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ナビゲーターは魂だ

永井荷風     すみだ川   5,/10

2015-08-22 | 

 一(ひと)しきり 毎日毎夜のように降りつづいた雨の後(あと)、今度は雲一ツ見えないような晴天が 幾日と限りもなくつづいた。
しかし どうかして 空が曇ると 忽(たちまち)に風が出て 乾ききった道の砂を吹散(ふきちら)す。
この風と共に 寒さは日にまし強くなって 閉切(しめき)った家の戸や 障子(しょうじ)が
絶間(たえま)なくがたりがたりと 悲しげに動き出した。

長吉は 毎朝七時に始(はじま)る学校へ行くため 晩(おそ)くも六時には起きねばならぬが、
すると 毎朝の六時が起(おき)るたびに、だんだん暗くなって、
遂には夜と同じく家の中には燈火(ともしびの)光を見ねばならぬようになった。

毎年(まいとし) 冬のはじめに、長吉は この鈍(にぶ)い黄いろい夜明けのランプの火を見ると、
何ともいえぬ悲しい厭(いや)な気がするのである。

母親は わが子を励ますつもりで 寒そうな寝衣姿(ねまきすがた)のままながら、
いつも長吉よりは早く起きて 暖い朝飯(あさめし)をば ちゃんと用意して置く。

長吉は その親切をすまないと感じながら 何分(なにぶん)にも眠くてならぬ。
もう暫(しばらく)炬燵(こたつ)にあたっていたいと思うのを、むやみと時計ばかり気にする母にせきたてられて
不平だらだら、 河風(かわかぜ)の寒い 往来(おうらい)へ出るのである。

或時は あまりに世話を焼かれ過ぎるのに腹を立てて、注意される襟巻(えりまき)を わざと解(と) きすてて
風邪(かぜ)を引いてやった事もあった。

もう返らない幾年か前 蘿月(らげつ)の伯父につれられ お糸も一所(いっしょ)に酉(とり)の市(いち)へ行った事があった
……毎年(まいとし)その日の事を思い出す頃から間もなく、今年も去年と同じような寒い十二月がやって来るのである。

 長吉は 同じような その冬の今年と去年、去年とその前年、それから それと 幾年も溯(さか)のぼって何心なく考えて見ると、
人は成長するに従って いかに幸福を失って行くものかを 明(あき)らかに経験した。

まだ学校へも行かぬ子供の時には 朝 寒ければ ゆっくりと寝たいだけ寝ていられたばかりでなく、
身体(からだ)の方も またそれほどに寒さを感ずることが烈(はげ)しくなかった。
寒い風や 雨の日には かえって面白く飛び歩いたものである。

ああ それが今の身になっては、朝早く 今戸(いまど)の橋の 白い霜を踏むのが いかにも辛(つら)く
また昼過ぎには いつも木枯(こがら)しの騒ぐ待乳山(まつちやま)の老樹に、早くも傾く夕日の色が いかにも悲しく見えてならない。

これから先の 一年一年は 自分の身にいかなる新しい苦痛を授けるのであろう。

長吉は 今年の十二月ほど 日数(ひかず)の早くたつのを悲しく思った事はない。

観音(かんのん)の境内(けいだい)には もう年(とし)の市(いち)が立った。
母親のもとへと お歳暮のしるしに お弟子が持って来る砂糖袋や 鰹節(かつぶし)なぞが そろそろ床の間へ並び出した。

学校の学期試験は 昨日すんで、一方(ひとかた)ならぬ その不成績に対する教師の注意書(ちゅういがき)が
郵便で 母親の手許に送り届けられた。

 初めから覚悟していた事なので 長吉は 黙って首をたれて、何かにつけてすぐに「親一人子一人」と
哀(あわ)れッぽい事をいい出す母親の意見を聞いていた。

午前(ひるまえ)稽古(けいこ)に来る 小娘たちが帰って(のち) 午過(ひるす)ぎには 三時過ぎてからでなくては、
学校帰りの娘たちはやって来ぬ。 今が丁度 母親が一番手すきの時間である。

風がなくて 冬の日が 往来の窓 一面にさしている。
折から 突然 まだ格子戸(こうしど)をあけぬ先から、「御免(ごめん)なさい。」と いう華美(はで)な女の声、
母親が驚いて立つ間もなく 上框(あがりがまち)の障子の外から、
「おばさん、わたしよ。御無沙汰(ごぶさた)しちまって、お詫(わ)びに来たんだわ。」

