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ナビゲーターは魂だ

萩原朔太郎     初めてドストイェフスキイを讀んだ頃

2014-12-22 | 思索
 初めてドストイェフスキイを讀んだのは、何でも僕が二十七、八歳位の時であつた。それ以前によんだ西洋の文學は、主にポオとニイチェとであつた。その他にもトルストイなど少し讀んだが、僕にはどうもぴつたりしないので、記憶に殘るといふほどでもなく、空から讀にして通つてしまつた。後々迄も影響し、僕の文學的體質を構成するほど、眞に身に沁みて讀んだ本は、ポオとニイチェと、それからドストイェフスキイの三つであつた。僕はポオから「詩」を學び、ニイチェから「哲學」を學び、ドストイェフスキイから「心理學」を學んだ。
 僕がドストイェフスキイを讀んだ頃は、丁度「白樺」の一派が活躍して、人道主義が一世を風靡した時代であつた。その白樺派の人たちは、トルストイとドストイェフスキイとを竝立させて、文學の二大神樣のやうに崇拜して居た。僕がド氏の名を初めて知り、その作品を讀む機縁になつたのも、實は白樺派の人に教はつた爲であつた。しかしそれを讀んだ後に、僕は白樺派の文學論を輕蔑した。なぜならド氏の小説とトルストイとは、氣質的に全く對蹠する別物であり、一を好む者は他を好まず、他を愛する者は一を取らずといふほど、本質的にはつきりした宇宙の兩極であつたからだ。單に人道主義といふ如き感傷觀で、二者を無差別に崇拜する白樺派のヒロイズムは、僕にとつてあまり子供らしく淺薄に思はれた。

 僕が初めて讀んだド氏の小説は、例の「カラマゾフの兄弟」であつた。勿論飜譯であつたが、僕はすつかりこれに打たれてしまつた。あの厖大な小説を、二晝夜もかかつて一氣に讀み了り、夢から醒めたやうにぼんやりした。當時僕がどんなに深く感動したかは、その時讀んだ本の各頁に、鉛筆で無數の書き入れや朱線がしてあるので、今もその古い本を見る毎に、新しい追憶の感銘が興るほどだ。イワンもドミトリイも、すべての人物が面白かつたが、特にあの氣味の惡い白痴の下男と、長老ゾシマの神祕的な宗教觀が面白かつた。
 次に讀んだ本は「罪と罰」であつた。これにはまたカラマゾフ以上に感激させられた。主人公ラスコリニコフの心理と言行とが、小説の最初から大尾まで、魔法のやうに僕の心を引き捉へて居た。當時僕はニイチェを讀んで居たので、あの主人公の大學生が、ナポレオン的超人にならうとイデアした思想の哲學的心境がよく解り、一層意味深く讀み味へた。その讀後の深い印象から、僕はラスコリニコフを以て自ら氣取り、滑稽にもその小説的風貌を眞似たりした。夜は夜で、夢の中に老婆殺しの恐ろしい幻影を見た。
 この時以來、僕は完全なドストイェフスキイ・マニアにかかつた。それから彼の文庫を渉獵して、日本語の飜譯がある限り、一つ殘さず讀み耽つた。しかし多くの物の中で、就中最も感銘が深かつたのは、彼のシベリア流刑記を自傳した「死人の家」であつた。これと前記の二作とは、おそらくド氏の三部代表作であるだらう。ただ「惡靈」だけは、どういふものか興味がないので途中で止めた。「白痴」を讀んだ時は、主人公の精神病的な異常氣質が、たまたま僕とよく酷似してゐる點があるので怖くなつた。僕がそれほど強くドストイェフスキイに魅力された原因も、おそらく作者との氣質的、血液類似型的の生理關係にあるのか知れない。もつとも僕の讀書の仕方は、すべて皆生理的である。ポオも、ニイチェも、ショーペンハウエルも、僕はすべて我流の仕方で、神經生理學的に讀むのであり、さうでない限り、僕に讀書の興味はないのであるが、ドストイェフスキイの場合は、僕との氣質的類似の機縁で、特にそれがはつきりして居た。
 當時僕は詩を作り、初めて文壇的に出發したので、二三の友人と共に同人雜誌を發行して居た。それは「感情」といふ名前の雜誌で、同人には室生犀星、山村暮鳥等の詩人が居た。前にも書いた通り、この時代は白樺派の活躍した全盛時代だつたので、自然その影響を受けたらしく、山村君や室生君等やの詩にも、多少人道主義的傾向が現れ、トルストイズムの臭氣が濃厚だつた。然るに僕はトルストイが嫌ひであり、且つ白樺派のジャーナリズムに輕侮の反感を抱いて居たので、此等の友人等に向つて、僕は大いにドストイェフスキイの惡靈的神祕文學を推薦した。僕の推薦した意味は、人道主義などといふ淺薄のものを捨てて、ドストイェフスキイから深刻な文學を學べといふ意味だつた。
 トルストイの愛讀者であつた山村君や室生君は、直ちに僕の言をいれてドストイェフスキイを讀み始め、後には全く僕以上の熱愛讀者になつてしまつた。しかし本來僕と人間的氣質を異にし、且つ生理的にも健康性を多分に持つてる二人の詩人が、僕と同じ仕方でドストイェフスキイを讀む筈が無かつた。僕の讀み方によるドストイェフスキイは、心理上でポオと共通し、思想上でニイチェ、ショーペンハウエルと類縁するところの作家であつたが、友人たちの見たドストイェフスキイは、やはり白樺派の人と同じく、人道主義的に見たそれであつた。そこで僕は、自然に思想上で彼等と別れ、雜誌の發行にも興味を失つてしまつたのであつた。丁度その時、僕は處女詩集「月に吠える」を出し、室生犀星君もまた第一詩集「愛の詩集」を發行した。前者の詩篇には、僕の見たド氏の生理的内臟圖が描かれてあり、後者の詩集には、室生君の見たド氏の人道的な肖像が描かれて居た。

