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天海僧正=明智光秀か?

2007-05-05 18:12:10 | Weblog
漫画「あずみ」に徳川幕府のブレーンとして「天海僧正」が出てきますよね。
この人は架空の人物ではなく、実在した人なんです。
徳川幕府のブレーンであったことも間違いはなく、家康・秀忠・家光、の三代に渡って仕えます。
但し、出生地や幼いときの経歴は不明であり、歴史上表に出てくるのは1588年秀吉の北条攻めの時に初めて家康の陣幕に居たといわれています。

一方、明智光秀は1582年6月2日未明、本能寺に信長を攻め天下を奪います。
しかし、中国より電光石火戻った秀吉連合軍により、6月13日「山崎の戦い」によって敗れます。
以後、近江の坂本城に戻る途上、小栗栖の竹薮にて土民に襲撃されて深傷を負い部下の介錯で自害したと伝えられています。
その後、光秀の首は土民の手によって秀吉の元に運ばれましたが、著しく腐乱しており判別は不可能だったといわれます。
それでも、秀吉としては「光秀死亡す」の既成事実の情報だけでもあれば充分でした。
このことから考えても、竹薮で光秀が本当に死亡したのかは疑問が残ります。

また、光秀が死亡した年から6年目に初めて天海僧正が歴史舞台に登場します。
そのため、かなり以前から「光秀=天海」説はあったのですが、学者や作家の間では、
「この虚構は光秀への愛惜から生まれたものだということに変わりはない」(新人物往来社、別冊歴史読本、1989年・11月号、作家・中島道子)の虚構である考えが主流でした。
まぁ、確かに源義経=ジンギスハーンという「とんでも伝説」があるくらいですから、普通の学者や作家が信憑性を疑うのは当然でした。

しかし、その後2000年頃より色々と状況証拠が出てきてテレビでも放映されました。
その状況証拠はたくさんあって書ききれませんが、主たるものは次の通りです。

①日光東照宮の建物に明智家の「桔梗の紋」が残っている。
②三代目将軍の家光の乳母は「春日局」であるが、本名を「お福」といい、光秀の妹の子供である。つまり、光秀はお福の伯父にあたる。
③光秀は織田信長時代から朝廷と密接である。

一方で双方の筆跡鑑定の結果、「少し似ている部分もあるが、別人である」との見方もある。(2000年8月6日、「日立・世界ふしぎ発見!」より)
しかしながら、権力のある人は良く「代書人に手紙を書かせてサインは自分」という例は珍しくないのです。
特に織田信長の若き頃は、「代書人に偽の手紙を書かせて、今川家の家臣の謀反の書状を作った」ことは有名です。
光秀が土民に殺された年齢は55歳くらいといわれていますが、天海が徳川家に仕えた年が<60歳~106歳>となれば、矛盾はないと思われます。

どちらにしろ、何が本当かの決定的な証拠は出てこないでしょう。
このように歴史はミステリーであるゆえ、面白いのではないでしょうか。。