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ナビゲーターは魂だ

永井 荷風    すみだ川   6/10

2015-08-23 | 

 長吉は 風邪かぜをひいた。
七草(ななくさ)過ぎて 学校が始まった処から 一日無理をして通学したために、
流行のインフルエンザに変って 正月一ぱい寝通してしまった。

 八幡さまの境内に 今日は朝から 初午(はつうま)の太鼓が聞える。
暖い 穏(おだ)やかな午後(ひるすぎ)の日光が 一面にさし込む 表の窓の障子には、
折々(おりおり) 軒(のき)を掠(かす)める小鳥の影が閃(ひらめ)き、
茶の間の隅の 薄暗い仏壇の奥までが 明(あか)るく見え、
床の間の梅が もう散りはじめた。

春は 閉切(しめき)った家(うち)の中までも 陽気におとずれて来たのである。

 長吉は二、三日前から起きていたので、この暖い日を ぶらぶら散歩に出掛けた。
すっかり全快した 今になって見れば、二十日(はつか)以上も苦しんだ大病を
長吉は もっけの幸いであったと 喜んでいる。

とても 来月の学年試験には 及第する見込みがない と思っていた処なので、
病気欠席の後(あと)といえば、
落第しても 母に対して 尤(も)っとも至極(しごく)な申訳(もうしわけ)ができると思うからであった。

 歩いて行く中(うち) いつか浅草(あさくさ)公園の裏手へ出た。
細い通りの片側には 深い溝(どぶ)があって、それを越した鉄柵(てつさく)の向うには、
処々(ところどころ)の 冬枯れして立つ 大木(たいぼく)の下に、
五区(ごく)の揚弓店(ようきゅうてん)の 汚(きたな)らしい 裏手がつづいて見える。

屋根の低い片側町(かたかわまち)の人家は
丁度 後(うしろ)から 深い溝の方へと 押詰められたような気がするので、
大方 そのためであろう、それほどに混雑もせぬ往来が いつも 妙に 忙(いそが)しく見え、
うろうろ徘徊(はいかい)している 人相(にんそう)の悪い車夫(しゃふ)が
ちょっと風采(みなり)の小綺麗(こぎれい)な通行人の後(あと)に煩(うるさ)く付き纏(まと)って
乗車を勧(すすめ)ている。

長吉は いつも 巡査が立番(たちばん)している 左手の石橋(いしばし)から
淡島(あわしま)さまの方までが ずっと見透(みとお)される 四辻(よつつじ)まで歩いて来て、
通りがかりの人々が 立止って眺めるままに、自分も何という事なく、
曲り角に出してある 宮戸座(みやとざ)の絵看板(えかんばん)を仰いだ。

 いやに 文字(もんじ)の間(あいだ)を くッ付けて 模様のように 太く書いてある
名題(なだい)の木札(きふだ)を中央(まんなか)にして、
その左右には 恐しく顔の小(ちい)さい、眼の大(おお)きい、指先の太い人物が、
夜具をかついだような 大(おお)きい着物を着て、
さまざまな 誇張的の姿勢で 活躍しているさまが 描(えが)かれてある。
この 大きい 絵看板 蔽(おお)う 屋根形の軒には、
花車(だし)につけるような 造り花が 美しく飾りつけてあった。

 長吉は いかほど暖い日和(ひより)でも 歩いていると
さすがに まだ 立春になったばかりの事とて
暫(しばらく)の間 寒い風をよける処をと 思い出した矢先(やさき)、
芝居の絵看板を見て、そのまま 狭い立見(たちみ)の戸口へと 進み寄った。

内(うち)へ這入(はい)ると 足場の悪い梯子段(はしごだん)が立っていて、
その中ほどから曲るあたりは もう薄暗く、
臭い 生暖(なまあたた)かい 人込(ひとご)みの温気(うんき)が
なお更暗い 上の方から 吹き下りて来る。

頻(しき)りに 役者の名を呼ぶ掛声(かけごえ)が聞える。
それを聞くと 長吉は 都会育ちの観劇者ばかりが経験する
特種(とくしゅ)の快感と 特種の熱情とを 覚えた。

梯子段の 二、三段を 一躍(ひととび)に駈上(かけあが)って 人込みの中に割込むと、
床板(ゆかいた)の斜(なな)めになった 低い屋根裏の大向(おおむこ)うは
大きな船の底へでも 下りたような心持。