 僕が出發した當時の文壇は、ドストイェフスキイの名が最も高く呼ばれて居り、一つの文壇的流行でさへあつたにかかはらず、事實全く理解されてなかつたのである。單にドストイェフスキイばかりでなく、白樺派の偶像としてあれほど流行したトルストイさへ、少しも本質的には理解されて居なかつた。世界の文豪である大トルストイが、救世軍的人道主義者として擔がれたり、通俗モラルのセンチメンタリストとして、女學生の涙劇的ヒロイズムの對象であつたりしたことを考へると、今から考へて全く馬鹿馬鹿しく滑稽である。ゲーテも、ハイネも、ニイチェも、日本では早くから名が叫ばれて流行し、その文學的概論さへ解らない中に、既に「流行おくれ」となつてバタ屋の紙屑箱に賣られて行つた。昭和三年頃の或る雜誌に、近頃トルストイやドストイェフスキイを言ふのは時代遲れだと書いた人がある。大正九年頃の或る雜誌に、今頃ニイチェを論ずるのは流行遲れで古臭いが云々と書いてあつた。しかも昭和十年頃の最近になつて、それらのもつと古臭いゲーテやハイネが、漸く少しばかり本體を知られて來たのである。
 要するに日本の文壇は、過去に於て女學生と中學生との文壇だつた。最近漸く大學豫科の一年生位に入門して來た。そこで初めてドストイェフスキイが、眞の文學的本質によつて理解される機縁が來た。日本の再建される文壇は、再度もはや過去のやうに、流行のハシリを追ふ稚態を止め、正しい認識によつて外國の古典文學を讀むべきである。


歎異抄 より 現代語訳

2014-08-28 | 思索
(三)
善人でさえ浄土に往生することができるのです。
まして悪人はいうまでもありません。

ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生する
のだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。

これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。
なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。

しかしそのような人でも、自力にとらわれた心を
あらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、
真実の浄土に往生することができるのです。

あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、
どのような修行によっても迷いの世界をのがれる
ことはできません。
阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願を
おこされたのであり、そのおこころはわたしどもの
ような悪人を救いとって仏にするためなのです。

ですから、この本願のはたらきにおまかせする
悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を
持つものなのです。

それで、善人でさえも往生するのだから、まして
悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。


(四)
慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、
いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。

一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。

この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、
気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。

ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した
大いなる慈悲の心なのです。
 
このように聖人は仰せになりました。



〈五)
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かつて一度もありません。
 
というのは、命のあるものはすべてみな、これまで
何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、
父母であり兄弟・姉妹であったのです。

この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならないのです。

念仏が自分の力で努める善でありますなら、
その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、
念仏はそのようなものではありません。

自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。

このように聖人は仰せになりました。



〈六)
同じ念仏の道を歩む人々の中で、自分の弟子だ、
他の人の弟子だといういい争いがあるようですが、
それはもってのほかのことです。

この親鸞は、一人の弟子も持っていません。
なぜなら、わたしのはからいで他の人に念仏させるのなら、その人はわたしの弟子ともいえるでしょうが、阿弥陀仏のはたらきにうながされて念仏する人を、わたしの弟子などというのは、まことに途方もないことだからです。

つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁があれば離れていくものなのに、師に背き他の人にしたがって念仏するものは往生できないなどというのは、とんでもないことです。

