誰とでも仲よくなれる人もいますが、
そりが合わない、相性が悪い人との出会いも時々あります。
写真⬆は明治の建築家「下田菊太郎」が設計をした旧香港上海銀行長崎支店で
下田の作った建造物で唯一現存するものです。
国の重要文化財に指定されています。
下田菊太郎は秋田県角館の出身で、工部大学校に進みます。
ちょうど、辰野金吾が工部大学校の教授でした。
近代建築界の権力者であった「辰野金吾」は
(「プリンセストヨトミと辰野金吾」
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/5e31f89c1aba6b3f0e83296955176df6)
日本の近代建築の基礎を築いたお雇い外国人建築家
ジョサイア・コンドルから工部学校1期生の首席と認められ、
官費留学生としてイギリスに留学しました。
辰野金吾は何より出自にとらわれず努力と才能で立身出世が可能な
明治という時代を利用したといえます。
ハングリー精神があり、負けん気も強かったようです。
工部学校首席卒業とは、ヨーロッパからの帰国後、ジョサイア・コンドルの
就いていた地位を継ぐということです。
つまり、日本人の建築界の権力者になるということを確約されたわけです。
さて、下田菊太郎と辰野金吾はどうも相性が悪かったようです。
師弟の関係にありましたが、下田菊太郎は卒業1年前に
辰野金吾との関係に耐えられず学校を中退してしまいます。
下田はフランスで建築を学んで、主流(ジョサイアコンドルや辰野金吾のイギリス派)からは
外れていた山口半六(旧東京音楽学校 奏楽堂、兵庫県公館を建てた建築家)のもとに行きます。
山口半六の建てた奏楽堂(重要文化財)と兵庫県公館です⬇
その後、1889年(明治22年)アメリカに留学、
1895年(明治28年)AIA(米国建築家協会)免許試験に合格、
No471号を取得し、モナドノックビルに設計事務所を開設しました。
下田はアメリカで鉄骨設計を研究し、実践を積み重ねていたようです。
アメリカ人と結婚しアメリカに帰化もしましたが、
1898年(明治31年)一時帰国、東京に事務所を開き低廉鋼鉄建築法を日本に
普及させようとしました。
ところが、ここで建築界のドン、かつての教師、辰野金吾に妨害を受けます。
かなりひどい嫌がらせだったようです。
(あの東京駅を作った人なのに、、、と思ってしまいます)
1901年(明治34年)辰野は、下田の鉄骨鋼筋構造法に対して
「下田の如き小才子の言うことは皆出鱈目の大法螺である」と反対しました。
権力者に逆らっては東京で仕事ができません。
しかたなく、横浜で外国人を専門とする下田築造合資会社を設立することになりました。
そんな窮地に陥っている時に設計したのが
1902年(明治35年)香港上海銀行長崎支店です。
正面玄関から入ったところにある銀行の受付
窓
階段
天井
そして下田菊太郎の写真⬇
独自の生き方を貫くいい目をしています。
旧香港上海銀行は長崎市の洋館の中では最大級で、1階部分を連続アーチのアーケードとして、
2・3階部分にコリント式の円柱を通した大オーダーとし、
その上に三角破風の屋根をのせるなど、海側の正面性を重視したデザインとなっています。
昭和63年(1988)建築後80年以上経過した建物は老朽化が進み、解体が決定しました。
平成3年(1991)、長崎市民を中心に「旧香港上海銀行を守る会」が発足、
長崎市議会に建物の保存を陳情したり、街頭での署名活動などをしました。
長崎市も建物の調査・保存修理に着手、最終的には老巧化した建物を半解体修理すると共に
長い年月の中で失われた装飾部などの復元を行いました。
平成7年(1995)、建物は建設当初の姿となってよみがえり、
平成8年(1996)10月に「長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館」として開館したそうです。
下田菊太郎はこの設計が終わってから、上海へと家族で移って行きます。
彼は本当に明治時代の国際的な建築家ですよね。
上海で実績を残した下田は日本の帝国ホテルの設計をしてほしいと頼まれますが、
結局、それは後にフランク・ロイド・ライトに変更されてしまいます。
下田は洋風建築の上に日本式の瓦屋根を載せる帝冠併合式(後に帝冠様式と呼ばれる)を提案
していました。
しかし、帝冠様式が徐々に認められて行くのは下田が亡くなった後だったということです。
下田は自分自身を「建築界の黒い羊」と呼んでいたそうです。
不遇であったのか、光を浴びていたのか、、、、
しかし、旧香港上海銀行長崎支店は老朽化したと言って
あっさり壊されて消えていくのではなく、
惜しまれつつ、壊されるのでもなく、
市民に愛され、市民のサポートで復活していったこと
これは下田にとっての90年後の光の部分だったのではないでしょうか。
下田は故人となってしまいましたが、彼が心血を注いだ建物はとても大切にされているからです。
素敵な建物です。
本当に目を見張るようないいデザインだと思います。
参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/下田菊太郎
1981 林青梧「文明開化の光と闇 建築家下田菊太郎伝」相模書房 絶版
http://nagasaki-city.seesaa.net/article/31489142.html
畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 御雇い建築家ジョサイアコンドルの生涯』河出書房新社
にほんブログ村
にほんブログ村