ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

引っ越します

2006年04月14日 22時38分16秒 | 日記のようなもの
 特に理由があるわけではないのですが、このブログから引っ越します。(gooブログ、使いにくいのもありますけど)


移転先は

緑川 ぴの「うたごよみ」
http://ameblo.jp/pino1864/

で、ついでにHNも変更しちゃいます

新しいHNは 緑川 ぴの です

(現代詩フォーラムでは来週の月曜日付けで変更する予定です)

優しさを忘れないように、柔らかい感じのHNとしました。



では、皆さんありがとうございました
おやすみなさい




たまごかけご飯

2006年04月12日 19時34分04秒 | 日記のようなもの
 今夕の日経コラム(出久根達郎-レターの三枚目)で夏目漱石の坊ちゃんが生卵を野だいこの顔面にぶつけたシーンの回顧から生卵の食べ方の話題へと発展していました。

 生卵、たまごかけご飯にするのが今流行りの食べ方のようです。確かに美味しいことは美味しいけど、掻き込む感じでよく噛まず消化に悪い感じがします。

 食べる機会も旅館に泊った際の朝食かお昼に入った定食屋さんでの食べ放題の生卵って感じです。特売の生卵だろうし、風味も乏しい気がします。

 コラムでは坊ちゃんが投げつけた生卵、投げつけるためじゃなくて、栄養補給用に蓄えていたものなのだとか。で、飲んでいたんじゃないかと出久根さんは想像しています。

 生卵を飲む、う~ん、リキは付きそうだけど、そんなにリキつけてどうすんのかと思ってしまいます。



現代詩手帳買いました

2006年04月10日 23時30分22秒 | 日記のようなもの
 なんだか久しぶりに手に入れた現代詩手帳、書店ではぱらぱらしてはいたのですが、実際にお金を払って手に入れたのは何年ぶりなのでしょうか(苦笑にもならない苦笑)
 特集が茨木さんだったもので、思わず買ってしまいました。
読む都度に涙で出てきてしまいます。掲載されている詩を読んでも、追悼のエッセイを読んでもです。

う~っ、涙もろすぎます。

 それから、ちょっと現Fで書かれていることについて言いたくなったけど、今はちょっと封印だな。さっき、ちょっとだけコメントしてしまったし。黙っていようと思うと黙っていられない性分なんとかしたいです。

九つの銅貨レビュー他

2006年04月06日 22時43分59秒 | 日記のようなもの
 先先週半ばぐらいに読了していた「九つの銅貨」ですが、やっとレビューをアップすることが出来ました。レビューを書くために再度ぱらぱら読んでみたのですが、やはり楽しい感じがページをめくる都度に甦ってきます。ちょうど長い眠りから醒めた煙突掃除の見習い小僧3人が飛び出してくる感じなのかな^^

 それからこの数日間、古書店で何冊も詩集を買ってしまいました(いつ読むのか)今日は高田馬場で1955年に荒地出版より刊行された鮎川信夫詩集を500円で手に入れました。カバーは付いていないし汚れているけど、北村太郎のあとがきも熱くて荒地の詩に対する意気込みを感じてしまいます。

身につまされるはなし

2006年04月05日 21時18分49秒 | 日記のようなもの
 さて今日付けの日経夕刊では出久根達郎のコラムに興味を引かれたというか、読後の感想としてそうなんだよなぁと頷かざるを得ませんでした。
 コラムの中で佐藤眞一著「大往生の島」を紹介していて、大往生の島とは山口県周防大島の属島のひとつ、沖家室という「高齢化率日本一」でお年寄りたち同志が生き生きとして、お互いに支え合って生きているのだとか。
 まあ、老いてくれば当然の帰結として「ボケ」の問題が出てくるわけなんだけど、それは自然の摂理だし抗うことは出来ない訳です。
 でも、ボケると男女とも人生の一番いい時代に戻る。そして男は妻の名を呼び続け、女は両親の名を呼び、次に子供の名を呼ぶ。夫の名を呼ぶ人を見たことがないと著者は作中人物に語らせています。

 まあ、これが愛の真実なのかな?女に取って愛するものとは血を分けられた、分けたものに対して注がれるもののようですし、男に取っての愛とは自分の面倒を見てくれる人へ向けられるようです。

 考えようによっては女の愛と比べて男の愛は利己的なのかな?まあ、若いときに恋愛をするのも、やもすると性的な欲求のおもむくままになりがちなエロスに起因するものであり、それに対して女の愛は血の繋がりによるもので、より実存的、普遍的な愛と言えるようです。

