ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

Happy Halloween!

2005年10月31日 20時03分39秒 | 日記のようなもの


 10月31日(月曜日)の今日はハロウィンです。大方のイベントは先週末(29日、30日)に終了している感じです。もともとはケルト人のお祭りだとかで、Jack-o-Lanternと呼ばれるかぼちゃに火を灯し、子供達はTrick or Treatと言いながら各家を周り、お菓子を貰い歩くのだとか。それから、様々な仮装(コスプレ)をして街を練り歩くそうです。

 昨日のニュースによると、大阪環状線車内で仮装をした外国人が大勢で騒いだとか。大人気ないと言えば大人気ない話ですが、日頃の鬱憤晴らしだったのでしょうか。日本に紹介されて暫く経っていますが、クリスマスほどの盛り上がりにはなっていないようです。お祭り好きな日本人の事だし、そのうち盛り上がるのかな?

 ところで、今日内閣改造人事が発表されました。何れも魑魅魍魎って雰囲気で、永田町界隈もハロウィーンの仮装で盛り上がっているようです。

 それから、詩の世界は、どうやらハロウィンネタでは盛り上がらないのでしょうか?他のサイトの事は分かりかねますが、現代詩フォーラムではさっぱりでした。この分だとクリスマスもこんな感じなのかな?なんだか寂しい気分です。


Halloween(現代詩フォーラム)
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=53386

かおるさんの*trick or treat*(現代詩フォーラム)
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=53407

(ノート)
Yockの稚作はともかくとして、かおるさんの詩はハロウィンぽくて、Happyになれる作品なので、是非ご一読を♪



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ピカソも観ました (プーシキン美術館展 パート3)

2005年10月30日 21時55分16秒 | 日記のようなもの


  さてさて、お目当ての「金魚」を観た後では他の絵もあまり目に入らない気がしたので、ソファーにて暫しの休憩です。ソファーに腰掛け眺める「金魚」も絶品です。極端に言えばヘタウマなのかな?緩い絵具で描いたアラベスクのような背景。金魚も何となく漫画チックなのに、観る者の心を捉えて放そうとしません。詩でもそうなんですけど、やはり独り善がりな詩よりも、この「金魚」のような分かりやすい詩を書きたいなあとつくづく感じました。

  気合を入れなおしてソファーより立ち上がり、絵画巡りの再開です。お次はマルケ、レーマン、と来て、版画の提示コーナーに歩を進めました。実は版画のコーナーはざっと観ただけで飛ばしてしまいました。「金魚」と再開するときまでペンディングです。ただ、ゴーギャンの版画「彼女は死霊について感じる」は一見の価値あると思います。

  再び絵画の展示となりました。グラマンク、ドラン(水差しのある風景とアルティーグの松林の2作品)ときて、アンリ・ルソーの「モンスール公園の眺め」と「セーブル橋とクラマールの丘、サン=クルーとベルヴュの眺め」の2作品です。今回は後者が一押しとなっています。けれど、アンリ・ルソーとくれば熱帯のジャングル、そして「眠るジプシー女」のような幻想的な絵画を連想してしまうので、どうもなあって思いました。決して悪い絵ではないのですが、パリの上空に浮ぶ飛行船や気球は、自分のルソーに対して持っていたイメージとは、ずれていて物足りなさを感じました。

  で、ブラックの「ラーロック・ギュイヨン城」、これはブラックの代表作的な絵として紹介されていると思います。最後は美術館のピカソ・コレクションより「三人の女」、「友情」、「女王イサボー」そして「アルルカンと女友達」の4作品がオオトリとして控えていました。特に「女王イザボー」は初期の代表作とか、しかしながらピカソはこれまで何作か観ているので、今ひとつかなと贅沢な溜め息が、しかし「アルルカンと女友達」は良いなあと感じました。なんだ、ピカソ=キュビズムなのに、具象画を良いと思うなんてと一人で苦笑しました。アルルカン、道化役者のことなんですよね、Yock自身もアルルカンな詩を書きたいなあなんて、思ったからでしょうか。


(まとめ)
  やはり、本美術展は「金魚」のためにあるようです。Yock自身、普段は購入しないポストカード(アクリルの額入り)など購入し、おのぼりさん気分で、東京都美術館を後にしました。


