4年前の春に訪ねた福岡県大野城市の地禄神社。実家の裏のすこし先にある神社だが初めて行った。
最初の鳥居。
階段を登ると境内に入る鳥居が現れるが、これは鳥居と呼ぶのだろうか。左の柱の上部には梅の花が彫られている。近くの太宰府天満宮と関係が深いのだろう。
縁起書きによれば
祭神は埴安命〈ハニヤスノミコト〉埴安姫命〈ハニヤスヒメノミコト〉。
この二神は伊那那岐〈イナナキ〉、伊那那美〈イナナミ〉の二柱から土の神として生まれたとある。
宝永6(1709)年に編纂された「筑前風土記」を初め、江戸時代の地誌には〈うど〉という所に地禄神社ありとの記述があると書かれているが、その〈うど〉がどこを指すのか不明である。この周辺でいまでも残っている地名としてワタシが知っているのは〈瓦田〉〈釜蓋〉などがあるが、〈うど〉がわからない。
また、〈地禄とは大地から与えられる幸であり土地を富ませるの意味である、農耕社会に密接に結びついた、土と水の神として祀られた神社である〉との記述も見える。
江戸時代には「天神」又は「田神」と呼ばれていたが明治以降は地禄神社と称するようになった。「天神」は大野城のすぐ近くの太宰府天満宮との関係だろうか。「田(の)神」は作神、農神、百姓神、野神であり、穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も併せもつが、とくに山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で知られる農耕神である。
大野城市には牛頸山や大城山など、いまではレジャー施設が整えられた山があるから、山の神信仰も強かったのかもしれない。水神は農耕にはなくてはならない信仰対象だし、この神社から1㎞ほど先には御笠川が流れている。
牛頸山から見下ろす大野城市。
大野城市の名前の元になった大城山(おおぎやま)の城跡。
調べてみるとおもしろいことがわかった。大野城市には【仲畑】【畑詰】【釜蓋】【瓦田】【白木原】の5つの地禄神社がある。大野城市という新しい市制を無視して近隣の土地も含めると、さらに【春日】(春日市)【大佐野】(太宰府市)の2つが加わる。
ワタシが訪ねた神社はどうやら釜蓋の地禄神社のようである。実家があったと書いたが、ワタシがこのあたりで暮らしたのは福岡市内から移ってきた15歳過ぎからの5年ほど、しかもこの家ではなかったから、土地のことはよくわからないというのが実情である。
訪ねたのはちょうど桜の花が散るシーズンで、人のいない境内は花びらに覆われていた。
二匹の狛犬に守られた本堂は吹きさらしである。
扁額。
四方が開いたお堂に入ると奉納された扁額の絵馬がかかっている。どれも吹きさらしのお堂にあるせいか、ほとんど絵が消えかかっている。かろうじて奉納年がわかるものもある。とくに古いものはないようだが、消えかかった絵馬では断言はできない。年を判別できるものでいちばん古いものは昭和9年奉納とあるから、1934年。敗戦間近の昭和19(1944)年奉納の絵もある。戦勝祈願なのかもしれない。絵馬はもともとは神馬を描いたものだから、合戦図も多い。川中島合戦を描いたものもある。
描かれているのは竹林だろうか。奉納年不明。
川中島合戦の絵。
昭和9年奉納。「當子供中」とは子どもたちの奉納なのだろうか。
昭和19年奉納。ここにも「子供中」。
御笠川。太宰府市の宝満山を源とし、鷺田川(筑紫野市)、大佐野川(太宰府市)、牛頸川(大野城市・春日市)、諸岡川、上牟田川(福岡市博多区)などの川が合流し福岡市まで流れて博多湾に注いでいる。下流の福岡市博多区周辺では、博多の人々によって石堂川と呼ばれている。
すこし高台になった境内からの見晴らしは悪くはない。おそらくこのあたりが農村地帯だった明治・大正時代までは、田畑が続きその向こうに大きな御笠川の流れが見えたことだろう。
いまでは農地はほとんどなく、学校や工場、大型の近郊型量販店やパチンコ屋が並び、福岡市のベッドタウンとして小さな住宅とマンションが立ち並ぶ。
母が施設に入院してからはこの借家の実家も解約したから、もう行くこともない土地である。