
月島でもんじゃ焼きを食べてから、この日はスタート。
(お腹が空いていて、写真を撮り忘れました!)
月島もんじゃストリートから佃島までは徒歩10分弱です。

写真は佃島から石川島方面の景色です。高層マンションは大川端リバーサイド21です。
古い街から眺める新しい高層都市、その違いがまたおもしろいですね。
佃島とは⬇
佃嶋(つくだしま)で、現在の佃一丁目に当たる。1590年(天正一八年)八月一日、
徳川家康が関東下降の際、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、
1645年(正保二年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築島し永住することになり、
この島を故郷にちなんで佃嶋と命名した。
古い地図を見ると「田」の字の島が確認できる。
現在の地図を見ても、佃一丁目の形状はそのような形状をしている。
のだそうです。
佃煮の老舗の店が何軒かあり、お醤油のにおいがしてきました。
佃煮のルーツは、つまり大阪にあり、大阪の味なのかもしれませんね。

⬆は佃公園の中にある石川島灯台。
階段を上ってみると「公衆トイレ」でした。
ところで、最近読んだ柴田錬三郎の時代小説に石川島にあった人足寄場の話が出てきました。
石川島は造船の街、最近ではリバーサイドの高層マンション群が並ぶ街、と思っていましたが、
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改方・長谷川平蔵宣以が作らせたものだと
いうことです。
「鬼平」は実在の人物で、相当な人格者だったようです。
人足寄場は正式には加役方人足寄場(かやくがたにんそくよせば)といい、
10代将軍徳川家治の時世に老中松平定信に長谷川平蔵が建議をし、創設した
軽罪人・無宿者の自立支援施設です。
時代は天保の大飢饉で死者が50万人も出た頃です。
農村は崩壊し、無宿者、行くところのない浮浪者などが江戸に続々と集まってきました。
人々の心はすさみ、その結果、犯罪も増えてしまいました。
そこで、佃島と石川島の間にあった湿地を埋め立て、そこに人足寄場を作り、
軽犯罪を犯した者、無宿人、などの収容所を行ったのです。
江戸時代にこんな画期的な収容所が作られているとは思いませんでした。
いくつのかの特徴を上げてみます。
・収容された人々に最初に「寄場人足共へ申渡書」 を読みあげ、
人足寄場が犯罪者を収容する牢屋ではないことを強調した。
・人足寄場で守るべきことの条目を全員にわかるよう告げた。
・技術のあるものにはその仕事をさせ、手に職を持たない者には出所後のことを考え、職業訓練をした。
・作業からでた収益金は「人足寄場の経営」「それぞれへの作業報奨金」「出所後のための貯金(一時預かり)」
「日常生活に必要な物品の購入」に当てた。
・病人のための病舎を作った。
・読み書きを教える学校を作り、精神訓話も行われた。精神的にも自立できるような配慮がなされた。
・仕事を怠ける者にはたたき刑が行われた。
・寄場から逃げた者は死罪となった。
・出所のときには預かり金を与え、職に就く時に必要であれば身元を保証した。
江戸時代にこのような更生施設があったとは、驚いた事実です。
厳しくも人情味にあふれた長谷川平蔵の世界ではないでしょうか。
しかし、一時は500人以上が寄場にいたため、その運営は大変だったようです。
つまりお金がなかった、ということです。
ここを長谷川平蔵はその型破りな方法で乗り越えます。
まずは、幕府からお金を借り、銭相場に投資して利益を出し、運営費に回します。
また、大名屋敷跡を有力商人に資材置き場として貸し出し、賃料をもらう、など
どうやら商才にも長けていたのかもしれません。
優秀な人だったのでしょう。
このように佃島や石川島には様々な歴史があるのだな~、と調べてみてわかりました。
参考にした資料は以下です。
http://www.f-banchan.net/tokyo/tukuda/tukuda.htm 佃島
http://ja.wikipedia.org/wiki/加役方人足寄場
http://ksei.exblog.jp/9023055/断想 石川島人足寄場跡
http://www.digistats.net/doc/isj.htm 石川島人足寄場
さて、この日は炎天下でしたが、佃島、石川島とはまたひと味違う
築地に、佃大橋を渡って向かいました。
築地は明治維新後、外国人の居留地ができたところです。
たくさん書きたいことがあるので、次回に回します。


勉強になりました(^^)
佃島、石川島、築地の散歩って本当に面白いですね。