参考URL
朝日新聞社-プーシキン美術館展
URL: http://www.asahi.com/pushkin/

Fuji-tv ART NET: プーシキン美術館展 シチューキン・モロゾフ・コレクション
URL: http://www.fujitv.co.jp/event/art-net/go/228.html

東京都美術館
URL: http://www.tobikan.jp/



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金魚に魅せられました (プーシキン美術館展パート2)

2005年10月29日 21時40分30秒 | 日記のようなもの

  シモン、シャガンヌ、カリエールの2作品(母の接吻は流れる動きを表していて写真的な絵画です)、マンザーナピサロ(孔雀と裸婦は千一夜をモチーフとしており、金箔のような金色が印象的です)、ヴァロットン(解説によるとシュールレアリスムの先駆者とありました)、で、ドニ、ボナールと続きます。ボナールの「洗面台の鏡」はゆるい輪郭、タッチが印象的です。鏡に映し出された背景、面白いなあと感じました。

  次にナビ派と称される画家達の絵画が続きます。ちょっと中だるみ感を覚える頃にいよいよマティスの登場です。

  アンリ・マティス(1869年12月31日 - 1954年11月3日)、先に観たモローに師事したのが興味深いです。そしてフォーヴィズム(野獣派)の巨匠です。そしてマティスはセザンヌの一枚の絵が彼の作風を展開する上で支えになったとか、そう考えるとセザンヌはキュビズムに、そしてマティスにまでも影響を与えているのだなあと改めて思い知らされました。セザンヌ、スターではありませんが、名コーチって感じでしょうか。

  さて、マティスに戻します。3作品展示されており、初期の「ブローニュの森の小道」、「金魚」、「白い花瓶の花束」です。でも、やはり東の正横綱、本美術展の目玉である、「金魚」、これに勝るものはありません。色的にはピンク系、緑系、黒に近い茶系の3色で描かれています。ガラス瓶の中で泳ぐ4匹の金魚、オリエンタリズム(東方趣味)なのですが、緩く溶いた絵具で描かれており、下地も随所にのぞいています。カンバスのサイズも巨大で観る者総てを圧倒するようです。もう少し小品なのかなと思っていただけに驚きを隠せませんでした。素晴らしいなあ、ただ感嘆するばかりです。さすが、チケット、フライヤーを飾っているのは伊達ではありません。正直、この絵を観たので、さっさと帰りたくなりました。綺麗な女性と出会った後に他の女性を見たくなくなる、あの気持ちです。
40年ぶりって事は、次は何年後なんでしょうか?どうしても観たくなったらロシアまで行かねばならないのは、かなり辛いです。会期は12月18日までとの事なので、もう一度、金魚を拝みたい気分です。

明日のパート3に続きます



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プーシキン美術館展

2005年10月29日 21時08分09秒 | 日記のようなもの

  佐伯祐三展、モロー展と個展と言うべき美術展を観た後に何でもあり的な美術展を観るのもなあと若干躊躇しましたが、40年ぶりの来日と喧伝されているマチスの金魚につられ、どんよりとしたパリの空にも似た低い雲の立ち込めるなか、東京都美術館までいってまいりました。

  入場して直ぐに出会うのがルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で」と「黒い服の娘たち」です。いかにもルノアール的な絵画で、それはもう文句のつけようなどありません。特に「黒い服の娘たち」に描かれた娘の眼差しがとても印象的です。

  つづいて、ドガの「写真スタジオでポーズする踊り子」です。ドガといえば踊り子のイメージ通りの絵です。写真的な構図、踊り子を頂点とした三角形の延長線上に位置する窓からはパリの風景が望めます。これも、もう文句のつけようがありません。

  ピサロ、ラファエリ、フォラン、タウローときて、モネの2作品が並びます、1作品目は「ジヴェルニーの積わら」、そして本美術展の大関級のインパクトで迫る「白い睡蓮」です。モネ好きな方には、これこそ、本美術展の横綱とおっしゃる方もおられると思います。ならば、西の横綱ってところでしょうか。日本風の太鼓橋がかかる池に広がる睡蓮、平面的に描かれた睡蓮は段々畑に見えなくもありません。解説では、後の作品に比べ遠近感を強調しているとありますが、どうなんでしょうか?光線の差し具合も強調されておらず、自分的には?な作風です。