如来からいただいた信心を、まるで自分が与えたものであるかのように、取り返そうとでもいうのでしょうか。

そのようなことは、決してあってはならないことです。

本願のはたらきにかなうなら、おのずから仏のご恩もわかり、また師の恩もわかるはずです。

このように聖人は仰せになりました。


(七)
念仏者は、何ものにもさまたげられない
ただひとすじの道を歩むものです。

それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信じるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのような善も本願の念仏には及ばないからです。

このように聖人は仰せになりました。



(八)
念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。

念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。

また、自分のはからいによって努める善ではないから、善ではないというのです。

念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、自力を離れているから、それを称えるものとっては、行でもなく善でもないのです。

このように聖人は仰せになりました。。。。

浄土真宗聖典 歎異抄 現代語版より






吉田 一穂(いっすい) 『未来者』 の 序

2014-07-04 | 思索
これは 神と 我れとの 対話である。 
竟(つい)に彼は答えず、我れの独白に了る。

詩は垂直の声であり、絶対者の言葉である。

 
それは紙や石に書くが如きものではなく、 
ユークリッド星座とも謂ふべき、言語に拠る一体系としての、独立な次元、まさしく人間現極に於ける自然荘厳のデオニソス全円でなければならない。 

ヘレン・カルディコット博士 

2013-04-08 | 思索
皆様ありがとうございます。

私は 医師として、また 特に子供たちを診る立場の 小児科医であった という立場から、

本日は 福島の事故の 医療的な側面から 影響について お話を申し上げたいと 思っております。


福島は 人類の歴史上 最悪の産業事故です。

極めて深刻な事故で 3つの炉の メルトダウンがおこるという、

人類史上 初の 3連続の メルトダウン事故でした。

とにかく 莫大な量の 放射性物質が 放出されました。


そして ひとつ幸運だったことは 最初の数日間、 風が西から東へふいて、

つまり 太平洋へ向かって ふいていた ことです。

そのあと 風向きが 北西方向に変わり、 日本の 南の方向にまで向かって

放射性物質が 拡散していく ということが おきました。


そしてその間、 日本政府は 放射性物質の 拡散について SPEEDIというシステムをもっていて、

拡散の状態の 評価があったにもかかわらず、 パニックを避けるため というような理由で、

国民に 情報を与えることを しませんでした。

ですから 中には 最も放射線の高かった方向へ向かって 逃げた人が 出てしまいました。


私自身、 チェルノブイリ事故の推移を ずっと そのあとを追って 緊密に 見て きましたけれども、

その中で 私が言えるのは、 ロシア人の人たちというのは、 ロシアの国は 日本に比べると

もっと積極的に 人を移動させる、 避難させる ということに 取り組んだと思います。

国民を守るために そのような行動を ロシアの方が とったということを 私は感じます。


日本の政府も、 それから 東京電力も 理解していないことは、

子供たち というのは 放射性物質に対する 感受性が 大人の 10倍~20倍と あるということです。

放射線被曝に 由来する ガンにかかる リスク ということで、

子供の中でも 男の子と 女の子を 比べた場合には、 女の子の方が リスクは 2倍になります。

そして 成人と比べて 胎児と 比較してみると、

胎児の方が そのリスクは 1000倍~何千倍 というリスクの高さ になります。


そして 福島の 地域200万人の人がいて、 福島市という、福島市も 放射線が高いんですが、

その地域に 25万人の人口が住んでいます。


私は 日本政府が 子供たちを 線量の高い地域に 住まわせ続ける、住むことを許している

ということに 非常な驚きを 禁じ得ません。

チェルノブイリの場合は 同じレベルの汚染地域から ロシアは 子供たちを 避難させました。

私は 日本政府が、日本の国が、東京電力や 原子力産業から 強い影響を受けたり、

あるいは 場合によっては コントロールされるというような 状況にあることを 知っております。


そしてまた 政治家の皆さん というのは、 医療的な側面や 科学的なものに対しての 知識が

あまり 深いところまで お持ちでは ありません。

とくに 福島県、特に線量の高い地域にいる子供たち、妊婦、それから子供を産む、出産ができる年齢の方々、

