母は十歳で養女となった。昭和十年のことだ。この年ころから昭和二十年終戦までそして戦後に日本社会は大きく変化する。
私が母から聞いたことまた一緒に生活したことで見たことは印象深く、家にとっても大切だと感じさせるものだった。
「お前はもう学校に行けなくなったので養女になるしかない」と養女先から戻れないように親から説明を受けている。養女先では六十五歳の養母と六十二歳の養父がいた。うまく居つかず三人目だ。九年後終戦の前年に養母が他界。十歳の転校生活も簡単ではなかったろう。終戦の一年後に父と結婚。その一年後より三人の子供ができる。私は戦後五年目の子供だ。同年養父も他界。戦前のお金の価値が無くなり、生活は父がサラリーマンとなった戦後八年目頃に安定する。
養母養父との生活の中母は悟った。養母は結婚の際田と共に入籍、養父のハワイに出稼ぎ中の姉から送られたお金で最大の田を購入、弟はハワイ帰り直後に家の瓦を購入したが結核にかかり他界。養父は大正二年その瓦を使って新築した。養女は家の存続を願ってのことだったと。
父母と一緒に生活した二十年間に、父は「私はここから離れられなかったが、お前の代にはこれだと考えることがあれば決心はして良い」。また母と三人の兄弟を集めて退職の時「退職金を四等分して、その金額を遺産とし分配する。了承して欲しい。金利はその時まで自分が使う」と。また母は先祖の思いを伝えてくれた。
母が四十四歳に私は大学に入り、五十歳に結婚をした。結婚前のことだが、遠くから夜中友人と三人で帰った際、時間にも関わらず世話しまた朝早くにも小言も言わず世話してくれた。そんな人だった。私の子は二人、母の孫は六人だ。母が五十九歳に父は肺癌で他界。私の妻と子はその後母が六十歳で他界するまで同居する。母はさみしさが紛れたろう。脳溢血だった。
母のやさしさや子供への思いは広い。そして言い残したいことは、発症の日に意識不明になったため推し量るのみだが、家のこと祖先のことは伝えてくれた。養父養母は母のその後の人生を「よくやった」と褒めている。と、私は独り善がりに思っている。
写真は河津桜
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