ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

愛しいひと

2005年12月15日 23時04分33秒 | 
愛する事は容易いけれど
愛を感じる事は難しい
肩触れ合うほど僕が君の傍にいても
うなじの後れ毛に見とれていても
僕の愛に君は気づかない


たとえばそれは硝子越しの口吸い
感じるはずの柔らかな温もりは
ショーウィンドウの冷たさに遮られ


愛とはひとりよがりの雪景色
はらはらと身悶えては
静かに散りゆきてはらり


愛を与える事は容易いけれど
愛を受けとめる事は難しい
背を向けた僕の無常に涙を流す
君の嗚咽は切なく悲しくとも
僕には君の愛を受けとめる事は出来ず


たとえばそれは冬桜の美しさ
凍てつく浮き世を堪え忍び
人知れず墨色の渓谷に咲き乱れ


愛とは狂おしくもあり切なくもあり
音もなく降りしきる牡丹雪は涙の重さ
泣きぬれて待ちわびて白き闇に漂いて舞う


朧気な愛の汀を彷徨えば
再び出逢うことの無い君への追憶
膝下まで凍えた白い溜め息は
止むことの無い逡巡のかたちだから
丸く悴む背中に聞こえくる
ヒールの音は愛の幻
コツコツと賛美歌聞こえくる街路に響き


Merry Christmas
僕の愛しきひとよ




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今夜はツリー狩り

2005年12月14日 20時56分22秒 | 日記のようなもの
  いよいよクリスマスを来週に控え、あちこちで綺麗なツリーを見かけることと思います。今夜は汐留日本テレビ周辺のクリスマスツリーを撮影してきました。
  日テレPLAZAを中心に4色のキャンドルツリーが飾られています。最初の写真のツリーは4.5メートル、2番目のツリーは9.2メートルの高さがあります。3番目と4番目のツリーはカレッタ汐留内に飾られておりそれぞれ高さ4.5メートルです。













  日テレPLAZ地下2階から1階のツリーを望んだ写真と、1階から東京タワーを望む夜景です。








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金魚再び

2005年12月13日 14時38分47秒 | 日記のようなもの



  会期もあと僅かとなった(18日の日曜日まで)プーシキン美術館展に行ってまいりました。目的は言わずと知れたマティスの金魚を観るためです。次に会えるのは何時になるのか分からない金魚。この目に、心にしっかりと焼き付けてきました。
  天気も良くて小春日和とまでは行きませんでしたが、それでも耐えられぬほどの寒さでは無くて会場は大勢の人々で溢れ返ってしました。2度目なので、お目当ての金魚以外はざっと眺めるにとどめました。
  そして金魚、やっぱり良いです。良すぎます。金魚鉢の置かれた丸テーブルの足などとってつけたように描かれていますし、左上の水草らしきものもデフォルメされていて、ある意味童話の挿絵の趣があります。ラファエロとかレンブラントあたりがお好きな方には、もしかするとつまらない絵とうつるかも知れません。それでもYockには例え様も無い程に素晴らしい絵に思えてなりません。
  存分に眺めてから前回鑑賞しなかった版画を観ることにしました。ロートレックの版画もよかったのですが、印象に残ったのはゴーギャンの木版画の3作品と同じく、ヴラマンク作のモンラールです。木版画、多く展示されたした石版画よりタッチが柔らかく曖昧にも思える輪郭がかえって心を揺さぶります。
  最後にピカソのアルルカンと女友達に別れを告げて会場を後にしました。美術展巡り、これからも行いたいと思います。でも、入場料、ちょっと痛いかなと思ってしまいます。まあ、いろいろな意味で費用が掛かるでしょうし、幾ら入場料を取っても採算取れないのでしょう。でも、もう少し安くならないのかな?




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吉原神社を訪ねて

2005年12月11日 22時06分49秒 | 日記のようなもの




  

  昨日、今日と吉原近くのあるマンションへ仕事で行ってまいりました。吉原、男性の方なら良くご存知だと思います。江戸時代より遊廓で栄え、現在は特殊公衆浴場(ソープランド)の街、それが吉原です。 

  仕事の用事とはいえ折角吉原辺りまで来たのだからと吉原神社まで足を伸ばしました。ソープランド街を少し外れたところに神社はありました。吉原大門の交番より徒歩7分程度の場所にあります。こじんまりとした神社ながら寄進も豊富なのか良く手入れがなされており遊廓の鎮守らしい風格が漂います。