そういった 方々が 高線量地域にいるということは、 医療的な側面から見て 非常に 極めて 深刻な問題です。


そして 子供たちは 一生、 生きていく今後の人生の中で ガンになる 可能性が 出てくるわけですが、

ガンというのは 潜伏する期間が 結構長くあるということが ヒロシマや ナガサキの経験から わかっています。

5年とか 17年とか そういった長い年月が かかります。


そして 当局の皆さんは 福島の 18歳以下の子供たち 8万人の 検査をした と聞いております。

とくに 甲状腺の 超音波検査をした ということでした。


そして この検査の中で 40%の子供に 甲状腺に 何らかの異常が 見つかった という結果が出ていますが、

このような数字というのは 小児科の見地からみますと 極めて ほんとうに まったく 希な話 であります。


子供たちの中には 必ず今後、甲状腺のガンに かかる子供が 出てくると思われますが、

すでに 12歳の男の子で 甲状腺ガンが 見つかっていますし、今1 6歳の女児が 検査を受けて

ガンの 可能性が 極めて高いと言われて、更に 検査をしていると きいております。

そして チェルノブイリの場合は、このガンが ではじめたのが 5年ぐらい経ってから だったんですが、

今現在 日本で これだけ 症状と言えるものが 出ている ということは、

この 日本の子供たちは 相当高い線量を 受けたのではないか ということが 言えると思います。

おそらく チェルノブイリよりも 高い線量の被曝を 受けた と考えられます。


医師としての 私の立場からみると、日本の政府というのは、日本の人たち、人間を守る ことよりも

東京電力を守る ことに がんばっているのではないか というふうに 見えてしまいます。


そして 高い線量の 地域にいる 特に子供たち、妊婦、それから 子供を産むことができる 若い女性なり、

子供を産める女性の方たち、こういった方たちを 移住させる、 そこから避難させるというのは

極めて重要なことだと 私は考えていまして、そこで その移住のための費用を

国の政府が きちんとまかなう、負担する ということは 非常に重要なことだと 私は思っています。


ですから 実際、非常に弱い立場にある、こういったような 子供や 妊婦さんや 若い女性、

そういった人たちよりも、実際、東京電力を 守るために 予算を使うということを しているのが、

今の 日本の 政治だと 思います。


そして 放射性元素というのは 食物の中に 蓄積します。

たとえば キノコ類、 ほうれん草、 お米、 お茶、 それから 魚。

放射性物質というのは、味は しません。 匂いも 全く しないし、 目に見えることも ありません。

ですから 福島からきた 汚染した 食品を 人が 口にしているわけですが、

残念ながら 日本には その 放射性を帯びた 食品を 食べることに 実質的に 規制がない というところです。


そして こういった 魚とか 食品とか 放射性物質がある食品、

たとえば セシウム137で 汚染された食品を 食べていると、何年か経った時に 悪性の脳腫瘍とか

筋肉腫とか その他のガンを 発症する、ガンになる という可能性が 出てきます。


そして例えば 福島県の学校や 幼稚園では、

放射能を帯びている 放射性物質が 入っているような食事を 子供に 与える というようなことをしています。

これは 医療的な見地から見ると「非道徳的」と言わざるを得ません。

福島からの食品、とにかく毎週すべて 検査をする必要が あります。

そして 検査の結果によっては 販売をして 口にするということが あってはいけない と考えております。


そして 魚ですが 太平洋の魚には 高い放射性レベルが 検知されています。

これは 放射性元素が 大量に 海に投棄され 放出されたからですが、

この 太平洋に放出された この放射性物質の 量というのは、 人類の過去の史上 最高の量です。


私は 400人の一般市民の方を前に 講演をさせていただきましたが、

そこで 私が感じたのは、そこに来られた 一般市民の皆さんが、一体どうしたらいいのかということを

必死で 知りたいと思っている、何が起きているかというのを

必死で 知りたいと思っていらっしゃる お気持ちでした。


福島の結果 どんな影響が起きて 日本に 今 なにが起きているのか ということを、

広く 一般の人に 知らせる責任が メディアにはある と思いますが、

今のところ 全体的にみて その責任は 果たされていないように 見えます。


そして この福島の事故、これは まだ終わってはいません。 まだ 続いているわけです。

そして いま 40年、時間をかけて、クリーンアップ、きれいにする といっていますけれども、

科学的に見て クリーンアップ、きれいにするということは できません。

これは 科学的に言って 不可能です。


セシウム137というのは 300年残ります。 そして 福島はじめ その周辺の汚染地域も 汚染されたままです。

