(三)
善人でさえ浄土に往生することができるのです。
まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生する
のだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。
これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。
なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。
しかしそのような人でも、自力にとらわれた心を
あらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、
真実の浄土に往生することができるのです。
あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、
どのような修行によっても迷いの世界をのがれる
ことはできません。
阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願を
おこされたのであり、そのおこころはわたしどもの
ような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願のはたらきにおまかせする
悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を
持つものなのです。
それで、善人でさえも往生するのだから、まして
悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
(四)
慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、
いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。
一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、
気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。
ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した
大いなる慈悲の心なのです。
このように聖人は仰せになりました。
〈五)
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かつて一度もありません。
というのは、命のあるものはすべてみな、これまで
何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、
父母であり兄弟・姉妹であったのです。
この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならないのです。
念仏が自分の力で努める善でありますなら、
その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、
念仏はそのようなものではありません。
自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。
このように聖人は仰せになりました。
〈六)
同じ念仏の道を歩む人々の中で、自分の弟子だ、
他の人の弟子だといういい争いがあるようですが、
それはもってのほかのことです。
この親鸞は、一人の弟子も持っていません。
なぜなら、わたしのはからいで他の人に念仏させるのなら、その人はわたしの弟子ともいえるでしょうが、阿弥陀仏のはたらきにうながされて念仏する人を、わたしの弟子などというのは、まことに途方もないことだからです。
つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁があれば離れていくものなのに、師に背き他の人にしたがって念仏するものは往生できないなどというのは、とんでもないことです。
如来からいただいた信心を、まるで自分が与えたものであるかのように、取り返そうとでもいうのでしょうか。
そのようなことは、決してあってはならないことです。
本願のはたらきにかなうなら、おのずから仏のご恩もわかり、また師の恩もわかるはずです。
このように聖人は仰せになりました。
(七)
念仏者は、何ものにもさまたげられない
ただひとすじの道を歩むものです。
それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信じるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのような善も本願の念仏には及ばないからです。
このように聖人は仰せになりました。
(八)
念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。
念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。
また、自分のはからいによって努める善ではないから、善ではないというのです。
念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、自力を離れているから、それを称えるものとっては、行でもなく善でもないのです。
このように聖人は仰せになりました。。。。
浄土真宗聖典 歎異抄 現代語版より