後退する。
センター・フライを追って、
少年チャーリー・ブラウンが。
ステンゲル時代の選手と同じかたちで。
これは見なれた光景である。
さて、今日は1連目について考えてみます。
>後退するここはパート2で書き込みましたように、動作の後退と時空間での後退と半々ぐらいの意味合いなのかなと思います。
>ステンゲル選手
ヤンキースの名将とうたわれたケーシー・ステンゲルのことだと思います。Yockも勿論現役時代知っている訳ありません。
で、ステンゲル時代の選手ってことをぐぐってみると戦後間も無くに迎えたヤンキースの黄金時代といわれた頃の選手達のようです。
チャーリーブラウンとヤンキースお似合いっていうか、時代的にもそんな感じなのでしょうか。
>これは見なれた光景である
この、「これは見なれた光景である」う~ん、チャーリーブラウン野球好きだったとしても、野球漫画ではないので、チャーリーブラウンが野球に興じているシーン、あまり印象に残っていません(個人的には)。
そう考えると、見なれたと言い切ることにより普遍的なものであることを強調したかったのかな?
つまり、ひとつのスタイルを定義するってことのようです。かなり舌足らずだけど、そんな感じがします。それから、この1連目から清水哲男らしさが出ています。文法的にも違和感無いし、すらっと読めてしまうのだけど、さて意味を捕らえようとするばするほど、ピラミッドの中に迷い込んだ気分になります。そうだな、インディージョーンズになった気分と言えばよいのかな?そんな感じがしてなりません。
明日は2連目です。
さて、今日はこの詩の全体像、主題について考えてみます。
この詩には主題を読み解くキーワードがあると思います。それは「後退」という言葉です
1連目
>後退する。…少年チャーリーブラウンが。
2連目
>後退する。…羽月野かめが。
4連目
>われわれの後退に、
この後退の意味、辞書では「後ろへしりぞくこと」とあります。1連目と2連目の後退は動作のしての後退なのかなとも思えますが、われわれの後退に、はどうやら違うようです。
それを解く鍵は昨日ご紹介した詩の電子図書室別館1に記載されているように「レイ・ブラッドベリの小説『たんぽぽのお酒』(北山克彦訳・1971・晶文社)から詩人が引いたエピグラフが簡潔に言い表しているように、「成長すること、歳をとること、死ぬこと」の意味を、自分の人生に即して、愛着のある漫画のタイトルを借りながら語るというかたちになっている。」にあります。
このエピグラフを詩集より全文引用してみます。
人生での驚きー自転車を走らせながら、彼は考える、それはなんであろうか?生まれること、成長すること、歳をとること、死ぬこと。最初のことについてはどうする余地はない。
しかしー残りの三つはどうだ? レイ・ブラッドベリ
どうでしょうか?生、成長、加齢、死、何れも人の一生つまり時間の流れを現していると思います。
つまり、後退とは時計の針の進む方向に流れる時に逆らう動きであると推測しました。で、逆らいながら遡るのでは無く、その場に留まる、時間の流れと同じ速度で後退することにより永遠の存在となる。こう考えると3連目のチャーリーに死はない、老婆に死はないと繋がり、そしてまた4連目のわれわれの後退に、の意味も判ってくるようです。
後退=永遠とも言える主題が見えてきました。チャーリーブラウン、確かに永遠の存在ですものね。でも、この詩には幾つかの伏線の存在がちらほらと垣間見えています。その存在を見逃しては、この詩の奥深さを味合うことが出来ないと思います。そこで、明日からは1連毎に解明してみます。
余談ですが、チャーリーブラウンというと谷川俊太郎が有名です。どこかにそれを示唆する言葉がどこかに隠れていないか探っては見たのですが、今のところ見つかりません。もしかしたら見つかるのかな?