  そして、シスレー、ピサロときて、いよいよ後期印象派の巨匠セザンヌの「池にかかる橋」と「サントヴィクトワールの平原」の2作品です。セザンヌ、通好みなのでしょうか、Yock自身も好きな画家なんですが、こうやって本物を観て見ると、キュビズムへの通過点のような印象を多分に受けました。特に山の中腹に広がる景色にキュビズム的手法が垣間見れます。セザンヌの足跡、歴史上の意義を別とすれば、絵を見た限りでは面白くないと思われる方、意外と多いかも知れません。

  クロスの次に点描画家のシニャックの「サントロペの松の木」が展示されています。スーラーに比較して、大きめな点描で鮮やかな色使いが印象的です。

  エルーの次はゴーギャンの「水浴する女」です。大胆なタッチ、そしてきらめく内海は点描風に描かれています。

  いよいよ、ゴッホの「刑務所の中庭」です。解説によるとドレの版画の模写との事で、死の5ヶ月前の作品だとか、苦悩するゴッホ自身が描かれているようです。

  再びゴーギャンの「彼女の名はヴァイルマティといった」です。まさにゴーギャンらしいトロピカルな色使い、そして中心右よりで、石に腰掛けるヴァイルマティは物悲しげな横顔をこちらへ向けています。また、ナイフは用いていないようで、絵具の厚みも感じられず平坦で、ある意味塗り絵的な印象もあります。勿論、この作風こそ、ゴーギャンらしさ、オリジナリティであり、ファンの方には堪えられないなあと思います。先の水浴する女も良いですが、謎めいた主題から受けるインパクトの大きさから考えれば、こちらの方に軍配をあげたいです。

パート2へ続く


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待つことを知らない天使達(待ちぼうけについて)

2005年10月28日 22時32分18秒 | 詩の背景
  犬を躾る時の基本が待てであるように待つと言う行為は社会との関わりにとって大切な事だと思います。しかし社会の、技術の進歩は人から待つ行為を奪っていくようです。
貯金が貯まるまで待つ、洗濯物が乾くまで待つ、願いが叶うまで待つ、そして、この詩で書いたように恋人を待つ。待つ事は不安ですし、イライラする事も確かです、ですから待たなくてすむことは確かに大変便利ですし、余計な事に気を使わずにすみます。しかし、そんな便利さと引き換えに待たくなった人の心から辛抱する、我慢する気持ちは失われたようです。それに、消費社会においては人々に余計な我慢をされては困ります。買い控えにつながるような風潮は取り除きたいのが企業の本音です。そんな社会の思惑により待つ心を奪われた日本人は何処へ行くのでしょうか

  特に最近の切れる小学生も待たなくなった(待てなくなった)時代の落し子のようです。先生の話が終わるまで待てない、授業の終わりを待てない、これは総て今の世の中の縮図なのです。近頃流行りのスローライフも、どうやら待つプロセスを楽しむようですし、少子高齢化を突き進む、これからの日本、不便でも回り道をしてみる。時間を惜しまずに待ってみる事が必要となるのかなと考えます。


待ちぼうけ(現代詩フォーラム)
URL:http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=53145
  

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Halloween

2005年10月27日 17時52分48秒 | 
今夜の仮装は何が良いかな
あなたは狼男で、わたしはバンパイア
君は朗らかな笑顔で
オレンジ色のほくほくを
ていねいに掻き出しているね

