散歩と俳句。ときどき料理と映画。

Y・Tくんの通知表 その2

前回書いたように昭和16(1941)年、國民學校令の施行により、尋常高等小學校は國民学校となっている。
日中戦争(中国への侵略)の長期化と戦線の拡大は、国内の地域社会や学校教育制度へ大きな影響を与えたのである。
学校においても戦時体制の強化がはかられ、
「銃後の守り」「戦意の昂揚」「体力増進心身鍛練」「食糧増産」「資源回収」の実践がつよく求められることになる。
同時に同年の対英米開戦はさらに戦時体制に拍車をかけることになる。

無謀な世界戦争へ突入するこの国にあって、Y・Tくんは國民学校初等科第五學年を優秀な成績で無事修業した。
昭和18(43)年である。あと二年半で戦争も終わる。
しかしまだまだ困難な時代である。
翌年には学童疎開が待っているし、アメリカ軍による本土空襲も日常化していく。
伸びきった兵站線からの絶望的な退却、昭和20(45)年の沖縄戦による膨大な死者、
特攻という愚かな戦術、そして二個の原爆の投下まで、一億玉砕などと声高に叫ぶこの国の天皇と軍部、
政治家たちは、本気で勝てる戦争だと思っていたのだろうか。

左右260ミリの二つ折り、天地182ミリ。昭和14年度の通知表よりも小さくなっている。また、紙質も悪い。経済の悪化が原因だろうか。前回「現在の第二日野小学校は、施設一体型の公立小中一貫教育を日本で最初に導入した学校らしい」と書いたが、これは間違いである。正しくは、2006年に品川区立日野第二小学校は区立日野中学校と一体化され、6・3制を廃止し、9カ年を4・3・2年で分ける小中一貫校となった。2016年には品川区立日野学園として新設された。

そういった社会の中でY・Tくんがどのような少年時代を送ったのか、この通知表からうかがうことは難しい。 五年生ということは修了時には11歳である。
通知表に記載されている男子の平均身長は135・1㎝、体重は29・8㎏だが、Y・Tくんは122・2㎝、22・8㎏と小柄である。
それでも体操は良の上であるし、武道も一學期が良の上、二學期、三學期は優である。
おそらく小柄ながら活発な少年だったのだろう。 この時期の子ども達がどのような生活を送っていたのか、本当のところはワタシにはわからない。
ただおかしな縁から手に入れた通知表の持ち主であるY・Tくんが、戦中戦後の厳しい社会を無事生き延びていてくれたらと願うのである。
敗戦の昭和20(45)年、Y・Tくんは13歳である。Y・Tくんは戦後の思春期を、どのように送ったのだろう。 

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