後(うしろ)の 隅々(すみずみ)についている 瓦斯(ガス)の 裸火(はだかび)の光は
一ぱいに 詰(つま)っている 見物人の頭に遮(さえ)ぎられて 非常に暗く、狭苦しいので、
猿のように 人のつかまっている前側の鉄棒から、
向うに見える劇場の内部は 天井ばかりが いかにも広々と見え、
舞台は 色づき 濁った空気のために かえって小さく甚(はなはだ)遠く見えた。

舞台は チョンと 打った拍子木の音に 今 丁度廻って止(とま)った処である。
極めて一直線な石垣を見せた台の下に 汚れた水色の布が敷いてあって、
後(うしろ)を限る書割(かきわり)には 小さく大名屋敷(だいみょうやしき)の練塀(ねりべい)を描(えが)き、
その上の空一面をば 無理にも夜だと思わせるように 隙間(すきま)もなく 真黒(まっくろ)に塗りたててある。

長吉は 観劇に対する これまでの経験で「夜」と「川端(かわばた)」という事から、
きっと 殺(ころ)し場に違いないと 幼い好奇心から 丈伸(せの)びをして 首を伸(のば)すと、
果(は)たせるかな、絶えざる低い大太鼓(おおだいこ)の音に 例の如く 板をバタバタ叩(たた)く音が聞えて、
左手の 辻番小屋の蔭(かげ)から 仲間(ちゅうげん)と蓙(ござ)を抱えた女とが 大きな声で争いながら出て来る。

見物人が笑った。 舞台の人物は 落したものを捜(さが)す体(てい)で 何かを取り上げると、
突然 前とは全く違った態度になって、極めて明瞭に 浄瑠璃外題(じょうるりげだい)
「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)」、勤めまする役人……と 読みはじめる。

それを待構えて 彼方(かなた)此方(こなた)から 見物人が声をかけた。
再び 軽い拍子木の音を合図に、黒衣(くろご)の男が 右手の隅に立てた 書割の一部を引取ると
裃(かみしもを着た 浄瑠璃語(じょうるりかた)り三人、三味線弾(しゃみせんひ)き 二人が、
窮屈そうに 狭い台の上に並んでいて、直ぐに弾(出ひきだ)す三味線からつづいて
太夫(たゆう)が 声を合わしてかたり出した。

長吉は この種の音楽には いつも興味を以て聞き馴れているので、
場内の何処(どこか)で泣き出す赤児(あかご)の声と
それを叱咤(しった)する 見物人の声に妨げられながら、
しかも 明(あき)らかに語る文句と 三味線の手までを 聴きき分ける。

・・・朧(おぼろ)よに 星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音(ね)も、
もしや我身(わがみ)の追手(おって)かと・・・

 またしても 軽いバタバタが聞えて 夢中になって 声をかける見物人のみならず
場中(じょうちゅう)一体が気色立(けしきだつ)。
それも道理だ。赤い襦袢(じゅばん)の上に 紫繻子(むらさきじゅす)の幅広い襟(えり)をつけた 座敷着の遊女が、
冠(かぶ)る手拭てぬぐいに 顔をかくして、前かがまりに 花道(はなみち)から駈出(かけだ)したのである。
「見えねえ、前が高いッ。」「帽子をとれッ。」「馬鹿野郎。」なぞと怒鳴どなるものがある。

 ・・・落ちて行衛ゆくえも白魚しらうおの、舟のかがりに網よりも、人目いとうて後先あとさきに・・・

 女に扮(ふん)した役者は 花道の尽きるあたりまで出て 後(うしろ)を見返りながら 台詞(せりふ)を述べた。
その後(あと)に唄(うた)がつづく。

・・・しばし彳(たたず)む 上手(うわて)より 梅見返りの舟の唄。
忍ぶなら 忍ぶなら 闇(やみ)の夜は置かしやんせ、月に雲のさはりなく、辛気(しんき)待つ宵、
十六夜(いざよい)の、内(うち)の首尾(しゅび)はエーよいとのよいとの。
聞く辻占(つじうら)に いそいそと 雲足早き 雨空(あまぞら)も、
思ひがけなく 吹き晴れて 見かはす月の顔と顔・・・

 見物が また騒ぐ。
真黒に塗りたてた 空の書割の中央(まんなか)を大きく穿抜(くりぬ)いてある 円(まる)い穴に灯(ひ)がついて、
雲形(くもがた)の蔽(おお)いをば 糸で引上げるのが 此方(こなた)からでも 能(よ)く見えた。

余りに 月が大きく明(あか)るいから、大名屋敷の塀の方が遠くて 月の方がかえって非常に近く見える。
しかし 長吉は 他の見物も同様 少しも美しい幻想を破られなかった。
それのみならず 去年の夏の末、お糸を葭町(よしちょう)へ送るため、待合(まちあ)わした
今戸(いまど)の橋から眺めた 彼(あ)の 大きな 円(まる)い 円い月を 思起(おもいお)こすと、
もう舞台は 舞台でなくなった。