ふたつの三角から掻き出したら
お次は大きな四角から掻き出そう
ほくほくは、食べきれない程のスープとなって
ふたりの食卓を飾るから

Trick or Treat

ふざけて背後から君のハートに抱きつけば
容赦ない肘鉄を喰らって僕はノックアウト

Trick or Treat

ほくほくを、あらかた掻き出したので
一本のろうそくを灯してみる
ろうそくの仄かな光は
ふたりの幸せを映しだしているよ

Trick or Treat

この種をまくと来春には恋の花が咲くのね
そんな事を君が耳元で囁いた気がして
僕は咽喉元に突き刺さった君の犬歯から
熱い何かが僕の身体中に流れ込むのを感じたよ

Trick or Treat

お菓子のかわりに僕のハートを君に差し出せば
バンパイアの血が体中を駆け巡り
咽喉元に残った二つの赤い穴ぼこから
黒い悪魔がとろり滲み出す

Trick or Treat

黒い悪魔の手招きに導かれるまま
これから二人で夜の街へと繰り出そう

Trick or Treat

ほら、疼いてきただろ
ほら、感じてきただろ



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待ちぼうけ

2005年10月24日 21時57分29秒 | 
待ち合わせに遅れそうな時
メールひとつで済ませてしまう
嘘っぱちの言い訳も
おたがいの顔が見えないから
罪の意識を感じずに誤魔化せる


どこへ行ったか
寂しがり屋の待ちぼうけ


君と出会ったばかりの頃は
携帯なんて持っていないから
君の来るのを何時間でも待ったっけ
嘘っぱちの言い訳だって
ふたりして顔に出るからバレて照れ笑い


どこへ消えたか
寂しがり屋の待ちぼうけ


でも待つことは楽しかった気がする
傘もささず君の来るのをずっと待った
夜明け迄愛の訪れをひたすら待った
あの頃は思いを育む真剣さが
ふたりにはあったよね


どこにいるのか
寂しがり屋の待ちぼうけ


都会では木の根っこをさっぱり見かけないし
うさぎは、ふれあい動物園で
幼い残酷たちの慰みものに成り果て
思いやりを育む優しい心は
水遣り忘れたプランターの蔭で
ひっそり枯れていたのを
ふたりとも気付かない振りをする


ふたたび会えるか
寂しがり屋の待ちぼうけ



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悔やんでみてもはじまらないけど

2005年10月22日 22時39分18秒 | 詩の背景


  ついつい言い過ぎてしまい、後でぐずぐず悔やんでしまう。良くある事だけどなんでかな?甘えって訳じゃないけど、思い通りにならかったり、平常心を保とうとすればするほど、言い過ぎてしまうのかな?

  「秋の日の溜め息の」は、恋人同士のちょっとしたすれ違い(痴話げんかまではいかないけど)、相手を思って忠告めいた事を言ったが為に、余計なお節介と思われてしまう。それから、思いを分かって欲しくて我をはってしまい、売り言葉に買い言葉、折角のデートもまるで台無し、そんなよくある話を詩にしてみたものです。

  でも、そんなちょっとしたすれ違いを放置しておくと意地の張り合いになって、隙間風がさず二人の間を吹き抜けるようになる。まあ、そんなときは男のほうが折れて謝るしかないのだろうけど、謝るってのも意外と難しいかな^^卑屈になると火に油を注いでしまいそうだし、余計二人の関係がギクシャクしちゃうかも。

  一番なのは言い過ぎないって事なんだよね。沈黙は金なり、黙ったままでは拙いけど、自制心、一番のキモなようで。(謝るよりもっと難しそうです(苦笑))


秋の日の溜め息の(現代詩フォーラム)
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=52729


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ギュスターヴ・モロー展

2005年10月21日 23時41分50秒 | 日記のようなもの


  佐伯祐三展の興奮も冷めやらぬまま、練馬駅より池袋駅を経由し山手線にて渋谷駅に向かいました。目的はBunkamuraザ・ミュージアムにて開催中のギュスターヴ・モロー展です。渋谷、東急東横線元住吉駅近くに住んでいたときには良く通った街です。特に道玄坂を少し登ったところにあったロック喫茶で暇を弄びながら店内に流れるロックに耳を傾けていた懐かしい思い出の街です。どうも今回は思い出巡りの感があります。

  ギュスターヴ・モロー、1826年パリに生まれ1898年、後に国立モロー美術館となるラ・ロシュフーコー街のアトリエでなくなるまで幻想的な絵画を描きつづけた画家として有名です。初期はサロンを中心として活躍し、1892年にエコール・デ・ボザール(官立美術学校)の教授となったモローはルオー、マティス、マルケなどの若い天才達を見出し世に送り出しました。また終生結婚はしませんでしたが、生涯をともにした恋人、アレクサンドリーヌの存在はモローに少なからず影響を与えた事と思われます。

