光と風に乗って地域産品の創出

NPO法人光と風&地魚料理海辺里

飯岡石の風景

2022年08月01日 | 地域資源
       岩笛の里祭で「飯岡石」について発表
 10月16日いいおか港公園の近くで開かれたました。
地元商店による食品の販売や大和会のお囃子、ボーイスカウトさんの紙芝居などが会場を賑わした。午後からは「まさこさんの飯岡石のおはなし」があり、その際に展示した資料を撮影したので報告します。
 なお、写真だけでは説明不足なのでコメントしました。ご覧ください。


花蔵院の境内にある庚申塔、明治6年と年号が刻まれている。高さ2、3メートル 幅1,6メートル 厚さ0,15メートルと極めて大きい。

左側下2枚は旭市の鏑木で現在発掘中の石棺である、6世紀ごろの古墳と言われ「飯岡石」で1枚が1メート前後の大きさである。

千葉県中央博物館のホームページに掲載されている「飯岡石」のデータである。

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7 コメント

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Unknown (NPO法人光と風 渡邉)
2016-10-19 20:44:40
飯岡石の風景(注) 鏑木古墳の発掘
 今年の夏ごろから旭市鏑木3011(干潟町)宍倉氏所有の畑で古墳の発掘作業が行われている。現在、旭市の教育委員会生涯学習課が発掘・調査中で雨天の日以外は現場作業に当たっている。
 墳墓は6世紀ごろのもので地域の有力者(豪族)の墓と見られる。
 石棺の大きさは(内径) 横幅 0,8×立幅2,2 深さ0,7メートルで写真でも見分けが付くように石棺内には人骨が3体、刀剣など埋葬されている。
 この石棺が飯岡石を用いているとの情報が寄せられ現地に出向き責任者の同意を得て取材した。
 飯岡石の大きさは測って見たところ縦横3尺(90センチ)、厚さ4寸(12センチ)であった。また、表面は波で揉まれたような形跡がなく崩落したものを切り刻んで運んだものと見られる。
 この発掘は作業中ということで公表されていないが雨天以外は作業中なので同意を得ての見学は可能である。 
 
 



旭市鏑木3011番地 宍倉氏所有地 旭市生涯学習課が発掘・調査中
 6世紀ごろ地域の有力者(豪族)の墳墓
石棺に「飯岡石」を用いている。
石棺 (内径) 横幅 0,8×立幅2,2 深さ0,7

 石棺内には人骨が3体、刀剣など埋葬されている。

 現在、発掘中の現場

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Unknown (1982)
2016-10-20 08:16:46
石棺に飯岡石を用いているんですね。
飯岡石の新しい使い方の発見です!
HPのトップページが変わっていましたね。フォントが変わって見やすくなりましたね!!
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Unknown (NPO法人光と風 渡邉)
2016-10-20 21:11:40
飯岡石の風景(注) 鏑木古墳の発掘-2
この「飯岡石」を当時、どう運んだのか。発掘している現場の担当者である学芸員はやはり船ではないか!と考えを示していた。
 屏風ヶ浦の侵食について年間に1メートルと推定し600年前の鎌倉時代には約6キロ先であったと言われている。これから石棺の石を運んだのは6世紀ごろだから現在から20キロ先で侵食による崩落のものと推定される。
 北総の地ではかって地質的に、また生活域で石と言われるものは「銚子石」と「飯岡石」に限られていた。当時、椿の海の入江であった鏑木へ海路によって「飯岡石」が搬入されたということになる。
  これまで旧飯岡地区での「飯岡石の風景」であったが時間を古代まで至る想像へ誘うかも!事実を辿りながら「飯岡石の物語」を考える契機となればと思っている。
 