食品の汚染も、そして 人が汚染を受けたものも、 300年 あるいはそれ以上の時間 続くわけです。

そして 国の政府は どうも 今回の この大災害というか 大事故が どれだけ長い時間が かかるものか

という現実を よく理解されていない と思います。


そして これから 疫学的に見ても 白血病や ガンや 先天性の形成異常とか そういったものが

今後70年間にわたって 次々出てくるであろう ということを 私は思います。

そのことを 実は 原子力産業も 知っている のではないかと 思います。

福島に今、ガンに対応するための 非常に大きな 医療施設を 作ろうとしている と聞いています。


そしてまた 福島の 原子力発電所の 処理をするために 極めて高い線量のところで 作業しておられる

作業員の方々 についても、公に 記録が 人々に見える形で 残されていない 状態に 今 あります。

そして 高線量のところで 作業をする人たちの 放射線による被害の状態 というのは

きちんと 記録がなされ、それが 公の情報として 出されていかなければいけない と思いますが、それが

実際に可能になっていくかどうかは、この メディアによっているところが 非常に大きい と考えています。


そしてもう一つ、最も重要な点なんですが、日本の多くの人に 知っていただきたいことは、

もし 福島の地域で もう一度 マグニチュード7以上の、7を超えるような 大きな地震があった場合には、

福島原発の4号機、この建物が 崩壊する可能性が あるということで、

ここには 使用済み核燃料の 冷却用のプール がありますが、これが崩壊しますと、

チェルノブイリで起こった 10倍の放射性物質が さらに放出される ということが予想されている という点です。


そして もしそのようなことが起きた場合、日本という国の大半の部分が、もう終わってしまうということです。


それほどの大事であるにもかかわらず、多くの人が その現実に

はっきりと 気づいていない ということだと 思います。

そして 政治家の方は すでに、もし4号機に何かあって そういった 崩壊とかの事故があった場合には、

東京も 今度は 避難しなければいけなくなる というようなことを わかって言っていらっしゃいますが、

一体 3000万人の人を どうやって避難させるんでしょうか?


そして 日本の政府も それから 東京電力も、外国の企業からの助け、あるいは アメリカの NRCからの助けや

海外の専門家からの支援 を得ることを 認めていませんので、得ていない 状態にありますので、

4号機の補強する、強化をして 安全にするために ぜひ 協力を仰ぐべきだと 考えます。


今、日本だけ、東電だけで、いまこの対処をするのに、クレーンを設置して

中の使用済み燃料を 取り出すことができるようにするのに 2年かかるということを言っていますが、

その2年間、待っている間に 何が起きて もおかしくありません。


そして 最後に申し上げたいことは、がれきの問題です。

福島の地域から出た、放射能で汚染された地域から出た がれきについて、

これを 他の地域で焼却するということを 聞いています。

焼却する ということは、ダスト、灰が出るわけです。

そのようなことをして、広めるということは、これは犯罪的なこと だと思います。

私からは以上でございます。ありがとうございました。


追記
クリーンアップ=除染  ダスト=ばいじん 塵  という解釈が 妥当かと思います。

質疑応答はすべて文字おこしはできませんが、とりあえず簡単に以下。

「日本の医師は表に出てこないブラックアウト状態。水俣の時よりひどい。」

「被曝にビタミンCはききません医学的には。」 BY カルディコット医師


場所:衆議院第一議員会館 一階多目的ホール 2012年11月19日

会見者:ヘレン・カルディコット博士 
 
【ヘレン・カルディコット医学博士 プロフィール】

1938年、オーストラリア・メルボルン生まれ。
ハーバード大学の小児科でも教鞭をとり、2万3000人の医師を擁する

Physicians for Social Responsibility(社会的責任を果たす医師団)の創立会長となる。

その傘下組織「International Physicians for Prevention of Nuclear War (IPPNW)核戦争防止医師会議」は、

ノーベル平和賞を受賞。 自身もノーベル平和賞候補になった。

著書に「狂気の核武装大国アメリカ」(集英社新書)、
「Nuclear Power Is Not the Answer to Global Warming or Anything Else
(原子力は温暖化への解答ではない)」など。

また、スミソニアン博物館は、カルディコットを20世紀で一番影響力のある女性の一人と評している。


記者会見 (司会は木下黄太さん) 文字おこしはoldblue管理人

ラッセル・アインシュタイン宣言 (1955)

