陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

神の一条に  つかねばならぬ

2016-05-13 21:22:58 |  エッセイ
 おふでさき四号の40の歌
  いまてハなみなの心とうちなるの 心かをふいちがいなれども 四 40 
   今ではな皆の心と内なるの 心が多い違いなれども
 「皆の心」とは、この道の生き方がしっかり心に治まっている人を指す。「内なる者」とは「側なる者(44)」のことで、秀司さん夫婦と取り巻きを指している。内の者、側な者はともにみき様から同じときに、同じ話を直接耳にしているから、それぞれの行動は同時ではないにしても、みなの「意識」は進化しながら定まった方向へ向っているはずと思いきや、これほどまでに大きな違いができてしまっているとは、という神のため息が聞こえる歌です。

 その差は、一体どこから生れたのか
  たんへとふでにしらしてあるけれど さとりないのが神のざんねん 四 47 
   だんだんと筆に知らしてあるけれど 悟りないのが神の殘念
  このはなしなにの事やとをもうなよ こゑ一ぢよのはなしなるぞや 四 50 
   この話何の事やと思うなよ こゑ一条の話なるぞや
 その差は「悟り」がない。「こゑ一条」の教理がしっかり心に治め切れてないことに大きな原因があると言うのです。「こゑ一条」については「筆に知らしてある」― みかぐらうた一下り目の「この道」の入り口の教理で「こゑのさづけ」として、はっきり記したと歌っているということ。人はみな神の子であり、誰もが素晴らしい個性を持った価値ある存在であるから、と意識を変えることで何も恐れることなく、自信を持って暮らしなさいと、今までの自分のままでいることに安堵を授けたのです。
 「みち(道)」について語っている[老子]の第33章に、『他人のこと知る者は、普通のもの知り。自分のことを知っている者は、聡明なり。他人に勝つ者は力あり。自分に勝てる者は真に強し。自分の願望が強すぎる者は無理がある。どんな状況も満足することを知る者こそ、真の富者なり。…』
 私たちは自分を生きているように思っていても、他人の視線のために生きているために、無理な生活、無理な自分を演じて、それがために自分を苦しめる状況を自分でつくっていることが多い。だから、先ず自分の価値に目覚めるようにと「こゑのさづけ」を与えたのです。
 そして、その生き方の行為を「さんざい心」としてあらわしたのです。物を持つ、増やすという形を頼りとする「蓄財」に執着せず、「散財」に生きて心に豊かさを感じることで、真の富者になることができるというのです。

 「さんざい」が心に治まれば、そこには一切の我身思案の「思考」のエゴはなくなるから、神の「意識」のまま、「神に凭れて」いけば安らぎがあるのです。「病まず死なず弱りなき」という無限の世界に生きる境地です。
 それに対して、「唐」を信奉する「上」の心には、拝み祈祷、「神にすがる」という姿があるから、一見従順でいかにも信仰心が厚いと自負していても、自分のエゴはしっかり保持したままで、神を自分の方へ引き寄せようという貪欲な姿が見え隠れしている。自分のエゴの小さな砦の中では、本当の自分の見出しようはないということ。
 「神に凭れる」ことで、自分の「思考」のエゴを解放した広大無限の時空にいれば、誰でもジックリと本当の自分を見出すことができるのです。この本当の自分を知ることが、「悟り」をひらいたということです。

 みき様の話、「この道」の話を誰よりも身近で聞いた。そして、誰より年限かけお金も誰よりも費やし、誰にも負けないぐらい熱心に信仰しているという自負が、「自分を知る」ことにおいて、誰よりも勝っていることにはならない。如何に自分の「思考」のエゴが消えているかが、自分を知ることの入り口となり、それが「神一条」の「道」に続づいていくのです。


                       中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


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