ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

新宿区箪笥町「袖擦坂」

2006年01月31日 21時21分27秒 | 
君と出会いしこの坂に
金襴緞子の晴姿
内掛け姿の君の名を
誰が鳴かずにいらりょうか


袖振り合うも多生の縁と
交わす会釈もいとほしく
生まれし定めは違えども
つのる恋と咲き乱るる


されど流離う心幸無きと
恋しき想い振り捨てむ
深山幽谷我は棲む


この佳日春告鳥の姿にて願ふ
君の幸せ永久なりと
君の幸せ幾久しくと



参考URL:
袖擦り坂



ランキングサイトに登録しています
ブログランキング・にほんブログ村へ



黄燐と投げ縄について 最終回

2006年01月30日 12時41分58秒 | 書評のようなもの
 何回かに分けて掘り下げようと立ち上げた企画でしたが、どうやら企画倒れとなりそうな気配。でも、けじめとしてなんとか纏め上げようと思います。
 最近購入した詩集、4冊も溜まってしまいました。丸善で購入した須永紀子著「空中前夜」、ブックオフで購入した「女性詩人85」、新宿紀伊国屋で購入した立原道造著「萓草に寄す」、「続々谷川俊太郎詩集」と4冊もあります。うち、空中前夜と萓草に寄すはパラパラと読んでいるのですが、特に萓草に寄すは凄く良いです。読む度にこんな詩を書きたいなあと感じ入ってしまいます。

さて、本題に入りましょう。
1.「決起せよ」。
  街頭風景という詩で歌われている最後の詩行です。「いつも何かが上から降ってくる/季節を問わず 天候を問わず/頭に灰のようなものが降ってくるのだ」、「私はいつものように頭の何かを手で払って/…中略…/ざまあみろと振り返った欅の太い胴腹には/どうして今まで気がつかなかったのか/ボール紙が針金で巻き付けられていて/古びてすっかり灰色と化した小さな文字で/こう書いてあるのが確かにちらとみえたのだった//「決起せよ」。」
  頭に降る灰のようなもの、何かなと結構考えました。思うに「追憶」では無いかと考えます。追憶、過ぎ去ったことに思いを馳せる事、老境といっても良い詩人の心に去来する過ぎ去りし日々の残骸、海底に降るプランクトンの死骸が堆積するように心に降り積もるのではと考えました。  
  そして、「決起せよ」、新左翼運動華やかしき頃のアジテート、ちょうど戦中派の人々にとって天皇を、そして当時の国体を肯定する言葉の数々が忘れられないように学生運動に身を投じた人々の心に刻み込まれた甘い香りのする言葉のようです。「古びてすっかり灰色と化した小さな文字」詩人も過去の遺物となったのを自覚しているようです。新左翼、今の改革と同様に、希望に満ちた明日の扉を開く鍵と見えたのはひとときの幻想だったのでしょうか?

2.新しき言葉たち
  この詩集では今の時代をつづる言葉がいくつか用いられています。
 (1)コンビニ弁当
  この言葉は「報告」という詩に綴られています。「漂ってくる匂いには/何一つ懐かしいところがない/賞味期限の切れたコンビニ弁当の匂いよりも」。「報告」はサブタイトルとして「かつてわれらに『われらの力19』(岡田隆彦)なる力ありき」とあります。報告、誰に何を報告するのか、そして「力」とはなんなのか、深くかんがえてしまいます。詩行全体より読み取れるのは、95年に亡くなった岡田へのシンパシーと言えるものです。報告、それは岡田宛てたものであり、死を自覚せざるを得ない詩人の心情の発露に感じます。死を意識すること、死を歌うこと、避けられないことであり、いずれは誰もが直面する死と向き合うことは詩人として必要であるとは思いますが、一方で受け入れたくは無い、死と向き合う詩には関わりたくない自分がいます。希望の先にあるものは死であって欲しくない、そんな気持ちがYock自身にあるのかな?

 (2)IT関連の言葉
  IT、近頃は胡散臭さの代名詞となっているようですが、この詩集では幾つかの言葉が綴られています。  
  1)携帯 
  携帯電話を差す、この言葉は「携帯」という詩に用いられています。「かろやかにも言葉に携帯されている者/私よ。」、「ちゃらちゃらしたハンド・ストラップよ、/いや私よ」「私を携帯する言葉は、/いつも希望しないことを希望するから、」この詩のキーワードは「有季定型句の意識と無意識なんかもね。」にあるように感じます。
季節感の失われた都市に生きる詩人の感性なのでしょうか。「常に言葉にぶら下がっていて、/他のお客様のご迷惑になってきた、/私よ。」で結ばれています。
  言葉に携帯されている私、それは、かろやかであり、他のお客様の迷惑になるらしい、う~ん、深いです、深すぎます。そしてちゃらちゃらしたハンド・ストラップでもあるのです。
  2)ウィンドーズ
  窓として詩行では歌われていますが、直接的な言葉としては歌われていません。でも、IPの代名詞ウィンドーズを意識している詩であることには違いないようです。そして、この詩でも主題は死であるようです。様々な死と窓を語ったあとに「死ストキニハ/チョットダケデモ/窓ノコト/思イダスコトガデキタライイナ。」と結ばれています。窓、それは希望の象徴であり、詩人にとっての窓は「どんな窓を開けるにもためらったはず」のものであるようです。躊躇、明日への震えなのでしょうか。