2013-03-11 | 思索
人類が 直面している 悲劇的な情勢の中、 科学者による会議を召集し、

大量破壊兵器開発によって どれほどの危機に陥るのかを予測し、

この草案の精神において 決議を討議すべきであると 私たちは感じている。



私たちが 今この機会に 発言しているのは、 特定の 国民や 大陸や 信条の一員としてではなく、

存続が 危ぶまれている 人類、 いわば 人という種 の一員としてである。

世界は 紛争にみちみちている。

そこでは 諸々の 小規模紛争は、共産主義と 反共産主義との 巨大な戦いのもとに、隠蔽されているのだ。



政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題に 感情を強くゆすぶられている。



しかし もしできるならば、 皆に そのような感情から離れて、 すばらしい歴史を持ち、

私たちの だれ一人として その消滅を望むはずがない 生物学上の 種の成員としてのみ 反省してもらいたい。



私たちは、 一つの陣営に対し、 他の陣営に対するよりも 強く訴えるような言葉は、一言も使わないように こころがけよう。

すべての人が ひとしく 危機に さらされており、

もし 皆が この危機を理解することが できれば、 ともに それを 回避する望みが あるのだ。



私たちには 新たな思考法が 必要である。 私たちは 自らに 問いかけることを 学ばなくてはならない。

それは、私たちが 好む いづれかの陣営を 軍事的勝利に 導く為に とられる手段ではない。

というのも、 そうした手段は もはや 存在しないのである。 


そうではなく、私たちが 自らに問いかけるべき質問は、

どんな手段をとれば 双方に 悲惨な結末をもたらすにちがいない 軍事的な争いを 防止できるかという 問題である。



一般の人々、そして 権威ある地位にある多くの人々でさえも、 核戦争によって発生する事態を 未だ 自覚していない。


一般の人々は いまでも 都市が抹殺されるくらいにしか 考えていない。


新爆弾が 旧爆弾よりも 強力だということ、原子爆弾が1発で 広島を抹殺できたのに対して

水爆なら 1発で ロンドンや ニューヨークや モスクワのような巨大都市を 抹殺できるだろうことは 明らかである。



水爆戦争になれば 大都市が 跡形もなく破壊されてしまうだろうことは 疑問の余地がない。


しかしこれは、私たちが 直面することを 余儀なくされている 小さな悲惨事の 1つである。

たとえ ロンドンや ニューヨークや モスクワの すべての市民が 絶滅したとしても 

2、3世紀のあいだには 世界は 打撃から回復するかもしれない。

しかしながら 今や 私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾は これまでの推測よりも 

はるかに 広範囲にわたって 徐々に 破壊力を広げるであろうことを 知っている。


信頼できる 権威ある筋から、 現在では 広島を破壊した爆弾の 2500倍も強力な爆弾を 製造できることが 述べられている。


もしそのような爆弾が 地上近く または 水中で爆発すれば、 放射能をもった粒子が 上空へ 吹き上げられる。

そして これらの粒子は 死の灰 または 雨の形で 徐々に落下してきて、 地球の表面に 降下する。


日本の漁夫たちと その漁獲物を 汚染したのは、 この灰であった。

そのような 死をもたらす放射能 をもった粒子が どれほど広く拡散するのかは 誰にもわからない。


しかし 最も権威ある人々は 一致して 水爆による戦争は 実際に 人類に終末をもたらす 可能性が十分にあることを 指摘している。


もし 多数の水爆が 使用されるならば、全面的な 死滅がおこる 恐れがある。

 ――瞬間的に死ぬのは ほんのわずかだが、 多数のものは じりじりと 病気の苦しみをなめ、肉体は 崩壊してゆく。



著名な科学者や 権威者たちによって 軍事戦略上からの 多くの警告が 発せられている。

にもかかわらず、最悪の結果が 必ず起こるとは、だれも言おうとしていない。

実際 彼らが言っているのは、このような結果が 起こる可能性がある ということ、

そして だれも そういう結果が 実際起こらないとは 断言できない ということである。


この問題についての 専門家の見解が 彼らの政治上の立場や 偏見に 少しでも左右された ということは 今まで見たことがない。


私たちの調査で 明らかになったかぎりでは、 それらの見解は ただ 専門家の それぞれの知識の範囲に もとづいているだけである。

一番よく知っている人が 一番暗い見通しをもっていることが わかった。



さて、ここに 私たちが 皆に提出する問題、 きびしく、恐ろしく、おそらく、そして避けることの できない問題がある


 ――私たちは 人類に 絶滅を もたらすか、それとも 人類が 戦争を 放棄するか?


