散歩と俳句。ときどき料理と映画。

ノートゲルト

立川諏訪神社の骨董市で見つけたノートゲルトだが、数百枚はあっただろうか。そのすべての絵を見たわけではないが、絵の主題はその地方に由来する昔話、甲冑を身につけた中世の騎士、風土を描いたもの、聖母マリアとその幼子イエスなど宗教的なものなどが多かったが、カリカチュアライズされた世相を描いたものも多数あった。
一枚わずか300円なのだが、ビンボー人は悩んだあげく四枚しか買えなかったのである。

一枚一枚袋に入れられたノートゲルトはすべて未使用である。コレクターが手離したものだろうか。

ノートゲルトの発行は三つの時期に分けられる。
第一期 1914年の第一次世界大戦の開戦と同時に少額鋳貨の流通の絶対的不足を補うために、都市や地方公共団体が発行したもので、自助のための法的根拠を欠く緊急措置として発行され、実際に流通した紙幣。ノートゲルトが初めて出現したのは1914年7月31日。発行元はブレーメン市ブラオハウス公共事業体で額面は1マルク、2マルク、2.5マルクの紙幣である。この年だけでも452か所から5500種類のノートゲルトが発行されている。この時期のノートゲルトは単色刷りの簡素なものが多い。
第二期 1916年以降従来の国家発行の金属貨幣は鉄製の硬貨に順次置き換えられ始め、1917年になると鉄製の小額硬貨は大量に流通を始めるが、地方によっては小額硬貨が再び不足し始める。ドイツ中央銀行への預け金を条件に発行を許可された紙幣。これに便乗する形で、多種多量の彩色された小額紙幣が蒐集家向けに発行される。蒐集家向けに手の込んだ彩色の美しい紙幣が作られ、蒐集家のマーケットでは高い値段で取引された。1915年から1922年までの間に、3658か所から36000種類が発行されている。
第三期 戦後の混乱期に発行されたノートゲルトは、インフレーションの進行に追いつかないドイツ中央銀行紙幣の印刷と配送の空隙を埋めるものとして発行された。この時期はシリーズもの、高名な絵描きの筆になるもの、内容的には歴史事象や故事に題材を求めたものなど多岐にわたる。

いちばん大きなもので左右94ミリである。

買い求めた四枚のうち、図版のいちばん下、左の農夫を描いたノートゲルトは1921年頃のものである。ザクセンのシュメルン発行の25ペニヒ紙幣。ドイツ人がフォークでヴェルサイユ条約を堆肥の山に投げ捨てている図である。左右に7つずつ並んだ髑髏は、アメリカ大統領ウィルソンが1918年1月に示した14か条の和平提案が死文化したことを表している。

大妻女子大学教授・森義信氏の『ノートゲルト学事始め』には次のような記述がある。
「ノートゲルトに描かれた絵画のなかには、時代や社会の実相を伝え、国民の心情を表出したものが見られた。第二期から第三期のノートゲルトを買い求めたのは、もっぱら蒐集家たちであったと言われるが、決してそれだけではなかった。(略)券面に描かれた絵画を通して、戦中・戦後のドイツ国民の苦渋・悲哀を幾ばくかは読みとれたと考える」

 1000億マルク紙幣

このあと10数年を経て、ドイツはヒトラーに率いられたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の台頭を許すことになる。

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