  それにしても男の欲望は江戸時代も今も変わらぬようです。最寄の駅はJR山手線鶯谷駅からタクシー若しくはお店の送迎車、または日比谷線三ノ輪駅より徒歩20分弱という辺鄙な場所にありながら日の出から夜12時まで、男達の欲望を処理しつづける街が吉原です。お店の中では売春防止法にて禁じられているはずの売春行為が今も昔も繰り返されています。

  働く女性は売春婦と言う世界でもっとも古い職業に就いていて、江戸時代には女郎、今ではソープ嬢と呼ばれています。昔は凶作の為、親兄弟の為に身売りされた貧農の娘達が女郎となり、今では、どちらかと言えば自ら招いた借金地獄等により身を落とすケースが殆どかなと思います。

  欲とお金に翻弄される人間、シェークスピア作のヴェニスの商人と同様の事が何世紀もの時代を経ても尚未だに繰返されているようです。多分、人間が絶滅するまで止む事は無いのでしょうけど。

  さて、吉原のソープ街から少し歩いたところに商店街があります。ご多分に漏れずシャッター商店街となっており、日曜日の今日、昨日と同じ定食屋で昼食と取ろうと歩いていると、アーケードの下では住所不定の方々があちらこちらでダンボールを敷いて寝ています。まあ、身なりからすると純粋なるホームレスでは無く、日雇い労働者のようで、仕事にあぶれ寝ている感じです。そして、今更定職には就けないであろう老人達が暇そうにぶらぶらしています。

  歩いても数分のところでは春を売る女性とそれを買う男達の街があり、ここでは用済みの男達が、所在なげに屯している。彼らにしても高度成長期には高層ビルや高速道路の建設に従事して社会に多少なりとも貢献していたはずです。そんな彼らも働けなくなれば用済みとなって死を待つようにして「唯、生きている」のです。

  最近、工事現場に賃金日払いの魅力に惹かれた若いフリーターが大勢押しかけて、中高年の低所得労働者より仕事を奪っているとか。雇う側にしても、事故率の高い、くたびれ中高年より若年者を雇用したほうが、無理も利くし現場作業も活気もあって都合が良いのでしょう。

  人生とは結局のところ何だろうか、そんな答えの出そうに無い、余計な事まで考えてしまいました。






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蠍の刺青

2005年12月10日 20時29分22秒 | 
わたしは蠍
孤独な蠍
心に浮かぶあなたの姿
思い出は心の痛み
耐える事しか
わたしは知らない



わたしは蠍
虚しい蠍
流れる砂はあなたの幻
ひとり見つめて
逢いたさ募る



わたしは蠍
寂しい蠍
泣きたいときは砂丘の影で
息を潜めて
わたしは偲ぶ
あなたの優しい温もりを



わたしは蠍
蠍の刺青
聖夜の静寂にあなたを想い
孤独の砂漠で
あなたを待つの

月の砂漠であなたを待つわ



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M と L

2005年12月09日 00時18分35秒 | ここだけの詩
僕がMなら
君はL
それが僕らのバイブルだった

崩れた壁の瓦礫の中から
拾い集めたイズムの屍

僕が赤なら
君は青
それが僕らの頭脳だった

くだらない言葉を交わし
MとLの偉大さを褒め称えた

今じゃMはインリン様のまたぐら
今じゃLは安売りたまごのサイズ

やつらに引き倒された君の姿は
あまりにも滑稽だったよね

僕はMだった
君はLだった



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手毬唄

2005年12月08日 21時51分15秒 | 
夢から紡いだ淡い期待を束ね
双の棒針で器用に操る
操る毎に淡い期待は確かな予兆に変わり
なまめかしく揺らめいて
蠢いて
少女は艶やかな女人となる


月の満ち欠けを赤い細布で数え
確かな予兆は五色の手毬
弾み
弾みだして
内へ内へと傾いていた想いの切っ先は
抉り出す不揃いな愛と欲との枡くずし


背丈ほどの柄杓で汲み上げた糖蜜を
襟足から胸元にとろり
滴り落としては上顎と下顎の裂け目より
ちらり覗かせる
赤い細布で山蚕をねぶり


弾む手毬は一人遊び
胸に抱いた手毬を奈落に転がし
口ずさむ手毬唄の一節
満たされぬ
満たされぬまま花一輪の茎を折る


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優しさの裏側(優しい関係について)