人々は この二者択一という 問題を 面と向かって とり上げようと しないであろう。

というのは、戦争を 廃絶することは あまりにも むずかしいからである。



戦争の廃絶は 国家主権に 不快な制限を要求するであろう。

しかし、おそらく 他のなにものにもまして 事態の理解を さまたげているのは、 

「人類」という言葉が 漠然としており、 抽象的だ と感じられる点にあろう。



危険は 単に ぼんやり感知される人類に 対してではなく、 

自分自身や 子どもや 孫たちに対して 存在するのだが、 人々は それをはっきりと 心に描くことが ほとんどできないのだ。


人々は 個人としての 自分たち めいめいと 自分の愛する者たちが、 

苦しみながら 死滅しようとする 切迫した危険状態にあるということが ほとんど つかめていない。

そこで 人々は、 近代兵器さえ 禁止されるなら、おそらく 戦争は つづけてもかまわない と思っている。



この 希望は 幻想である。


たとえ 水爆を使用しないという どんな協定が 平時にむすばれていたとしても、 
 
戦時には そんな協定は もはや拘束とは 考えられず、 戦争が起こるやいなや 双方とも 水爆の製造に とりかかるであろう。


なぜなら、もし 一方が それを製造して 他方が製造しないとすれば、 それを製造した側は かならず勝利するにちがいないからである。


軍備の 全面的削減の一環としての 核兵器を放棄する協定は、最終的な解決に結びつくわけではない けれども、

一定の 重要な役割を 果たすだろう。


第一に、およそ 東西間の協定は、緊張の緩和を 目指すかぎり、 どんなものでも 有益である。

第二に、熱核兵器の廃棄は、もし 相手が これを誠実に実行していることが 双方に信じられるとすれば、

現在 双方を 神経的な不安状態に落とし入れている 真珠湾式の 奇襲の恐怖 を減らすことになるであろう。


それゆえ 私たちは、ほんの第一歩には違いないが、そのような 協定を 歓迎すべきなのである。



大部分の人間は 感情的には 中立ではない。

しかし 人類として、私たちは 次のことを 銘記しなければならない。



すなわち、もし 東西間の問題が 何らかの方法で 解決され、 誰もが 

 ――共産主義者であろうと 反共産主義者であろうと、 アジア人であろうと ヨーロッパ人であろうと、

                   または、アメリカ人であろうとも、また 白人であろうと 黒人であろうと――、

出来うる限りの 満足を 得られなくてはならない とすれば、 これらの問題は 戦争によって 解決されては ならない。



私たちは 東側においても 西側においても、 このことが 理解されることを 望んでいる。



私たちの前には、もし 私たちが それを選ぶならば、 幸福と 知識の 絶えまない 進歩がある。


私たちの争いを 忘れることができぬからといって、 そのかわりに、私たちは 死を選ぶのであろうか?




私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの 人間性を 心に止め、そして その他のことを 忘れよ、と。


もしそれができるならば、道は 新しい楽園へ むかって ひらけている。


もしできないならば、あなたがたのまえには 全面的な 死の危険が横たわっている。


決議

私たちは、この会議を招請し、それを通じて 世界の科学者たち および 一般大衆に、つぎの決議に署名するようすすめる。



「およそ 将来の世界戦争においては かならず 核兵器が使用されるであろうし、

 そして そのような兵器が 人類の存続を おびやかしている という事実からみて、

 私たちは 世界の諸政府に、彼らの 目的が 世界戦争によっては 促進されない ことを自覚し、

 このことを 公然とみとめるよう 勧告する。


 したがってまた、私たちは 彼らに、彼らの あいだの あらゆる紛争問題の 解決のための 平和的な手段を みいだすよう勧告する。」



1955年7月9日 ロンドンにて

マックス・ボルン教授(ノーベル物理学賞)
P・W・ブリッジマン教授(ノーベル物理学賞)
アルバート・アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)
L・インフェルト教授
F・ジョリオ・キュリー教授(ノーベル化学賞)
H・J・ムラー教授(ノーベル生理学・医学賞)
ライナス・ポーリング教授(ノーベル化学賞)
C・F・パウエル教授(ノーベル物理学賞)
J・ロートブラット教授
バートランド・ラッセル卿(ノーベル文学賞)
湯川秀樹教授(ノーベル物理学賞)