 長吉は 顫(ふる)えた。 お糸である。

お糸は 立派なセルの吾妻(あずま)コオトの紐(ひも)を解(と)き解き 上って来た。
「あら、長ちゃんもいたの。 学校が お休み……あら、そう。」

それから付けたように、ほほほほと笑って、さて 丁寧に手をついて 御辞儀をしながら、
「おばさん、お変りもありませんの。ほんとに、つい家(うち)が出にくいものですから、あれッきり御無沙汰しちまって……。」

 お糸は 縮緬(ちりめん)の風呂敷(ふろしき)につつんだ菓子折を出した。
長吉は 呆気(あっけ)に取られたさまで 物もいわずに お糸の姿を目戍(みま)もっている。

母親も ちょっと烟(けむ)に巻かれた形で 進物(しんもつ)の礼を述べた後、
「きれいにおなりだね。すっかり見違えちまったよ。」といった。

「いやにふけちまったでしょう。皆(みんな)そういってよ。」と 
お糸は 美しく微笑(ほほえ)んで 紫(むらさき)縮緬の 羽織の紐の 解けかかったのを 結び直すついでに
帯の間から 緋天鵞絨(ひびろうど)の煙草入(たばこい)れを出して
「おばさん。わたし、もう煙草喫(の)むようになったのよ。生意気でしょう。」 今度は高く笑った。

「こっちへおよんなさい。寒いから。」と 母親のお豊は 長火鉢の鉄瓶(てつびん)を下(おろ)して 茶を入れながら、
「いつお弘(ひろ)めしたんだえ。」
「まだよ。ずっと押詰(おしづま)ってからですって。」
「そう。お糸ちゃんなら、きっと売れるわね。何しろ綺麗(きれい)だし、ちゃんともう地(じ)は出来ているんだし……。」
「おかげさまでねえ。」と お糸は言葉を切って、
「あっちの姉さんも大変に喜んでたわ。私なんかより もっと大きなくせに、それァ随分出来ない娘(こ)がいるんですもの。」

「この節(せつ)の事(こ)ったから……。」 お豊は ふと気がついたように 茶棚から菓子鉢を出して、
「あいにく何にもなくって……道了(どうりょう)さまのお名物だって、ちょっとおつなものだよ。」と
箸(はし)で わざわざ摘(つま)んでやった。

「お師匠(っしょ)さん、こんちは。」と 甲高(かんだか)な一本調子で、二人ふたりづれの小娘が騒々しく稽古(けいこ)にやって来た。

「おばさん、どうぞお構いなく……。」
「なにいいんですよ。」と いったけれど お豊は やがて次の間へ立った。

 長吉は 妙に気まりが悪くなって 自然に 俯向(うつむ)いたが、お糸の方は 一向変った様子もなく 小声で、
「あの手紙届いて。」

 隣の座敷では 二人の小娘が声を揃(そろ)えて、嵯峨(さが)やお室(むろ)の花ざかり。

長吉は 首ばかり頷付(うなず)かせて もじもじしている。
お糸が 手紙を寄越(よこ)したのは 一(いち)の酉(とり)の前(まえ)時分(じぶん)であった。

つい 家(うち)が出にくいというだけの事である。
長吉は 直様(すぐさま) 別れた後(のち)の生涯を こまごまと書いて送ったが、
しかし待ち設けたような、折返したお糸の返事は 遂に聞く事が出来なかったのである。

「観音さまの市(いち)だわね。今夜一所に行かなくって。あたい今夜泊ってッてもいいんだから。」
 長吉は隣座敷の母親を気兼(きがね)して 何とも答える事ができない。
お糸は構わず、
「御飯たべたら迎いに来てよ。」といったが その後(あと)で、「おばさんも一所にいらッしゃるでしょうね。」
「ああ。」と長吉は 力の抜けた声になった。
「あの……。」 お糸は 急に思出して、
「小梅の伯父さん、どうなすって、お酒に酔えって羽子板屋(はごいたや)のお爺(じい)さんと喧嘩けんかしたわね。
何時(いつ)だったか。 私 怖くなッちまッたわ。今夜いらッしゃればいいのに。」

 お糸は 稽古の隙(すき)を窺(うかが)って お豊に挨拶(あいさつ)して、
「じゃ、晩ほど。どうもお邪魔いたしました。」といいながらすたすた帰った。







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