十七編の短編より構成された「子供たちのための物語集」より五編選び抜いたのが本書とのこと。本のタイトルとなった「九つの銅貨」をはじめ何れの作品も詩人らしいポエジー溢れています。
あとがきにも書かれているように、「子供たちのため」よりも「子供たちでも楽しめる」不思議感覚溢れる大人の童話です。
自分的に気に入ったのは身寄りの無い3人の煙突掃除見習小僧の物語「ウォックリシャーの眠り小僧」とお母さん思いながら何をやっても中途半端で魚釣りだけが生きがいのジョンと魚の王様による魔法によって人魚にされてしまったお姫様アルマナーラとの物語「魚の王様」です。
個人的に以前は魚釣りを趣味としていましたので、「魚の王様」は特に楽しく読めました。アルマナーラを人間に戻したいがために自ら魚に変身したジョンが魚の王様が垂らした釣り針の餌にわざとかかるくだりなど大人気なくも夢中で読んでしまいました。
残りの3作いずれも不思議感と哀愁感の織り交ざった作品です。つじつまの合わないエンディングにちょっと戸惑いを感じたりもしますが、そこはポエジーの世界なんだなと割り切ってしまえば気にはなりません。
それから所々に散りばめられている版画の数々も物語のイメージと上手く調和していて良い感じです。
全編を通じて語られているのは自分自身と世界(外界)との係わりです。世界(外界)は風景であり神の存在ともいえるものです。
そして係わり方を追い求めることにより際立っているのは詩人の孤独感です。
「世界が愛してくれるので/私はいつまでも孤りでいられる」「…私はひとを呼ぶ/すると世界が振り向く/そして私はいなくなる」この詩行は62篇目の詩「62」で歌われています。「ひと」とは「私にはじめてひとりのひとが与えられた」ひとであり、「私」とは心そのもの、魂そのものと解釈できます。
孤独であること、それは世界と同一化した自らの姿であり、「私の不在」は詩人にとり安らぎの姿なのです。
詩のスタイルは14行詩、所謂ソネットの形式を用いていますが、脚韻には特に拘っていません。しかしながら定型詩のもつ独特な存在感(小宇宙)に魅了されてしまいます。
ただ、何れの詩もサプライズ、高揚感がやや乏しく感じるのは残念でなりません。
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この詩集は茨木のり子の第3詩集にあたり、初版は思潮社より1965年に刊行されています。そして2001年に童話社より復刊されたものです。
この詩集で鎮魂するのは父(花の名)、初代ユリイカの伊達得夫(本の街にて)、梅蘭芳(うしろめたい拍手)、そして第二次世界大戦の被害者となった総ての御霊(りゅうりぇんれんの物語)です。自らの在り様とみつめ、悲惨な戦争の結末を見据えての詩篇、目を背けがちな読者の心を叱咤激励するようです。
その他では、この詩集の代表的作品と言える「汲む」、個人的に良いなあと感じた「私のカメラ」他全14遍の詩が収められています。
どうしても述べなければならないのは戦中、日本が行った戦争犯罪行為を告発する叙事詩ともいえる「りゅうりぇんれんの物語」です。思想的な観点からでは無く人としての根源より理想と思えた毛沢東による中国の開放。戦中日本軍により踏み躙られた農村が生き生きと描かれていますが、昨今の中国国内の情勢を眺めていると、どうやら今度は開発の名のもと、僅かな立退き料と引き換えに田畑を奪われ、経済格差に喘ぐ中国農村部の悲惨さは目を被うばかりのようです。
この事実について天国へ逝かれた詩人の思うところを問いただしたくなる気持ちは募るばかりです。
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あるのは飛び立つことへの試行を繰返す魂のせつなさです。決して飛び立てない、飛び立とうとしない、それでいて、それさえも苦痛、心の叫びとはならず淡々としていて読むものに苛立ちをも感じさせます。
詩篇の展開は地方都市(たぶん、都心よりさほど遠くない八王子近郊辺りかなと推測します)を舞台として展開しています。
男との出会い(ワタル「ワタル」、M「シカゴの耳」、役場の窓口の男「新しい日々Ⅱ」、Y「ホームにて」も語られていますが、それぞれの男には実在感が乏しく、すれ違った一つの風景として語られています。
悲観的でもなく、否定的でもなく、ひたすらに水耕栽培の観葉植物のような日常を綴ることによって明日をつなぎとめようとする。そんな思いを詩篇より感じます。