  さて、Yock自身の感想を述べてみたいと思います。

  1)神秘への誘い
    モローと言えば「幻想的」「象徴主義の先駆者」と冠されるように、主な作品は
    ギリシャ神話、聖書の物語など見に見えぬもの(不可視的なもの)をモチーフ
    としており、昨日レポートしました佐伯祐三の目に見えるもの(可視的なもの)
    をモチーフとする姿勢とは対極の画家であると考えます。
    このことは詩作においても言えることで、目に見えぬもの(心模様)を直接
    的に訴える詩風と、目に見えるもの(自然風景)を通し間接的に訴える詩風
    いずれかの方法があります。どちらがどうとは一口で言える問題ではありません
    が、詩作においては、どのスタンスで、どのアプローチで心の起伏を描くのか
    常に考えるべきテーマだと思います。
    さて、今回の展覧会でYockの心を捉えたのは「一角獣」、「サロメ」、そして
    ギリシャ神話に登場する詩人達を扱った作品群です。美しき登場人物達、
    目に見えぬものを華麗に、そして荘厳に、見る者の眼前に提示するモローの
    作品はギリシャ神話、聖書にはさほど詳しくないYockさえも心を奪われ
    それらの作品の前で立ち尽くすより術はありませんでした。
    また、ドレスデン国立美術館展にて鑑賞したレンブラントの宗教画とも
    異なった物語性を感じました。モローも自身について「あまりにも画家としては
    文学的にすぎる」と語っています。しかし、この物語性こそ、モローを
    近年再評価する由来に思います。
    
  2)青の世界
    プルシャンブルー、インクブルー、透明感のある青色系を効果的に用いている
    と感じました。青は幻想への扉なのでしょうか、背景に用いられた青は
    神話の語り部として存在しているようです。吸い込まれそうな、その語り部の
    語り口はテーマとなる神々の存在を際立たせ、耳を傾ける者に至福の時を
    齎すのでしょうか。

  3)水彩と油彩
    今回の展覧会では水彩画も数多く出展されていました。掌ほどのサイズながら
    水彩画とは思えぬほど精緻に描かれていました。また、油彩においても絵具を
    重ねるようなタッチではなく、青の場合と同様に透明感を強調していました。
    モローにとっては水彩と油彩、画材の違いを越えて求めたのは、あくまでも
    先に述べたような物語、目に見えぬものを見える形として提示する手段として
    であり、それぞれの画材の持つ特性では無いように思われました。

まとめ
  今回の展覧会にて、じかに出展作にふれるまでは、Yockはモローの事を良く知りませんでした。どちらかと言うと食わず嫌い、先入観より敬遠していたきらいがありました。しかし、今回の展覧会を通じモローの心にふれ、モローについてもっと知りたいと興味が湧いてきました。
  また、メインストームとされている画壇の動きより外れた孤高の画家とも言えるモロー、主流派の立場に拠る事が果たして個々の芸術家に取って幸福なのかどうかを我々に黙示しているように思います。そして、弟子であるルオー、マティスに引き継がれた彼の志は時空を超越し、彼の作品を見る者総てを夢幻の世界へと導くのです。


Bunkamuraザ・ミュージアム(ギュスターヴ・モロー展)
URL: http://www.bunkamura.co.jp/museum/event/moreau/


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佐伯祐三展

2005年10月20日 18時38分37秒 | 日記のようなもの
  今週の月曜日、観にいけなかった練馬区立美術館における佐伯祐三展と併せ渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムにて開催中のギュスターヴ・モロー展を観てきました。天候に恵まれたせいか、両展とも平日にもかかわらず盛況でした。平日の静かな美術館巡りとならなかったこと、ちょっと残念です。