3.まとめのまとめ
 他にも「べらまっちゃ」、「さよなら」、「戦後叙情」など素敵な詩が詩集に溢れています。特に戦後叙情は詩人の人生の締めくくりであるようにも感じられ「とさ。」と締めくくられています。「とさ。」昔話を括るような言葉であり、自分自身の生涯を突き放す詩人の視線が読むものに突き刺さります。
 死について語っている作品には心を抉られる思いもしますが、清水哲男の集大成のような詩集となっています。読みやすさもありますし、何度も読み直したくなる詩が多いので、気になる方は購入されることをオススメします。



ランキングサイトに登録しています
ブログランキング・にほんブログ村へ


風邪をひいてしまいました

2006年01月30日 10時10分18秒 | 日記のようなもの
 何とかは風邪をひかないとか良く言いますが、何とYockは風邪引きさんとなってしまいました。で、売薬はあまり効かないので近所の診療所に早速行って来ました。月曜日なのかワリカシ空いていたのは幸いでしたけど、診察わずか5分で初診料込みの1,200円、隣の薬局で薬代1,800円と風邪ひとひきで3,000円もかかりました。
 う~ん、風邪も迂闊に引けない感じです。それに、いつぞやの法改正で診療するところと薬局の分離、結局は儲かるところが増えただけで、患者に取って良い所はひとつも無い感じがします。
 K泉の構造改革、ちっとも構造改革とはなっていなんじゃないでしょうか(ぷりぷり)日本橋から高速道路を撤去するとか思いつきだらけなような気がします。
 まあ、折角の月曜日休み、ちょっと有効に使いたい気もします。

定型詩への挑戦

2006年01月28日 18時37分10秒 | 詩に関わる話
 昨日現代詩フォーラムと、ここに投稿した「ぐぐってどうよ」あまり満足の行く出来とはなりませんでした。反省してみると、あまりにも直接的表現になっていて、本来の詩的表現が多分に不足していたのかなと考えます。それから語感から「僕」では無く、「おいら」としてみたのですが、やはり自分には相応しくない気がします。
 でも、この詩で満足出来なかったのは却って良かった気がします。それは、暫く定型詩を書いてみようという目論見を実行に移す踏ん切りとなったからです。
 取り敢えずは「ソネット」らしきものに挑戦してみます。続くかどうかは判りませんが、人と変わったことをしたい性分(へそ曲がり)なもので、詩情より痴情の目立つ流れに抗う一本の杭となりたい思いも日増しに強くなってきました。
 今さっき、投稿した詩は東京の坂シリーズとして書いたものです。この東京の坂シリーズの詩はソネット+七五調で書けたらなと考えています。
 はてさて、どうなる事やら(^_^;)





ブログランキング・にほんブログ村へ

新宿区市谷船河原町「逢坂」

2006年01月28日 18時15分26秒 | 東京の坂
狂おしく 狂おしきままに
待ちわびて
結ぶ太鼓に散る花は
夢見の果てとあおぎみて


流れゆく 流るるままに
時すぎて
契りし思いに散る花は
あれは逢瀬とかえりみる


帰らぬ君の面影を
綸子の白地に梅絞り
かなわぬ恋と枕を濡らし


日暮に宿す面影を
草履の鼻緒はつづれ織り
ここは逢坂 恋は霞か恋はおぼろに



参考URL
逢坂(新宿区)




ランキングサイトに登録しています
ご協力を
ブログランキング・にほんブログ村へ


ぐぐってどーよ

2006年01月27日 19時37分21秒 | 
女性を虜にする素敵な呪文があるらしい
早速おいらはぐぐってみたよ
ぐぐる
ぐぐれば
ぐぐるとき
港区六本木に素敵なオアシスがあるらしい
早速おいらはぐぐってみたよ
ぐぐる
ぐぐれば
ぐぐるとき
ついにおいらは見つけたよ
東京砂漠の素敵なマンション
アンフェスバエナでも双の頭を同時に洗える素敵なパウダールームと
フットサルが出来るほど広大なリビングルーム
あまりにも巨大なMADE IN USAの冷蔵庫には何を入れるのだろう
それは夢か希望か幻か
シティバンクの個人年金証書か
それとも捨てた彼女の戯言なのか
そして地下駐車場に滑り込む真っ赤なアルファロメオを迎えるのは
制服姿の素敵なコンシェルジェと
女性を虜にする素敵な呪文
エコエコアザラク
エロイムエッサイム
テクノクマヤコン
お金があれば呪文はいらない
呪文が判ればお金はいらない
嗚呼 21世紀最大の素敵なアンビバレントよ!
ホ○エモンの堕ちる先で待ち受けるものは
ぐらぐら煮え立つ五右衛門風呂か
素敵な女性の待つ黄金のジャグジーか
はたまた巣鴨プリズンの素敵な絞首台なのか
おいらは欲しいぞ素敵な呪文
おいらは欲しいぞ素敵なヒルズ