日常を否定するのでもなく、淡々と繰返す日々を綴るとき、この詩集のような表現となるのかも知れません。
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まあ、違うから判り合おうとするのかな?そうであるなら、男と女の違いを認め合うこと。どっちが優れているとかで無くて、違いを認め合って尊敬しあう。そんな姿勢が大切なようです。
で、折角だからとレビューを書いて、mixiとアマゾンにも同文を投稿しました。
台所からチッキンへ変わったのは単にカタカナ表記となっただけではなく、そこで紡がれる詩の内容も「女であることの苦悩、女であることを否定する詩」より「女であることを謳歌する詩」へと移り変わったようです。そしてチッキンそのものの在り方が不確かなものとなった今、女性の紡ぐ詩は何処へ向うのか大変興味があるところです。
さて、高橋順子編による本著ですが、詩集等を刊行している所謂著名な女性詩人のみならず日の当らぬ場所に埋もれかけた女性詩人の作品をも暖かい眼差しの解説を添え丁寧に紹介されています。
編者のまえがきからは本アンソロジーを編集するに際しての熱い想いが綴られており、「生きていくためには詩をかかずにはいられなくて、そういう現代詩との源流とははずれたところで自己流に書いてきた女性詩人は少なくない。その言葉は洗練を欠いているかもしれないが、破れそうなほど内圧が高かったり、血を流していたりする。そういう言葉を私はもう一度聞きたかったのである」と結ばれています。
自らの拠るべき位置を確めようとする若い女性詩人はもとより、「台所で君に話しかけたい」男性諸氏にもお奨めします。
とまあこんな感じです。最近、こっち留守しがちなのですが、やはりブログはブログで大切にしたいかも(^.^)
最近購入した詩集、4冊も溜まってしまいました。丸善で購入した須永紀子著「空中前夜」、ブックオフで購入した「女性詩人85」、新宿紀伊国屋で購入した立原道造著「萓草に寄す」、「続々谷川俊太郎詩集」と4冊もあります。うち、空中前夜と萓草に寄すはパラパラと読んでいるのですが、特に萓草に寄すは凄く良いです。読む度にこんな詩を書きたいなあと感じ入ってしまいます。
さて、本題に入りましょう。
1.「決起せよ」。
街頭風景という詩で歌われている最後の詩行です。「いつも何かが上から降ってくる/季節を問わず 天候を問わず/頭に灰のようなものが降ってくるのだ」、「私はいつものように頭の何かを手で払って/…中略…/ざまあみろと振り返った欅の太い胴腹には/どうして今まで気がつかなかったのか/ボール紙が針金で巻き付けられていて/古びてすっかり灰色と化した小さな文字で/こう書いてあるのが確かにちらとみえたのだった//「決起せよ」。」
頭に降る灰のようなもの、何かなと結構考えました。思うに「追憶」では無いかと考えます。追憶、過ぎ去ったことに思いを馳せる事、老境といっても良い詩人の心に去来する過ぎ去りし日々の残骸、海底に降るプランクトンの死骸が堆積するように心に降り積もるのではと考えました。
そして、「決起せよ」、新左翼運動華やかしき頃のアジテート、ちょうど戦中派の人々にとって天皇を、そして当時の国体を肯定する言葉の数々が忘れられないように学生運動に身を投じた人々の心に刻み込まれた甘い香りのする言葉のようです。「古びてすっかり灰色と化した小さな文字」詩人も過去の遺物となったのを自覚しているようです。新左翼、今の改革と同様に、希望に満ちた明日の扉を開く鍵と見えたのはひとときの幻想だったのでしょうか?
2.新しき言葉たち
この詩集では今の時代をつづる言葉がいくつか用いられています。
(1)コンビニ弁当
この言葉は「報告」という詩に綴られています。「漂ってくる匂いには/何一つ懐かしいところがない/賞味期限の切れたコンビニ弁当の匂いよりも」。「報告」はサブタイトルとして「かつてわれらに『われらの力19』(岡田隆彦)なる力ありき」とあります。報告、誰に何を報告するのか、そして「力」とはなんなのか、深くかんがえてしまいます。詩行全体より読み取れるのは、95年に亡くなった岡田へのシンパシーと言えるものです。報告、それは岡田宛てたものであり、死を自覚せざるを得ない詩人の心情の発露に感じます。死を意識すること、死を歌うこと、避けられないことであり、いずれは誰もが直面する死と向き合うことは詩人として必要であるとは思いますが、一方で受け入れたくは無い、死と向き合う詩には関わりたくない自分がいます。希望の先にあるものは死であって欲しくない、そんな気持ちがYock自身にあるのかな?
