浪速おやじのつぶやき日記

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浪速夢見頃>日本の偉人「ジョン万次郎」

2013-02-14 20:11:34 | その他

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浪速夢見頃>日本の偉人「ジョン万次郎」
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  ジョン万次郎資料館リンク
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ジョン万次郎(ジョン まんじろう
文政10年1月1日(1827年1月27日)- 明治31年(1898年)11月12日)
は、幕末の日本で日米和親条約の締結に尽力した人物である
その後、通訳・教師などとして活躍したジョン・マン(John Mung)
とも呼ばれた,本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)
「ジョン万次郎」という呼称は昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した
『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)
で用いられたため広まったものでそれ以前には使用されていない
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昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した
『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)
で用いられたため広まったものでそれ以前には使用されていない
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生涯
生い立ち、漂流と渡米萬次郎少年と仲間達の群像(海の駅あしずり)
文政10年(1827年)土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)
の半農半漁の家の次男に生まれた。万次郎が8歳の頃に亡くなった父や、
病弱な母と兄に代わって幼い頃から働き、家族を養った寺子屋に通う
余裕が無かったため読み書きも殆ど出来なかった
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天保12年(1841年)、
手伝いで漁に出て嵐に遭い漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後
奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着し143日間生活した、
そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される
日本はその頃鎖国していたため漂流者のうち年配の者達は
寄港先のハワイで降ろされるが船長のホイットフィールドに頭の良さを
気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。
生まれて初めて世界地図を目にし世界における日本の小ささに驚いた
この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称を
アメリカ人からつけられた。同年、アメリカ本土に渡った万次郎は
ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし
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1843年(天保15年)には
オックスフォード学校、
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1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術
造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し首席となった。
民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方
人種差別も経験した
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捕鯨生活と帰国
万次郎らが上陸した琉球の大度海岸(現在の沖縄県糸満市)
学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選びやがて船員達の投票により
副船長に選ばれた(投票では2人が1位になったが年長者に船長の
地位は譲った)1846年(弘化3年)から数年間は
近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた
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1850年5月、日本に帰る事を決意帰国の資金を得るためゴールドラッシュに沸く
サンフランシスコへ渡りサクラメント川を蒸気船で遡上し鉄道で
山へ向かった数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。
そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り土佐の漁師仲間と再会する
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1850年12月17日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、
購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した
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嘉永4年(1851年)2月2日薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で
上陸を図り番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は薩摩藩や江戸幕府の
長崎奉行所などで長期間尋問を受ける
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嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く
その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬が
その英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)
で英語の講師をしているほか和洋折衷船の越通船建造にも
知識を活用されている
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繰り返される召し上げと放免
帰国から約2年後の
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嘉永6年(1853年)に何とか土佐に帰ることができたが、当時ペリーの
来航によって幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、幕府に
召聘され江戸へ行き直参の旗本の身分を与えられ軍艦教授所教授に
任命された。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が
授けられた。英会話書『日米対話捷径』の執筆『ボーディッチ航海術書』の翻訳
造船の指揮、講演、通訳,船の買付など精力的に働く
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安政6年(1859年)に英会話書を出版し藩校「教授館」の教授に任命
されるが、役職を離れ庶民に戻った。理由の1つには、もともと士分で
ない万次郎がアメリカ人とも臆することなく対等に交友することを
やっかむ者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに
話せるのは万次郎1人だったためペリーとの通訳に適任とされたが
(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中が
スパイ疑惑を持ち出したため結局ペリーの通訳[1]の役目から
下ろされてしまったが実際には日米和親条約の平和的締結に向け
陰ながら助言や進言をし尽力した
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万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書を交換するための
遣米使節団の1人として咸臨丸に乗ってアメリカに渡る船長の勝海舟が
船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため万次郎は代わって船内の
秩序保持に努めた(ここでも彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員に
そねまれることを恐れ付き合い方には注意していたとされる)
アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し身に着けていた日本刀を贈った
(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され第二次世界大戦の最中に
あっても展示されていたが後に何者かに盗難され行方不明になり
現在はレプリカが展示されている)
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文久元年(1861年)には小笠原諸島等の開拓調査を咸臨丸で行っている
雑司ヶ谷霊園の墓
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慶応2年(1866年)には土佐藩の開成館に赴任するまた、後藤象二郎と
長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔」を購入明治維新後、開成学校
(現・東京大学)の教授に任命される
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明治3年(1870年)普仏戦争視察団として欧州へ派遣される帰国後に軽い
脳溢血を起こし数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復するが
以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め政治家になるよう
誘われたが教育者としての道を選んだ
明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており
墓石は東京大空襲で傷ついている
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社会的影響
ジョン万次郎像(足摺岬)嘉永5年(1852年)、土佐藩の絵師
河田小龍(川田維鶴)により漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』
がまとめられた;坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと
言われ激動の幕末における影の重要人物である
アメリカの様々な文物を紹介し西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた
幕末の志士や知識人達に多大な影響を与えた,しかし、鉄道など言葉に
置き換えて説明することが難しいものは絵を描いて図解を試みたものの
絵がなんとも不得意で幼児並の絵を描くことしかできずに
ずいぶん苦労したようである
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人物
奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い
役人に咎められても続けていたという甘いものや、
うなぎの蒲焼が好物だったという逸話が残っている
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日本初
『ABCの歌』を日本に初めて紹介した日本で初めてネクタイをしたとも
言われる。初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。
日本人で初めて近代式捕鯨に携わった日本人で初めてアメリカの
ゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった
「新アメリカ航海術」を和訳している
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アメリカとの交流日本にいる万次郎の子孫はアメリカの
ホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けている。
また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となった
ニューベッドフォード市フェアヘーブン市の両市と姉妹都市盟約を
締結し現在も街ぐるみでの交流が続けられている
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ジョン万次郎と英語
ジョン万次郎は、英語を憶えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音
しており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっている
万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると
「こーる」=「cool」「わら」=「water」「さんれぃ」=「Sunday」
「にゅうよぅ」=「New York」など
実際に現在の英米人に万次郎の発音通りに話すと多少早口の英語に
聞こえるが、正しい発音に近似しており十分意味が通じるという
実験結果もあり万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、
日本人にも発音し易い英語として教えている英会話教室もある
万次郎は少年期に日本で基本的な学識を身に付けることなく米国に
渡ったため、通訳としては有能だったが、文章化された英語を
日本語に訳することが不得手だったとされる
そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた
明治以降は能力を発揮する機会に恵まれなかった晩年にアメリカ時代の
友人が訪ねてきたが、既に英語が話せなくなっていたといわれる
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