玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

木戸幸一の日記―11―「明暗」

2022-03-30 15:22:26 | 近現代史

1945年12月16日に、戦争犯罪の容疑で近衛と木戸は巣鴨拘置所に出頭することになっていた。

『木戸日記(下)』の12月15日のくだりでは、―

「…都留(重人)君来訪、キーナン(首席検察官)と会食せしことに話ありたり…」とある。

これには注釈が必要だろう。都留重人は木戸の実弟の和田小六の娘婿であり、都留はハーバート大出身で当時のGHQの高官にもハーバード大出身が多く、GHQ内に知人を有していたので、木戸は都留の筋からGHQ情報を得ていた。

翌日、木戸が巣鴨に出頭する、その朝のことだ。

『木戸日記 東京裁判期』の12月16日のくだりには、―

「今日は愈々巣鴨収容所に入る日なり。余等の結婚記念日なるも奇しき因縁か。…」

―と、強がりだろうが、かなりの余裕が感じられる。そこに近衛の訃報が届く。

「近衛公今暁自殺云々を報ず、甚だ残念なり。」

―と、一行の言葉が残される。たった一行である。

一方、死を覚悟した近衛文麿の12月15日の夜のコトである。

次男の通隆が「これと言って親孝行することもできませんで申し訳ありません」と言ったそうだ。

「親孝行って、いったい何だい」

―最後の晩の、近衛の返答がこれだった。(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』から引用)

まさに敵を知る者、知らない者、その情報の格差。そして、両者ともに己を知らない者の夫々の焦燥の中での、二人の決定的な別離の瞬間を感じるが、…。

桜は八分咲きか、…。

 


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