愛の本質を男は知らない、知りえないのかも


星の王子さま第3次ブーム

2006年04月05日 19時22分23秒 | 日記のようなもの
 昨日付け日経夕刊の文化欄によると星の王子さまの第3次ブームを迎えているのだとか。何でも星の王子さまについての関連本の新刊が昨年末より今年にかけて相次いで刊行されたためらしいです。
 1943年にアメリカではじめた出版されたサン=テグジュペリの星の王子さま、どなたでも一度は読んだことあると思います。初版後60年以上経つのに未だに何冊も関連本が出版されてさまざまな解釈、手法により読み解くことが出来る、それだけ奥深い物語と言えるのかな?う~ん、気になります^^


今日の雑感(日経朝刊より)

2006年04月02日 23時25分17秒 | 日記のようなもの
 今日の日経朝刊充実していました(嬉しい)幾つか拾ってみますね

1.日記をのぞく「正岡子規・仰臥漫録」
脊椎カリエスにかかり36歳で夭逝した子規が寝たきりになってしまった35歳より死の直前まで書いた日記で、「墨汁一滴」、「病牀六尺」とともに子規の晩年の心境を探る上で貴重な資料となっているとのことです。

自力で起きる事も叶わず背中の痛みに耐え兼ね死を望んだ子規、葛藤の末にある結論を達するのですが、それは「悟りとは、平気でいきることだ」という境地です。「悟りとは如何なる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きること」と子規は日記の中で語っています。

「人はそれでも生きる」と思っているYockですが、「では何故か」という問いに対する答えを子規の言葉より得た気がします。


2.半歩遅れの読書術
  日本人の集団催眠-かかりやすさ相変わらず
コラムでは第2次世界大戦中のミッドウェイ沖海戦における日本海軍の失態と松本サリン事件での誤認逮捕騒動を引き合いに出して「危機に直面したとき、一つの観念にとらわれて雪崩現象を起こしがちな日本人」を嘆いています

日本人、野ねずみのような盲信的な集団行動を確かに取るような気性、性格であるようです。詩というか創作に関わる者はそんな風潮に警鐘を打ち鳴らす存在であって欲しいと願うのは筋違いでしょうか?集団から一歩退いてみる、遠のいてみる、その姿勢は創作には欠かせないと思いますし、そんな眼差しで社会を見つめる思いを持ち合わせていたいです。


3.父のステーション - 井坂洋子
詩人といつも傍に居てくれた父との関わり、思い出が綴られています。いわゆる他人事だった死とは異なりはじめて死ということを実感した父の死、いずれ人は棲み慣れた我が家より出て行くものだという事実。詩人らしい視線での語り口に感心してしまいました。

亡くなられた父が行きたいといったステーション(駅)自然には興味が無い詩人の父が行きたいと望んだステーション。詩人は「それにしても、父のステーションとは何だったのだろう、決して社交的でない、むしろ偏屈だった父が、大勢の人の集まるところへ行きたいというのは。」と詩人は想いを述べています。

ステーション、そんな象徴的な場所を誰でも一箇所は持っているのかなと読んでいて思いました。自分の場合はどうだろう、うん原風景と言うかそんな場所ならあります。それは日光戦場ヶ原の木道です。釣りに出かけた折イブニングライズが始まるまでの数時間を木道に腰掛け葦原を渡る風の音を聞いていた風景が自分に取ってのステーションなのかも知れません。

もしかしたら、他のステーション、自分では気付いていないステーションが実は本当のステーションだったりしそうですが…




藤田嗣治展

2006年04月02日 19時32分09秒 | 日記のようなもの
 生誕120年を記念して全画業を紹介する展覧会としてはじめて開催された本展覧会。あまり観たいとは正直思わなかったのですが、ひょんなことより観ることになりました。でも、観た後の感想としては『観てよかった』の一言に尽きます。

 さて、藤田の画業というか大きく別けて3つの時代に別れます。まず第1次世界大戦後の華やかなパリを舞台としたエコール・ド・パリの時代、日本帰国を含め第2次世界大戦前後、そして戦後再びパリへ戻った後の時代です。

1.エコール・ド・パリ
モディリアニとも親交のあった藤田、いかにも影響を受けたといえる作品が数作展示されています。それよりも、展示室入って直ぐに出会うピカソの影響を受けたといわれている『キュビスム風静物』、まんまピカソです。この辺がWikipediaの資料によると『FouFouお調子者』と呼ばれた所以もありそうです。『器用で変わり身が早い』藤田の予備知識はまったく持ち合わせていなかったのですが、数作を見たところで、そんな印象を持ちました。悪い意味では無くて感化されやすい画家だったのかな?

