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ナビゲーターは魂だ

永井荷風 すみだ川  7/10

2015-08-24 | 


 翌日(あくるひ)の 午後(ひるすぎ)に またもや宮戸座(みやとざ)の立見(たちみ)に出掛けた。

長吉は 恋の二人が 手を取って嘆く美しい舞台から、昨日(きのう)始めて経験した
いうべからざる 悲哀の美感に 酔いたいと思ったのである。

そればかりでなく 黒ずんだ天井と 壁(かべ) 襖(ふすま)に囲まれた 二階の室(へや)が いやに陰気臭くて、
燈火(とうか)の多い、人の大勢集っている 芝居の賑(にぎわい)が、
我慢の出来ぬほど 恋しく思われてならなかったのである。

長吉は 失ったお糸の事以外に 折々(おりおり)は 唯(た)だ何という訳(わけ)もなく 淋(さび)しい 悲しい気がする。
自分にも どういう訳だか 少しも分らない。 唯だ 淋しい、唯だ 悲しいのである。

この寂寞(せきばく) この悲哀を 慰めるために、長吉は 定めがたい何物かを 一刻一刻に 激しく要求して止やまない。
胸の底に潜(ひそ)んだ 漠然たる 苦痛を、誰と限らず 優しい声で 答えてくれる 美しい女に訴えて見たくてならない。

単に お糸一人の姿のみならず、往来で摺(す)れちがった 見知らぬ女の姿が、島田の娘になったり、
銀杏返(いちょうがえ)しの 芸者(げいしゃ)になったり、
または 丸髷(まるまげ)の女房姿になったりして 夢の中に 浮ぶ事さえあった。

 長吉は 二度見る 同じ芝居の舞台をば 初めてのように興味深く眺めた。
それと同時に、今度は 賑(にぎ)やかな左右の桟敷(さじき)に対する観察をも 決して閑却(しな)かった。

世の中には あんなに大勢女がいる。
あんなに大勢女のいる中で、どうして自分は 一人も 自分を慰めてくれる相手に
邂逅(めぐりあわ)ないのであろう。 誰れでもいい。
自分に一言(ひとこと)やさしい語(ことば)をかけてくれる女さえあれば、
自分は こんなに切なく お糸の事ばかり 思いつめてはいまい。
お糸の事を思えば思うだけ その苦痛をへらす 他のものが欲しい。
さすれば 学校と それに関連した身の前途に対する絶望のみに沈められていまい……。

 立見の混雑の中に その時 突然自分の肩を突くものがあるので驚いて振向くと、
長吉は 鳥打帽(とりうちぼう)を眉深(まぶか)に 黒い眼鏡をかけて、
後(うし)ろの一段高い床(ゆか)から 首を伸(の)ばして見(下みおろ)す 若い男の顔を見た。

「吉(きち)さんじゃないか。」
 そういったものの、長吉は 吉さんの風采(ふうさい)の余りに変っているのに
暫(しばらく)は二の句がつげなかった。

吉さんというのは 地方町(じかたまち)の 小学校時代の友達で、理髪師(とこや)をしている
山谷通(さんやどお)りの親爺(おやじ)の店で、 これまで長吉の髪をかってくれた若衆わかいしゅである。
それが絹ハンケチを首に巻いて 二重廻(にじゅうまわ)しの下から 大島紬(おおしまつむぎ)の羽織を見せ、
いやに香水を匂(にお)わせながら、
「長ちょうさん、僕は役者だよ。」と顔をさし出して 長吉の耳元に囁(ささや)いた。

 立見の混雑の中でもあるし、長吉は 驚いたまま 黙っているより仕様がなかったが、
舞台は やがて昨日(きのう)の通りに河端(かわばた)の 暗(闘だんまり)になって、
劇の主人公が 盗んだ金を懐中(ふところ)に 花道へ駈出(かけいで)ながら 石礫(いしつぶて)を打つ、
それを合図に チョンと拍子木が響く。 幕が動く。
立見の人中(ひとなか)から 例の「変るよーウ」と叫ぶ声。
人崩(ひとなだ)れが 狭い出口の方へと押合う間(うち)に 幕がすっかり引かれて、
シャギリの太鼓が 何処(どこ)か分らぬ舞台の奥から鳴り出す。

吉さんは 長吉の袖(そで)を引止めて、
「長さん、帰るのか。いいじゃないか。もう一幕見ておいでな。」

 役者の仕着(しきせ)を着た賤(いや)しい顔の男が、渋紙(しぶかみ)を張った小笊(こざる)をもって、
次の幕の料金を集めに来たので、長吉は 時間を心配しながらも そのまま居残った。

「長さん、綺麗きれいだよ、掛けられるぜ。」吉さんは 人のすいた 後(うしろ)の明り取りの窓へ腰をかけて
長吉が並んで腰かけるのを待つようにして
再び「僕ァ役者だよ。変ったろう。」といいながら
友禅縮緬(ゆうぜんちりめ)んの襦袢(じゅば)んの袖を引き出して、
わざとらしく脱(はず)した 黒い金縁眼鏡(きんぶちめがね)の曇りを拭きはじめた。