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Unknown (NPO法人光と風 渡邉)
2016-10-21 20:38:49
    飯岡石の風景(注)花蔵院の庚申塔
 花蔵院は飯岡港の入り口近く下永井491番地に位置する。境内の入り口には飯岡石で出来ている大きな庚申塔が目に付く。
 測って見たところ高さ2.3m 横幅1.6m。調べた限り飯岡地区では一番大きいのではないか!左下に明治6年という年号が刻まれている。
 この庚申塔の取材で住職さんとお話する機会がありいろいろ伺った。
 昭和60年に補強するため下部をコンクリートブロックで固めてしまった、明治の初めに本堂が焼失し従前の資料が一切残されていない、庚申塔の由来の詳細は判らない、という。
 確かに下永井地区は江戸後期からいわゆる「芋念仏」が執り行われていたのでその庚申講として築造されたことが考えられる。
 住職は伝承のよれば花蔵院の建立は元禄津波の後と言われ、津波により近隣の数寺が廃寺になったため高台に位置する現在地に建立されたという。本堂の焼失によって元禄津波の資料を伺うことが出来なくなったという事実の前に残念というほかがなかった。
 隣の板碑は寛政元年 西國三十三番請願成就奉納

 
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Unknown (NPO法人光と風 渡邉)
2016-10-22 21:32:10
  飯岡石の風景(注)玉崎神社の石塁(石垣)
 神社神殿周囲の石垣には飯岡石が積み上げられ石塁と呼ばれている。
 表示されている説明では17世紀中期の築造とされ飯岡石(凝灰質砂岩)で造成され、海中より産出されたもので寄り石と呼ばれているとしている。
 飯岡石・凝灰質砂岩といえばこの境内内には旭市指定文化財 天の石笛が奉納されている。
 説明は     
 この石笛は、享保3年(西暦1718年)頃、漁師の網にかかり奉納されたもので、石質は飯岡石(凝灰質砂岩)です。
頭部に直径30㎝深さ40㎝の溝穴があり、側面にも穴があって、風が吹き込み、妙音がした。
 漁師は、この音によって出漁を占い、霊石として祭祀されています、という。
 周囲3から4メートルの大きな石塊である。
     
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Unknown (NPO法人光と風 渡邉)
2016-10-23 21:05:45
  飯岡石の風景(注)玉崎神社-2 
 天の石笛には2つの物語りが語り伝えられている。
一つに玉崎神社に伝わる江戸時代の国文学者(神学者)平田篤胤の天の岩笛之記であることが良く知られている。
 もう一つは昔話として源助が織りなす物語りで石笛がなると海が荒れるという漁夫たちの言い伝えである。
 前者が玉崎神社、後者が現在の海津見神社と同居する妙見様でかっては天の岩笛(穴の空いた良い飯岡石)が奉納されていたという。
 ここから飯岡石について地質的な興味というか、疑問が呼び起こされる。
 何れも天の岩笛は浜から打ち上げられた「寄石」で凝灰質砂岩の飯岡石である。境内に座する「飯岡石」といわゆる天の岩笛の「飯岡石」との相違は!
 




浜の漁夫たちに伝えられ、それからは、【石笛がなると海が荒れる】という漁夫たちの言い伝えとなり昔話として今に語られている。

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夜に風雨が荒れた翌朝、源助という漁師が飯岡の浜(五の浦)で海を渡ってくる風の音に混じって澄んだ笛の音を聞いた。そしてその日は海はきれいであったが途中から大荒れになり命からがら逃げかえった。
その夜に枕元に妙見様があらわれ、「笛は天の石笛といって海が荒れるのを知らせているのだ」と告げた。
これから「石笛が鳴ると海が荒れる」と言い伝えられるようになり、石笛を奉納するようになった。
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Unknown (NPO法人光と風 渡邉)
2016-11-04 22:11:21
飯岡地区文化祭での展示
 11月5,6日の両日、いいおかユートピアセンターで開かれる第12回飯岡地区文化祭に「海への会」が発表・展示を行います。
 発表の部では6日午前10;00から紙芝居「天の岩笛」と高橋順子詩集より詩の朗読があります。
 展示は1階の入り口ロビーで文芸賞応募のお願い・2月27日の震災5周年祈年チャリティー高橋順子講演会の写真・詩集「海へ」から飯岡石・飯岡石の風景などです。
 時間に余裕のある方は是非お立ち寄り下さい。また、文芸賞応募の最後のチャンスとなります。
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