2005年12月07日 22時23分24秒 | 詩の背景
 
  優しさ、それは心の傷の深さに比例するようです。心の痛みを知らなければ人はなかなか優しくはなれないのかなと思います。
  特に男女の仲の場合はそうじゃないのかな?男と女が出会い恋に落ち、やがて愛し合うようになるけど何故か上手くいかなくなって傷つけあい、そして別れの時を迎える。
  残ったのは楽しかった思い出と心の傷。どうしてあの時あんな態度を取ったのだろう、どうしてあんな付き合い方をしたのだろう。悔いとも言えると思いますが、そんな傷を負いながら傷の癒える間も無く再び出会いがあり、恋に落ちていく。そんな事の繰り返しが優しさを育むのかも知れません。
  まあ、愚かというか愚かなのでしょうが、愛さずにはいられないのが人(特に男性だったりして)の哀れな性なのかな?「優しい関係」はそんな男の優しさを詩にしたものです。愛し愛された女性と別れた事に贖罪の念にかられ、また別れた事への後悔の気持ちが今付き合っている女性への優しさとなる。学習効果ってやつかも知れませんし、良く言われるように男のほうが未練がましいのかな。だから、世の女性は優しい男性には気をつけた方が良いのかな、その優しさは貴方に向けたのではなく、彼の心に映る元カノの残像に向けられたものなのかも知れませんよ(苦笑)

優しい関係(現代詩フォーラム)
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=56704



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朗読の聴き方

2005年12月05日 23時44分24秒 | 詩に関わる話
  昨夜NHKで宮沢賢治に関する番組(イーハトーブ幻想曲~宮沢賢治・音楽の旅)を放映していました。
  たまたまNHKにチャンネルを合わせていて視聴したのですが、チェリストの倉田澄子さんが賢治縁の地である県立花巻農業高等学校(旧花巻農学校)を訪ねたり賢治の作詞作曲した曲の紹介、演奏及び歌詞、詩の朗読を聴く事が出来ました。
  特に印象的だった曲は精神歌という歌です。この曲の作曲は賢治自身ではなく川村悟郎という方で当時盛岡高等農林学校の学生さんで、賢治とふたりで宿直時などに学校のオルガンで曲の手直しを行っていたエピソードが宮沢賢治の詩の世界というサイトに紹介されています。そして、この歌は今現在も花巻農業高校で歌い継がれているとの事。また、賢治祭の最後には全員で合唱する慣わしになっているそうです。
  この歌の歌詞は文語体ですし、普段聴いている歌とは異なり歌詞の意味はかなり捉えずらいと思います。それでも聴く人の心を捉えて放さないのは何故でしょうか。それは番組で朗読された詩篇にも言える事です。
  言葉の意味を頭で考え理解する作業を行うのではなく、心で直接言葉を捉える事が詩の朗読を聴く際に必要なようです。こう書くとテクニカルな面を強調しているように思われてしまうかも知れません。しかし、私達が歌を聴くとき歌詞全体の意味を総て理解しながら聴く事は通常は行わないのではと考えます。
  ふと耳にした歌のフレーズが耳に残る、歌を聴いて胸を締め付けられるような感動を覚える、これらは心で歌を聴いているからだと思います。だとしたら詩も同様かなって考える訳です。
  普段目にする書かれた詩を読む作業とは全く別の地平で詩を味合う事、それが朗読かなって思います。心を開いて、無心の境地で詩を受け入れてみる。言葉の意味自体を捉えるのではなく、心に響く音として受けとめてみる。朗読の正しい(?)聴き方はこんなものかなって思います。
  どうやら、書かれた詩ばかりに触れている弊害なのかも知れません。言葉はそもそも生きているものであり、書くことは、それらを記録する手段にすぎないのですから。


    精 神 歌

          宮澤賢治作詞

          川村悟郎作曲

1 日ハ君臨シ 輝キハ 

  白金(ハクキン)ノ雨 ソソギタリ

  我等ハ黒キ 土ニフシ 

  マコトノ草ノ 種マケリ

2 日ハ君臨シ 穹窿(キュウリュウ)ニ

  漲(ミナギ)リワタス 青ビカリ

  ヒカリノアセヲ 感ズレバ

  気圏(キケン)ノキワミ 隈モナシ

3 日ハ君臨シ 玻璃(ハリ)ノマド

  清澄(セイチョウ)ニシテ 寂カナリ

  サアレマコトヲ 索メテハ

  白堊ノ霧モ アビヌベシ

4 日ハ君臨シ カガヤキノ

  太陽系ハ マヒルナリ

  ケハシキタビノ ナカニシテ

   



宮沢賢治の詩の世界
URL: http://www.ihatov.cc/index.html



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