ブログランキング・にほんブログ村へ


書き続けられる詩とは

2006年01月26日 20時52分51秒 | 詩に関わる話
 丸善で注文した新詩集がまだ届かないので、つなぎって訳じゃないけど、今BOOK-OFFの100円均一コーナーで購入した現代詩文庫「八木忠栄詩集」を読んでいます。(しかも電車の中と仕事サボりの喫茶店で(^_^;))2段組が気に食わないけど、値段につられて買ってしまいました。となりには、あの吉増が(汗)たぶん、この手の詩が好きな人が手放したのかな?
 八木忠栄、まとめて読むのは初めてですが、う~ん、ビート詩です。後期はわりかし古典への回帰も垣間見えますが初期作品はまんまビートで、ギンズバーグへ捧げた感じの「美しい兇状」って詩も収録されています。
 で、本題に入ると、ビート詩のような怒りと焦燥感にかられた詩を書きつづけられるのかなと最近思いはじめました(飽きっぽいというか、気分屋だし、怒りを四十六時中持続できなさそう)。それから現代詩フォーラムに綴られた多くの詩を読むにつけ、結構好きなスタイルの詩とはどんな詩なのかがだんだんと見えてきたようです。でも、そのスタイルでYock自身が書き続けられるのかなという疑問も生じてきました

 つまり、好きな詩、書ける詩と書き続けられる詩は異なるようです。1作ぐらいだったら、好きなスタイルを真似し、なんちゃってで書けるにしても、そのスタイルを持続することは難しいのかな。それは自らの性格、キャラ、生い立ちなどに左右されるようです。逆説的に言えば、自分なりに書き続けられる詩の輪郭のようなものがおぼろげながら見えてきたってことかも知れません。でも、まだ本当にもやもやした感じなのでで、たぶん、ああこんな詩が自分のスタイルだったんだなと後になって気付くって感じなのかも。




ブログランキング・にほんブログ村へ




雪溶歌

2006年01月25日 20時26分41秒 | 
君と僕にできること
それは優しさの眼差しで
雪の白さを歌うこと


君と僕にできること
それは愛しさの眼差しで
山の青さを歌うこと


歌の心は見た目じゃなくて
揺り動かされた心のおもむくままに


君と僕にできること
美しさはどこまでも美しく
悲しさは素直なままに涙を流し
へんちょこりんな言葉でも
ちょっと気取って書いてみる


明日はきっと晴れだな


明日はきっと良いことありそう




ランキングサイトに登録しています
ブログランキング・にほんブログ村へ


韓国の詩事情

2006年01月24日 21時02分33秒 | 詩に関わる話
 暇つぶしにネットを巡回していたらこんな記事を韓国の中央日報の日本語サイトで見つけました。何でも詩の世界でも、いよいよ韓流が起こりつつあるとかで、あの詩学1月号で韓国詩を特集しているとか。リンクの記事上で詩学が権威あるって書いてあるけど、ちょっと大げさな気がしないでもないのです。韓国の詩壇は、日本の現状とは大きく異なって文学界でも大きな位置を占めているとか聞いたことがありますし、日本の現代詩とは異なって、メッセージ性のある詩が多いようです。熱情的、喜怒哀楽のはっきりとした国民性が詩に顕れているのかも。
 どう判断されるかは、リンクから記事を読んでみてくださいね。

中央日報「今度は「文学韓流」…韓国の詩が日本で人気」
URL: http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=72039&servcode=700§code=700



ブログランキング・にほんブログ村へ


風に舞い風に歌う

2006年01月24日 08時40分01秒 | 
緋色の帯を解く君は頬を赤く染め
何だか恥ずかしげな風情だね
帯止めの色目は玉虫だから
綴られた思いも刻々とその表情を変え


真新しい紙とインクのほのかな香り
読みかけの頁に挟んだ栞のように
晩冬の渡り鳥は夕陽を目指し


しどけなく肌けた裾よけの調べよ
無惨と開く半襟の初々しさよ


いつかの日に歩んだ小径の在り処を
いつかの日に眺めた流れ星の行く末を
君は吐息混じりに千夜一夜と囁いて


総てを曝す君と僕の思いは混じり合い
絡み合い
ほころぶ花蕾は風に舞い 風に歌うよ




↓ランキングサイトに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