※先ずは佐伯祐三展の感想より投稿します。

  佐伯祐三、1898年大阪に生まれ、1928年フランスの精神病院にて夭逝するまで僅か30年余りの人生でした。多くの作品はパリの街頭風景を描いたもので、ユトリロの影響が見られるとの事です。また、Yock自身が昔、油彩に興味を持っていた頃、たまたま購入した画集を通じ佐伯祐三の作品群にふれ、本気でパリへ絵を描きに行きたいと考えた懐かしい思い出があります。そんな思い入れ溢れる作品群と今更になって出会う事ができるとは夢にも思いませんでした。

  では、Yock自身の感想を述べてみたいです。
  (1)目を描いていない、描いていても単純化されている
   1階第1展示室を入ると直ぐに佐伯祐三の自画像、裸婦像、長女の絵、婦人像など
   人物画が展示されています。1枚の精悍な自画像(東京美術学校卒業作品)を
   除き、目を描く事を避けているような印象を受けました。また有名な郵便配達夫
   の絵でも目は一筆で描かれており、とってつけたような印象を受けました。
   最近観に行っている中世西洋絵画では、今にも瞬きをしそうなほど写実的に描か
   れた眼差しに見慣れていたせいか、かなり印象的に映りました。
   目でモチーフを見るのではなく心で見る。そんな気構えの顕れと思いました。
  (2)パリの街並みを中心に描いている
   展示されている作品群がたまたまだったのか、パリ郊外、たとえばバルビゾンとか
   の風景画は一作も展示されておらず、二度に渡る滞仏時代の絵は殆ど街並み、
   レストラン、ホテルなどの建物の絵でした。停泊中の船の絵が何作か展示されて
   いたのと、滞仏中の人物画としては、先に述べた郵便配達及び靴屋の絵の2作
   のみでした。
   そして、どんよりとした空の色、晴れた空が描かれているのは下落合の風景画
   1作のみで他は灰色で塗り固められた厚い雲におおわれたパリの空、かなり印象的
   でした。
  (3)総ての道はパリへ
   第1時滞仏期と第2時滞仏期の間で描かれた下落合辺りの絵画では道路わきの
   電柱及び電線が描かれています。総ての道はパリへ通じているのでしょうか、
   そして電線は通信を、そして閉ざされがちな内面と外界とを結ぶ密かな通信手段
   なのでしょうか。
   また、道行く人々も付けたしとまでは言いませんが、マンション販売パンフ等の
   パースに描かれている人物のように単純化されているのも印象的でした。
  (4)一見すると平板に見える光と影
   絵を鑑賞する際のひとつのポイントとして光線の具合を見るのですが、佐伯祐三
   の描くパリの街並みは一見すると平板に思えます。初期のキュビズムに通じる
   モチーフをマスとして捉え、圧縮された遠近感。しかし、佐伯祐三の絵は決して
   平板ではありません。筆よりもナイフを多様した絵具の厚みにより陰影を
   出しています。そして風景をその場で切り取る事に専念したのでしょうか
   半乾き、もしくは渇かぬままにカンバスに置かれた空と建物、絵具の交じり合いも
   かえって味のある印象となっています。
  (5)カンバスの表裏
   一心不乱に描きつづけたのでしょうか?燃焼する命と引き換えに描きつづけた
   人生。時間を惜しんだのか、1枚のカンバス両面に描かれた作品が数点展示
   されていました。総ての作品でも、そうであって欲しかったのですが、
   1作品のみ(表裏で都合2作)両面を鑑賞できるようになっていました。
  (6)まとめ
   パリの街並みをこよなく愛し、短い生涯を燃焼しきった佐伯祐三の人生、
   荒々しくも繊細なタッチの冴え、印象派好きの日本人向きかなと思います。
   もし彼が30歳以降、生き長らえたとしたら、その後の世界大戦を含む
   歴史の激動とどう向かい合っていたのか興味は尽きる事ありません。

なんども会場内を行ったり来たりして、我青春の1ページであった彼との再会を胸奥深くに刻み、練馬区立美術館を後にしました。


*関連URL

練馬区立美術館
URL: http://www.city.nerima.tokyo.jp/museum/

佐伯祐三(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia))
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%A5%90%E4%B8%89

佐伯祐三展(大阪市立近代美術館)
URL:http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/05-artscene/00-mus-exhibition/161008-osakinbi-saeki/01osakinbi-saeki.html


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