「変ったよ。僕ァ始め誰かと思った。」
「驚いたかい。ははははは。 」吉さんは 何ともいえぬほど嬉しそうに笑って、
「頼むぜ。長さん。こう見えたって憚(はばか)りながら 役者だ。
伊井(いい)一座の 新俳優だ。 明後日(あさって)から また新富町(しんとみちょう)よ。
出揃(でそろ)ったら 見に来給え。いいかい。 楽屋口(がくやぐち)へ廻って、
玉水(たまみず)を呼んでくれっていいたまえ。」

「玉水……?」
「うむ、玉水三郎……。」いいながら 急(せ)わしなく懐中(ふところ)から
女持(おんなも)ちの紙入(かみいれ)を探さぐり出して、小さな名刺を見せ、
「ね、玉水三郎。昔の吉さんじゃないぜ。ちゃんともう 番附(ばんづ)けに出ているんだぜ。」

「面白いだろうね。役者になったら。」
「面白かったり、辛(つら)かったり……しかし 女にゃア不自由しねえよ。」

吉さんはちょっと長吉の顔を見て、「長さん、君は遊ぶのかい。」

 長吉は「まだ」と 答えるのが その瞬間 男の恥であるような気がして黙った。

「江戸一の梶田楼(かじたろう)ッていう家(うち)を知ってるかい。 今夜一緒にお出でな。
心配しないでもいいんだよ。のろけるんじゃないが、心配しないでもいいわけがあるんだから。
お安くないだろう。ははははは。」と 吉さんは 他愛もなく笑った。

長吉は 突然に、
「芸者は高いんだろうね。」

「長さん、君は芸者が好きなのか、贅沢(ぜいたく)だ。」と
俳優の吉さんは 意外らしく 長吉の顔を見返したが、
「知れたもんさ。しかし 金で女を買うなんざア、ちッと お人(ひと)が好過(よす)ざらア。
僕ァ 公園で 二、三軒待合(まちあい)を知ってるよ。連れてッてやろう。
万事(ばんじ)方寸(ほうすん)の中(うち)にありさ。」

 先刻(さっき)から 三人 四人と 絶えず上って来る見物人で
大向(おおむこ)うは かなり雑沓(ざっとう)して来た。
前の幕から居残っている連中(れんじゅう)には 待ちくたびれて 手を鳴(な)らすものもある。

舞台の奥から 拍子木の音が長い間(ま)を置きながら、それでも次第に近く聞えて来る。
長吉 は窮屈に腰をかけた明り取りの窓から立上る。

すると吉さんは、
「まだ、なかなかだ。」と 独言(ひとりごと)のようにいって、
「長さん。あれァ廻りの拍子木といって
道具立(どうぐだ)ての出来上ッたって事を、役者の部屋の方へ知らせる合図なんだ。
開(あ)くまでにゃア まだ、なかなかよ。」

 悠然として 巻煙草(まきたば)こを吸い初める。
長吉は「そうか」と 感服したらしく返事をしながら、しかし 立上ったままに
立見の鉄格子から 舞台の方を眺めた。

花道から平土間(ひらどま)の桝(ます)の間(あいだ)をば
吉さんの如く 廻りの拍子木の何たるかを知らない見物人が、すぐにも 幕があくのかと思って、
出歩いていた外(そと)から 各自の席に戻ろうと右方左方へと混雑している。

横手の桟敷裏(さじきうら)から 斜(ななめ)に引幕(ひきまく)の一方にさし込む夕陽(ゆうひ)の光が、
その進み入る道筋だけ、空中に漂(ただよ)う塵と 煙草の煙をば ありありと眼に見せる。

長吉は この夕陽の光をば 何という事なく 悲しく感じながら、折々(おりおり)吹込む
外の風が 大きな波を打うたせる引幕の上を眺めた。
引幕には 市川(いちかわ)○○丈(じょう)へ、浅草公園芸妓連中(げいぎれんじゅう)として
幾人(いくたり)となく 書連(かきつら)ねた 芸者の名が読まれた。

暫(しばらく)して、
「吉さん、君、あの中で知ってる芸者があるかい。」

「たのむよ。公園は乃公(おいら)たちの縄張中(なわばりうち)だぜ。」
吉さんは 一種の屈辱を感じたのであろう、嘘(うそ)か誠か、
幕の上にかいてある 芸者の一人々々の経歴、容貌、性質を 限りもなく説明しはじめた。

 拍子木が チョンチョンと二ツ鳴った。幕開(まくあ)きの唄(うた)と 三味線が聞え
引かれた幕が 次第に細(こま)かく早める拍子木の律(りつ)につれて 片寄せられて行く。
大向(おおむこ)うから 早くも 役者の名をよぶ掛け声。
見物人の話声が 一時(いち)じに止やんで、場内は 夜の明けたような 一種の明るさと 一種の活気を添えた。




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