ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

オノマトペについて

2006年03月12日 23時53分30秒 | 詩と言葉
 擬態語、擬声語、歌なり詩のリズムを醸し出すことばのようです。今朝の日経、詩歌・教養欄では小池光(歌人)さんが佐佐木幸綱さんの新歌集「百年の船」を取り上げていて、幾つかの歌を紹介されています。で、「百年の船」では一貫して短歌に原初の生命感を回復することを試みてきた佐佐木さんが新しいオノマトペに挑戦されているとのことです。
 あまり引用すると著作権の問題も発生しそうなので、1首ほど

蛍烏賊とるとつぎつぎととととと
          出でゆきにけり船の後姿(うしろで)

 解説によると「とととと」は船のエンジン音で五つ目の「と」は助詞として用いられているとのことです。

 う~ん、なるほどなあと思ってしまいます。オノマトペ、語感は何だかアイヌ語っぽい(差別語でしたらごめんなさい)のですが、れっきとしたフランス語なんですよね。

 で、このコラムを読んでハタと思ったのは現Fへ千月話子さんが投稿された詩作品「香り 触れよし」を拝見したときに感じ入ったオノマトペの効果的な使い方です。
 「香り 触れよし」は小詩集、ソナチネのスタイルを取られていて4つの詩作品により構成されています。どのようにオノマトペが用いられているか簡単にご紹介しますと

 「黄 緑」では
 柚子ぽんぽん/柚子とんとん
 ひらひら させて/はらひら させて
 「白 壇」では
 ふわら ふわら 
 「和三盆」の
 もぎゅる もぎゅる/歯を押し返す

 このように詩にリズムを繰り出すって感じで効果的に用いられていて、しかも短調なリズムではなく複雑に変調させているところが非常に素晴らしいと思います。この詩作品何故か現Fではあまり評価されていなくて、とても残念に思います。
 千月さんの詩、いつも楽しみにしているのですが千月さんは寡作で在られる故に、新作が待ち遠しくてなりません。

 コラムでは、短歌におけるオノマトペの用法について説明されていて「同じ二音を繰返す+助詞(例:わんわんと)」、「三音を繰返す+助詞(カランコロンと)」5音、7音と分節化するのがオノマトペの基本とのことです。

 千月さんには到底及ばないにしても、オノマトペに挑戦したくなったYockです。

千月話子さん
香り 触れよし
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=747
(現代詩フォーラム)



にほんブログ村 小説ポエムブログへ
 

五感に訴える詩を書きたい

2005年10月04日 21時48分03秒 | 詩と言葉
  最近、朗読に興味を持つようになりました。でも、自ら朗読する事までは、まだ考えていません。それでも朗読を前提として考えてみると、読みに頼るだけの詩には物足りなさを感じるようになりました。

  まずは視覚に訴える。綺麗に整った行変え詩、行間の程良さとか詩全体のバランスに気を使いたいです。見た目の綺麗な詩ほど読みたくなりませんか。で、横書きよりも縦書きの詩を意識してしまいます。

  聴覚に訴える詩とは、そんな視覚的バランスを保ちながら一行毎に耳に残る詩、話し言葉として理解出来る詩なのかなと考えます。耳から入る言葉、当然聞き直しは出来ないし、言葉に当てた漢字の違いまで聞き取れないと思うので、極力単純なセンテンスを意識してみたいです。

  嗅覚と味覚、これは詩自体を嗅いでみたり、味わったりは出来ないけど匂いを感じさせたり、味を感じさせる事は視覚、聴覚を介して可能のように考えます。思いっきり辛いカレーの詩とか考えてみました。聞くだけで、鼻にツンとくる香辛料の匂い、舌先に感じる辛さを表現できそうです。

  触覚も同様かな、たとえば女性の肌にあたかも触れているように感じさせる詩、良い感じです。

  それからリズム感でしょうか、耳に入りやすく体を揺さぶるようなリズムが、五感に直接訴える気がします。まだ、リズム感溢れる詩を書くまでには至っていません。平たい言葉とリズム、これが五感に訴える詩の基本のようです。

