ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

朗読の聴き方

2005年12月05日 23時44分24秒 | 詩に関わる話
  昨夜NHKで宮沢賢治に関する番組(イーハトーブ幻想曲~宮沢賢治・音楽の旅)を放映していました。
  たまたまNHKにチャンネルを合わせていて視聴したのですが、チェリストの倉田澄子さんが賢治縁の地である県立花巻農業高等学校(旧花巻農学校)を訪ねたり賢治の作詞作曲した曲の紹介、演奏及び歌詞、詩の朗読を聴く事が出来ました。
  特に印象的だった曲は精神歌という歌です。この曲の作曲は賢治自身ではなく川村悟郎という方で当時盛岡高等農林学校の学生さんで、賢治とふたりで宿直時などに学校のオルガンで曲の手直しを行っていたエピソードが宮沢賢治の詩の世界というサイトに紹介されています。そして、この歌は今現在も花巻農業高校で歌い継がれているとの事。また、賢治祭の最後には全員で合唱する慣わしになっているそうです。
  この歌の歌詞は文語体ですし、普段聴いている歌とは異なり歌詞の意味はかなり捉えずらいと思います。それでも聴く人の心を捉えて放さないのは何故でしょうか。それは番組で朗読された詩篇にも言える事です。
  言葉の意味を頭で考え理解する作業を行うのではなく、心で直接言葉を捉える事が詩の朗読を聴く際に必要なようです。こう書くとテクニカルな面を強調しているように思われてしまうかも知れません。しかし、私達が歌を聴くとき歌詞全体の意味を総て理解しながら聴く事は通常は行わないのではと考えます。
  ふと耳にした歌のフレーズが耳に残る、歌を聴いて胸を締め付けられるような感動を覚える、これらは心で歌を聴いているからだと思います。だとしたら詩も同様かなって考える訳です。
  普段目にする書かれた詩を読む作業とは全く別の地平で詩を味合う事、それが朗読かなって思います。心を開いて、無心の境地で詩を受け入れてみる。言葉の意味自体を捉えるのではなく、心に響く音として受けとめてみる。朗読の正しい(?)聴き方はこんなものかなって思います。
  どうやら、書かれた詩ばかりに触れている弊害なのかも知れません。言葉はそもそも生きているものであり、書くことは、それらを記録する手段にすぎないのですから。


    精 神 歌

          宮澤賢治作詞

          川村悟郎作曲

1 日ハ君臨シ 輝キハ 

  白金(ハクキン)ノ雨 ソソギタリ

  我等ハ黒キ 土ニフシ 

  マコトノ草ノ 種マケリ

2 日ハ君臨シ 穹窿(キュウリュウ)ニ

  漲(ミナギ)リワタス 青ビカリ

  ヒカリノアセヲ 感ズレバ

  気圏(キケン)ノキワミ 隈モナシ

3 日ハ君臨シ 玻璃(ハリ)ノマド

  清澄(セイチョウ)ニシテ 寂カナリ

  サアレマコトヲ 索メテハ

  白堊ノ霧モ アビヌベシ

4 日ハ君臨シ カガヤキノ

  太陽系ハ マヒルナリ

  ケハシキタビノ ナカニシテ

   



宮沢賢治の詩の世界
URL: http://www.ihatov.cc/index.html



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