仏説摩訶般若波羅蜜多心経

2011-11-08 | 思索
観自在菩薩 

行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。

舎利子。

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色。

受 想 行 識 亦復如是。

舎利子。

是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減。

是故空中 無色 無受 想 行 識

無眼 耳 鼻 舌 身 意

無色 声 香 味 触 法。

無眼界 乃至 無意識界。

無無明 亦無無明尽 乃至 無老死 亦無老死尽。

無苦 集 滅 道。

無智亦無得。 以無所得故  菩提薩捶  依般若波羅蜜多故 

心無圭礙  無圭礙故  無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提。

故知般若波羅蜜多  是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚。

故説般若波羅蜜多呪。

即説呪曰

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。  般若心経

玄侑宗久       対談集  多生の縁より

2011-01-22 | 思索
玄侑  いま 私が 一番興味を動かされているのは、東大の古澤明という 物理学の先生が、

    量子の テレポテーションに 世界で初めて 実験的に成功したことです。

 
    西暦2000年でしたか、 アメリカの IBM研究所で、古澤先生は 

    ある画像を 瞬時に 十キロ先まで テレポテーションさせた。

    理論的には、 瞬時に 何光年先までも 可能 だということですから、

    移動ではなく 転写のような ものですね。

   
    電子とか中性子、陽子、そういったレベルのものは 体感出来ないですから、

    何がおこっているのかは よく分からない部分が多いわけですけれども、

    たとえば ひとつの電子が 同時に 二カ所を通り抜けるとか、

    そういうことがあったり、 あるいは陽電子というものが、 

    ファインマンの実験によれば 時間を 遡って 出現することが出来たとか。

    
    物理学では もう 異次元空間というものも 充分考えています。



    量子の テレポテーションが 成功したということは、 いままで

    「そんなの 目の錯覚だよ」といっていた、死んだお父ちゃんが現れたとか、

    迎えに来たとか、そういうことが 物理学的に かなり 説明がつくところに

    近づいてきたという気がするんです。


  死ぬ間際には いろいろ 不思議なことが 起こるけれど、 それがまだ現在では

    説明がつかない。 説明出来ないことを われわれは否定したがりますから、

    いまはあまり 科学的な土俵の中で 話されていないですけれども、死ぬ間際に、

    特に ちょうどその人が死んだ時間に 枕元に立ったとか、 それも一ヵ所じゃなくて、

    かなり遠くにも 同時に出たというようなことは、 量子のテレポテーションとかで

    かなり説明がつくんですね。

    しかも、量子の移動に関しては 瞬時なんです。 距離が関係なくなって 瞬時だという、

    そういうことが 物理学で 説明がつくようになってくると、死というのは、 ますます

    肉体という 目に見える物体 だけのことじゃ ないんじゃないか、という気がしてきているんです。



坪井  それは、決して否定しませんね。 死というのは 確かに、われわれ医学、医療サイドからすれば、

    ひとつの プロセスであって、死というものに対して 挑戦しているわけですから、その意味では

    ひとつのピリオドであることに 間違いはない。 けれども、無限永久にして、恐れおののかなければ

    いけない 考え方からすると、決して ピリオドじゃないですからね。


    玄侑さんも お書きになってますけれども、 死というのは、ひとつの流れの中での 経過であると。

    その思想が ホスピスなんです。

    確かに われわれの近代医学は、死に対する挑戦、人間を死からガードすることが 最大の目的でなければ

    いけないということは 間違いないと 思うんです。

    だけれども、医者が 死に対する挑戦に敗れたら「もう何もやることがない」というのは 間違いなんです。

   
    われわれは そんなに 浅はかな医学を持っているわけではなくて、近代医学では 死に対する挑戦に

    ピリオドを打たざるを得なくなった、というところで、その瞬間から、生に対する挑戦が 始まるわけです。


    生に対する挑戦というところに ホスピスケアがある と思っています。 今度は その人が現世にいる

    残された時間を どういうふうに 生き抜くかということに対して、医療がサポートしなければいけない。

    それも医療なんだと、私は考えています。

    その医療を 私は「第三の医療」と呼んでいます。

    「第一の医療」が 卵子や精子や 一個の細胞医療だとすれば、
    
    「第二の医療」は それ以降、受胎から終末期を迎える間。

    それから いわゆる終末期に入った時から、ホスピスケアが始まる。

    これは 痛みをとったりすることはしますけれども、不必要な延命医療、医学的な挑戦はしないわけです。

    これを「第三の医療」と私はいっているんです。。。



坪井栄孝さん

    

    


 

三木 清       嫉妬についてより

2010-12-26 | 思索

もし 私に 人間の性の 善であることを  疑わせるものがあるとしたら、


それは 人間の心における 嫉妬の存在である。




嫉妬こそ ベーコンがいったように 悪魔に最も ふさわしい 属性である。



なぜなら 嫉妬は 狡猾に、 闇の中で、  善いものを 害することに向って働くのが 一般であるから。





どのような 情念でも、 天真爛漫に 現れる場合、  つねに 或る美しさ をもっている。


しかるに 嫉妬には 天真爛漫ということがない。



愛と 嫉妬とは、 種々の点で 似たところがあるが、 まずこの一点で 全く違っている。 



即ち 愛は 純粋であり得るに反して、 嫉妬は つねに 陰険である。

それは 子供の嫉妬においてすら そうである。




愛と 嫉妬とは あらゆる情念のうち 最も 術策的である。


それらは 他の情念に比して  遥かに 持続的な性質のものであり、 従って そこに 理知の術策が入ってくることができる。


また逆に 理知の術策によって  それらの情念は 持続性を 増すのである。



如何なる情念も 愛と 嫉妬と ほど 人間を苦しめない。


なぜなら 他の情念は それほど持続性がないから。


この苦しみの中から あらゆる術策が生まれてくる。



しかも 愛は 嫉妬の混入によって 術策的になることが 如何に多いか。



だから 術策的な 愛によってしか 楽しまない者は、  相手に 嫉妬を 起こさせるような 手段を用いる。




嫉妬は  平生は 「考え」ない  人間にも 「考え」させる。



愛と 嫉妬との 強さは、  それらが 烈しく 想像力を働かせることに 基いている。



想像力は 魔術的なものである。  ひとは 自分の想像力で 作り出したものに対して 嫉妬する。



愛と 嫉妬とが 術策的であるということも、 それらが 想像力を 駆り立て、 想像力に 駆り立てられて動くところから 生ずる。



しかも 嫉妬において 想像力が働くのは その中に 混入している 何等かの 愛に依ってである。



嫉妬の底に 愛がなく、  愛のうちに 悪魔がいないと、 誰が 知ろうか。