(2)IT関連の言葉
IT、近頃は胡散臭さの代名詞となっているようですが、この詩集では幾つかの言葉が綴られています。
1)携帯
携帯電話を差す、この言葉は「携帯」という詩に用いられています。「かろやかにも言葉に携帯されている者/私よ。」、「ちゃらちゃらしたハンド・ストラップよ、/いや私よ」「私を携帯する言葉は、/いつも希望しないことを希望するから、」この詩のキーワードは「有季定型句の意識と無意識なんかもね。」にあるように感じます。
季節感の失われた都市に生きる詩人の感性なのでしょうか。「常に言葉にぶら下がっていて、/他のお客様のご迷惑になってきた、/私よ。」で結ばれています。
言葉に携帯されている私、それは、かろやかであり、他のお客様の迷惑になるらしい、う~ん、深いです、深すぎます。そしてちゃらちゃらしたハンド・ストラップでもあるのです。
2)ウィンドーズ
窓として詩行では歌われていますが、直接的な言葉としては歌われていません。でも、IPの代名詞ウィンドーズを意識している詩であることには違いないようです。そして、この詩でも主題は死であるようです。様々な死と窓を語ったあとに「死ストキニハ/チョットダケデモ/窓ノコト/思イダスコトガデキタライイナ。」と結ばれています。窓、それは希望の象徴であり、詩人にとっての窓は「どんな窓を開けるにもためらったはず」のものであるようです。躊躇、明日への震えなのでしょうか。
3.まとめのまとめ
他にも「べらまっちゃ」、「さよなら」、「戦後叙情」など素敵な詩が詩集に溢れています。特に戦後叙情は詩人の人生の締めくくりであるようにも感じられ「とさ。」と締めくくられています。「とさ。」昔話を括るような言葉であり、自分自身の生涯を突き放す詩人の視線が読むものに突き刺さります。
死について語っている作品には心を抉られる思いもしますが、清水哲男の集大成のような詩集となっています。読みやすさもありますし、何度も読み直したくなる詩が多いので、気になる方は購入されることをオススメします。
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さて、詩集、皆さんはどこで読まれるのだろうか?書斎があれば別だけど、パソコンデスクとか食卓、それともベッド、布団に寝転んで読むのかな?通勤電車の中、本当は効率的なんだよね。朝は日経読まなければならないけど、帰りの電車、夕刊紙読むのもなぁってことで本当は詩集読みたいですねぇ。夕刊紙1部120円だから、その分をブタに貯めれば毎月1冊は確実に詩集も買えるし。(夕刊紙、確かにえっちぃ記事も載っているけど、結構ためになる記事載っていたりします。それは、サブカルっぽい情報だったりします。)
でも、詩集を電車の中で読む、女性なら微笑ましい光景だよねぇ!でも、野郎のバヤイはどうだろうか?あの思潮社から出ている新書版の文庫なら怪訝な顔もされず気楽そうだけど、あの2段組は兎に角いけません。詩集、基本的に余白の多さ欲しいです。で、白行もたっぷし欲しいなあ。
以前、現代詩手帳か何かで誰かが詩集の装丁とかについてウンチクを述べていて、そうだそうだと頷いた覚えがあります。
話を戻して、電車の中で詩集を読むリーマン、どう思われるかな?カバーをしていれば、アレだけど、シートに腰掛けている場合、左右の人が何て思うかな?まあ、エロ本読んでいるよりもマシかもしれないけど、似たり寄ったりの反応だったりして(汗)
まあ、小心者ってことでしょか?(~_~;)
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この詩集でも死に関わる詩が何篇か掲載されています。そのなかから今回は「落日」についてYockなりに批評してみます。
「「俺たちの生き方は間違っていなかった」/かつて年賀状にそう書いてよこした友だちが/歩道橋の上から盛んに合図を送ってくる/はじめの道に戻るのだ」この4行は詩の序盤から中盤にかけて書かれている詩行です。そして詩の締めくくりは「今年の年賀状に/お前からのはなかった。」と結ばれています。
つまり歩道橋の上から合図を送ってきたのは亡くなった友のようです。その友の言葉「俺たちの…」とタイトルの「落日」、友とは詩作に関する友なのか、それとも学生運動時代の友なのか、「生き方は間違っていなかった」という言葉が読む者に重くのしかかってきます。
歩道橋の上、それは彼岸とか彼の世なのかなと考えます。まだこちらへ来るのは早いと詩人に合図をおくっているのでしょうか「はじめの道に戻るのだ」回帰すること、在るべき姿へという事なのかな?
清水哲男のサイト
『増殖する俳句歳時記』
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