  最後に、リズム感が面白くて印象に残っている詩をご紹介します。OH MY GOD と HEY MY SOULの掛け声が不思議なリズムを作り出しています。こんな詩を自分も書けたらなあと感嘆してしまいます。現代詩フォーラムでのURLをご紹介しますので、是非ご一読願います。

ルルリラさんの「オーマイガー」
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48952


↓よろしかったらクリックしてくださいね
にほんブログ村 小説ポエムブログへ



使うべきか使わざるべきか「ような」という言葉

2005年08月19日 08時51分48秒 | 詩と言葉
 「~のような」、「~のように」、辞書で引いてみると助動詞の連体形とありました。詩や歌詞で良く用いられる言葉だと思いますが、開設2日目の記事として投稿してみます。

 詩学的な堅苦しい考察(Yock自身もあやふや)では無く、実際につかった場合の効果などについて考えてみたいと思います。

(例1)
宇宙のようなテーブルに座って
地球のようなお皿で

(例2)
宇宙のテーブルに座って
地球のお皿で

 どうでしょう?(例1)だと軸足がこちら側にあると言うか、目の前にある普段のテーブルやお皿を大げさに誇張している感じですよね。ところが(例2)だと、なにやら何かを暗示しているような、広がりのある詩的な感じがします。

詩の内容にもよりますが、「ような」を使っている場合には、外してみる、使わないようにする。そうすると面白い、詩らしい詩になるのかも知れません。

にほんブログ村 小説ポエムブログへ

詩が置き忘れた言葉「僕たち」

2005年08月18日 22時00分05秒 | 詩と言葉
このブログを運営するにあたってどうしても書きたい事があります。
詩から「僕たち」「私たち」という言葉が消えてどのくらいになるのでしょうか?
詩(ポエム)に「現代」と冠がついて現代詩となってからでしょうか?

何かしらのテーマを共有する意味合いでの「僕たち」、感動、感情の共有を求める意味合いでの「僕たち」は詩の地平から退場してしまったようです。オレンジレンジの歌詞を検証するまでも無く、歌詞の世界では連発されている「僕たち」、「俺たち」。歌詞と詩の違いは「共有」を作者側からも読み手からも求めるか求めないかにあるようです。

たとえば次のような内容の文章は歌詞とみなされるのでしょうか


明日と言う日の未来を信じて
「僕ら」は歌う
希望の歌を

僕らは信じる輝く未来を

さあ、一緒に歌おう
「僕ら」の歌を


このような読み手に「共有」を求め、また「問いかけ」を行う事を詩は拒絶しているようです。
少し勘ぐって考えてみると「僕たち」→「同志」、「問いかけ」→「連帯」と繋がる左翼的思想への潜在的アレルギーも垣間見えるようです。

まあ、ラップ自体にしてもアメリカ(本場が何時も正しいとかの安易さではありません)のラップは政治的要素、人種差別への抵抗運動、キリスト教への反発(イスラムへの改宗)など様々なテーマが展開されていますが、日本のラップに関していえば、殆どが恋愛を歌っているようです。(間違っていたらコメントください)

結局のところ、詩についても同様で恋愛詩へと収斂していくのかも知れません。恋愛ほど詩情を永遠にくすぐリ続けるテーマは他に見当たらないのは事実です。ただ、詩の根源はギリシャ神話、神々への賞賛だと思いますが、

=まとめ=

Yock自身も愚作「黒い船虫」の文中で述べたように「共有」への幻想と決別するつもりです。しかし、最近浮上している「読む詩」から「聞く詩」、発話される詩の場合に「問いかけ」「共有」無しに聞き手の共感を得られるのかなとの疑問みたいのもあります。実際に発話される詩を聞いたことがないので、あくまでも想像にすぎませんが、悪く言えば「閉ざされた」呟きを聞いて感動できるのかなという感じがします。歌詞は歌うことを前提として書かれていますが、詩は読まれることを前提としている気がしますし。

まとめと書きながら、どうやら上手くまとまりませんでした。でも、思うことは多少なりとも書けたかなと思います。


↓黒い船虫へのリンクです。よろしかったらご参照ください。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=46164

にほんブログ村 小説ポエムブログへ