散歩と俳句。ときどき料理と映画。

アンソニー・クイン 11 フレッド・ジンネマン1

アンソニー・クインについて書き出したのは7月23日の『その男ゾルバ』が第1回だった。
フィルモグラフィーによればこの映画は1962年の『アラビアのロレンス』の2年後の1964年の出演作で、共同製作者としてもクレジットされている。

この年には『日曜日には鼠を殺せ』がある。
監督はフレッド・ジンネマン、共演はグレゴリー・ペック、オマー・シャリフ。
アンソニー・クインはこのふたりとの共演作が多いような気もする。

『日曜日には鼠を殺せ』のアンソニー・クインとグレゴリー・ペック。

『日曜日には鼠を殺せ』中央がオマー・シャリフ。

監督のフレッド・ジンネマンは『真昼の決闘』(1952年)を始め『地上より永遠に』(1953年)、『わが命つきるとも』(1966年)、『ジャッカルの日』(1973年)、『ジュリア』(1977年)などだが、こうして見るとワタシはこの監督の作品をけっこう観ていることに気づいた。

1950年代の作品はもちろんテレビ放映で観ているのだが、『わが命つきるとも』は劇場公開のさいに観た覚えがある。
国内での公開は1967年7月だからワタシは16歳か。
よくもまあこんな渋い映画を観にいったものである。
16世紀のイングランド国王ヘンリー8世の離婚をめぐる〈騒動〉の渦中で、信念を貫き死刑となったトマス・モアを描いたこの映画を、ワタシがどれだけ理解できたかは甚だ怪しいが、それでも会話の多い2時間に及ぶこの作品に退屈することはなかった。

『わが命つきるとも』

『わが命つきるとも』のパンフレット。このころは封切り作品を観たさいにはパンフレットはよく買っていた。

1907年にオーストリア・ウィーンで生まれたジンネマンは、20歳になりフランスに渡りパリの映画撮影技術学校で映画作りの基礎を学び、ドイツのベルリンでカメラマン助手の仕事に就く。
そして1929年にアメリカに渡る。
ちょうど世界恐慌でウォール街が崩壊した日にアメリカのニューヨークに到着した。

ハリウッドで役者やいくつかの映画で第二班監督、10分ほどの短編映画の仕事についたのち、B級映画を撮ることになるが、評価は低かった。

ジンネマンの映画が評価されたのは1952年公開の西部劇『真昼の決闘』ということになる。
ワタシはこの映画をテレビでしか観ていない。
それまでの強くタフな男たちが中心だった西部劇に、孤独で弱さをもった保安官ウィル・ケインを演じたゲイリー・クーパーの演技は高く評価されるとともに、ジンネマンの評価も高まった。

 フレッド・ジンネマン

ワタシが観たのはいくつのころだったろうか。
この国では1959年のNHKでの放映が最初となるらしい。
たぶんこの時ではない。

1961年のフジテレビ系の〈テレビ名画座〉で放映されている。
この〈テレビ名画座〉では、5月の週の月曜日から金曜日まで毎日午後3時から、合計5回放送されている。
たぶんこの番組で観たのだろう。

夜ではなく昼の3時からの放映されたこの〈テレビ名画座〉はよく憶えている。

ここでは1930年代から1950年代にかけての洋画が頻繁に放映されていた。
『真昼の決闘』以外の放映された作品をいくつか挙げてみる。

『にんじん』(ジュリアン・デュヴィヴィエ 1932)
『オルフェ』(ジャン・コクトー 1950)
『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン 1952)
『美女と野獣』(ジャン・コクトー 1946)
『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ 1948)
『ミラノの奇蹟』(ヴィットリオ・デ・シーカ 1951)
『ジャングル・ブック』(ゾルタン・コルダ 1942)
『会議は踊る』(エリック・シャレル 1931)
『野ばら』(マックス・ノイフェルト 1957)
『夜ごとの美女』(ルネ・クレール 1952)
『大いなる幻影』(ジャン・ルノワール 1937)

『にんじん』

『自転車泥棒』

などなど。

今ではよほど特別な機会がない限り観ることのできないラインナップである。
もちろんビデオやDVDで発売されているものも多いが。

1961年から始まり1968年に終了する〈テレビ名画座〉でワタシは10代のころ歴史的名画に触れる機会を持ったということになる。

〈続く〉

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