さて、やがて、絵の中に猫が登場するようになります。猫、藤田の分身なのかなと思ってしまいます。パリで大成功をおさめた藤田、時代の寵児となったようです。どの絵も煌びやかな印象です。それから、受胎告知をはじめ宗教画を何作か描いています。金箔を貼り付けるなど安土桃山時代の屏風絵を思わせます。(やはり器用です)

2.第2次世界大戦前後
日本への帰路に立ち寄った中南米で描かれた作品が何作か展示されていますが、汗の臭いがするような作風、パリ時代の面影が全くありません。線のタッチで藤田と判別出来ますが、デッサン、構図は別物となっています。(やはり器用?)帰国後に描いた絵の数々は中南米での延長線上にあるとも言え、戦前の沖縄の庶民を描いた『客人(糸満)』は正にその典型と言える作品です。

さて、藤田が戦争に協力をしたと戦後、日本美術会などから非難を浴びたと言う作品が数作展示されていますが、いずれも戦意を鼓舞すると言うよりも戦争の悲惨さを描いていて、どちらかというと反戦の意味合いをうちに込めているように思えてなりません。アッツ島玉砕は累々と横たわる日米の兵士の屍が描かれていて、この絵を観て戦争を賛美する者は誰一人いないと断言できます。(戦争、やはり悲惨です。人が人を合法的に殺せるのですから)また、サイパン島同胞臣節を全うすでも、バンザイ岬より身投げする入植した罪も無い庶民の悲劇が圧倒的な力強さで描かれています。

3.戦後再びパリへ
『私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ』と言い残し日本国籍を捨て去りパリへ戻った藤田。生き生きと描かれている子供たちの姿に未来を託したのでしょうか、そんな作品が何作か展示されています。そしてカトリックに帰依したあとの宗教画の数々、3作の黙示録(七つのトランペット、四騎士、新しいエレサレム)、キリスト降誕、そしてキリスト降架など絵画という枠を越えた作品となっていて、戦前に描いた数作の宗教画とも趣きは異なる印象を受けました。個人的には戦前の宗教画のほうが好きです。またキリスト降架は戦前と戦後の2つの時代で描かれていますので、其々を見比べてみると良いかも知れません。

4.まとめ
最後から2番目に展示されている『礼拝』という作品には藤田自身が描かれています。エコール・ド・パリ時代の藤田を藤田として評価し、その後を切り捨てる考えも一理あるかなと言うか、帰りの車中ではそんなことも考えていたのですが、こうやって再度藤田のことを整理すると『器用すぎた面』もありますが、やはり彼の生涯を通して、彼の作品を評価すべきなのかなと再考してしまいました。

殆ど作品を事前に見ておらず余計な先入観が無かっただけに、印象的で収穫の多い一日となりました。

※写真、左からチケットデザイン、タピスリーの裸婦、五人の裸婦(2作ともYockが気に入った作品です)尚、絵葉書を撮影しましたので写りは良くないです。

生誕120年 藤田嗣治展
   2006.3.28~2006.5.21
   東京国立近代美術館
   (北の丸公園・竹橋)


参考資料
Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB


東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp








花より工芸展

2006年04月02日 00時06分30秒 | 日記のようなもの
mixiの澁澤龍彦コミュのトピックで教えてもらった所蔵作品展です。
 お目当てはもちろん四谷シモンの『解剖学の少年』です。はじめは工芸展だけを観ようと思ったのですが受付の女性に藤田もご覧になられますかと問われ観ないとはいえずに共通券を購入してしまいました(汗)
 さて、解剖学の少年は入って直ぐの展示室に展示されていますした。う~ん、やはり素晴らしい。涼しげな憂い顔の少年の腹部がアトムのように開いて臓器が覗いています。 
 資料によると1983年の作品とか。なんでも、ハンス・ベルメールの作品の影響が大きいとあります。で、そのハンス・ベルメールの写真作品『人形』もあわせて展示してあります。う~ん、いずれもポエジー溢れています。こんな雰囲気の『うた』を書いてみたくなりました。

 で、シモンに負けずと劣らずに素晴らしいと思ったのは、そのとなりに展示されている吉田良作の『すぐり』です。こちらは1986年の作品ですが、妖艶とした少女の姿に惚れてしまいました。フライヤーを飾っている作品で、写真だとぎすぎすした感じに写っていますが、実物はもっと艶やかな顔色をしています。(光線の関係かな)

 その他に気に入ったのはアクセル・ルーカスの『無題』と名付けられた磁器製の半身像と熊倉順吉の『男の肖像』です。
 他にも魯山人とか興味を引く展示物は多々あったのですが、今回はスルーしました。

 さてさて、人形、とても良いです(らぶりー)気に入りました。詩情をもろに感じますし、今年は人形を目的として展覧会を回ってみようかな♪それから写真集も古書店を中心として探してみたくなりました。

※写真、上よりフライヤー、四谷シモンの『解剖学の少年』、アクセル・ルーカスの『無題』です。尚、フライヤー以外はポストカードを室内撮影した関係で写りあまり良くないです。