 着流し 散髪(ざんぱつ)の男が いかにも 思いやつれた風(ふう)で 足許(あしもと)危(あや)うく歩み出る。
女と摺(す)れちがいに 顔を見合して、
「十六夜(いざよい)か。」
「清心(せいしん)さまか。」
 女は 男に縋(すが)って、「逢(あ)ひたかつたわいなア。」
 見物人が「やア御両人(ごりょうに)ん。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。
「静かにしろい。」と 叱(しか)りつける 熱情家もあった。

 舞台は 相(あい)愛する男女の入水(じゅすい)と共に廻って、
女の方が 白魚舟(しらうおぶね)の夜網(よあみ)にかかって 助けられる処になる。

再び 元の舞台に返って、男も 同じく死ぬ事が出来なくて 石垣の上に這(は)い上あがる。
遠くの騒ぎ唄、富貴(ふうき)の羨望(せんぼう)、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。

波瀾(はらん)の上にも 脚色の波瀾を極めて、遂に 演劇の一幕(ひとまく)が終る。
耳元近くから 恐しい黄(き)いろい声が、「変るよ――ウ」と叫び出した。
見物人が 出口の方へと 崩(なだ)れを打って下(お)りかける。

 長吉は 外へ出ると 急いで歩いた。あたりは まだ明(あか)るいけれど もう日は当っていない。
ごたごたした 千束町(せんぞくまち)の小売店(こうりみせ)の暖簾(のれん)や旗なぞが
激しく飜(ひるがえ)っている。
通りがかりに時間を見るため 腰をかがめて覗(のぞ)いて見ると
軒の低い それらの家(うち)の奥は 真暗(まっくら)であった。

長吉は 病後の夕風を恐れて ますます歩みを早めたが、
しかし 山谷堀(さんやぼ)りから 今戸橋(いまどばし)の向むこうに開ける
隅田川(すみだがわ)の景色を見ると、どうしても 暫(しばらく)立止らずには いられなくなった。

河の面(おもて)は 悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は
対岸の堤を おぼろに霞(かす)めている。
荷船(にぶね)の帆の間をば 鴎(かもめ)が幾羽となく飛び交(ちが)う。

長吉は どんどん流れて行く河水(かわみず)をば 何がなしに 悲しいものだと思った。

川向(かわむこ)うの 堤の上には 一ツ二ツ灯(ひ)がつき出した。
枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦(かわ)ら屋根、 目に入(い)るものは
尽(ことごと)く褪(あ)せた 寒い色をしているので、
芝居を出てから 一瞬間とても 消失(きえう)せない
清心(せいしん)と十六夜(いざよい)の華美(はで)やかな姿の記憶が、
羽子板(はごいた)の押絵(おしえ)のように また一段と 際立(きわだ)って浮び出す。

長吉は 劇中の人物をば 憎いほどに羨(うらや)んだ。
いくら羨んでも 到底及びもつかない わが身の上を悲しんだ。
死んだ方がましだ と 思うだけ、
一緒に死んでくれる人のない身の上を 更に痛切に悲しく思った。

 今戸橋を 渡りかけた時、掌(てのひら)で ぴしゃりと横面(よこつら)を張撲(はりなぐ)るような河風。
思わず 寒さに胴顫(どうぶる)いすると同時に 長吉は 咽喉(のど)の奥から、
今までは記憶しているとも 心付かずにいた
浄瑠璃(じょうるり)の一節(いっせつ)が われ知らずに 流れ出るのに驚いた。

・・・今さらいふも 愚痴(ぐち)なれど・・・
と 清元(きよもと)の一派が 他流の模(も)すべからざる曲調(きょくちょう)の美麗を托した 一節(いっせつ)である。

長吉は 無論 太夫(たゆう)さんが 首と身体(からだ)を伸上(のびあ)がらして唄ったほど上手に、
かつまた そんな大きな声で 唄ったのではない。

咽喉から流れるままに 口の中で低唱(ていしょう)したのであるが、
それによって 長吉は やみがたい心の苦痛が 幾分か柔(やわら)げられるような心持がした。

今更いうも愚痴なれど・・・ほんに思えば・・・岸より覗(のぞ)く 青柳(あおやぎ)の・・・と
思出(おもいだ)す節(ふし)の、ところどころを 長吉は 家(うち)の格子戸(こうしど)を開ける時まで
繰返(くりかえ)し 繰返し歩いた。

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