etceterakoの勝手にエトセトラ

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月組「MAHOROBA-遥か彼方YAMATO-/マジシャンの憂鬱」Ⅰ

2007年09月30日 | 宝塚歌劇

 ごめんなさい。とてつもなく長いです。3本もあるの・・・。
 いえ、2本の予定だったの、本当に。だけど最後、はみだしちゃってちょこっと3本目に・・・。3本目は短いです、ほんとほんと。計22000字程度です。一本1万字だから、最後はわずか2000字っ!(言い訳)

 今回、引用文献のリンクは別にしました。

・引用文献リンク・・・ココ
・Ⅰ(この記事)
・Ⅱ→ココ
・Ⅲ→ココ

 ネタばればれです。
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【MAHOROBA-遥か彼方YAMATO-】
●外部がつくる宝塚ショー
 プログラムで謝先生がおっしゃってましたが、昔の宝塚には・・・ていうか、昔、日本のレヴュー界には、民俗ダンスものっていうのが、ひとつ定番としてあったようですね。昔の宝塚雑誌を見ていると、たしかにそーいう作品の写真やら作品座談会やらを見かけます。

 しかし、それも宝塚では流行らなくなって幾星霜。
 「そういうのをやろう!」と考えたのは、宝塚の演出家ではなく、外部の謝先生だったのでしたぁ!ってことですかぃ。はあー。やっぱ外に出ると、宝塚とは何か、とか、宝塚の伝統とか、そういうのを感じるんでしょうねえ。謝先生のプログラムコメント、宝塚への温かいまなざしであふれてるじゃあ、ありませんか。

 それで、まあ面白いだろーなと思って見に行ったんですけど、ホントにめちゃくちゃ面白いショーでした。面白いっていうか・・・刺激的?すごく刺激的なショーなの。や、排他的な単語でアレなんだけど、やっぱり「うわ!外部だ外部だ!これは外部だ!」ってカンジですよ。

 何がどう外部かっていうと、
・スター万歳作品じゃない
・耽美要素がすくない
・場面の余韻をカットするドライさ
 ってあたりが。

 これで謝先生が宝塚歌劇団出身じゃなければ、非常にやりすぎ感あふれる宝塚らしからぬショーになったでしょうけど、そこはそれ、謝先生自身のもっている「宝塚出身」の香り・・・主に「品」ですね。根は「清く正しく美しく!」っていう部分が、土くさーい民俗ショーを、宝塚らしくとどめています。

●ひとつずつ見ていきましょー。
 では、上に挙げた三要素を、ひとつずつ見ていきませう。
 まずはね、スター万歳作品じゃないんだよね。スターを芯に置くけど、作品として配置してるだけで、「そうら、トップスター様おでましー!じゃじゃーん!トップスター様ばんざーい!」って感じが薄い。
 宝塚って、そのへんのスターの使い方が、もうすっごくわざとらしいじゃないですか(笑)ご自慢のスターシステムを、これでもか!と序列順に並べて、おおげさにクロ~ズ・アップするでしょー? 作品をつくるより何より、スターの輝き方に気を配る。一にトップで二にスター、三四はなくて五もスター!みたいな。
 MAHOROBAは、一に企画で二に場面、三四はなくて五でスター!ってカンジなんですね。スターシステムとしてちゃんとしてるけど、それが過剰じゃない。宝塚特有の過剰さがない。そこが物足りない、とする意見もあるんじゃないでしょうか。

 過剰さがない、という点では、場面ごとの余韻の切り方もそうです。
 白井先生の伝統だかどうだか、宝塚には「甘さ」と「ノスタルジー」があります。それが「耽美」につながっているんですね。抱き込まれるような陶酔感ですよ。宝塚歌劇団は何事もアピール「おおげさ」ですけども(笑) それは作品の作り方からしてそうなっていて、主人公が悲しみを背負ったりした日にゃあ、たとえ能天気が身上の「レビューショー」でも、「わたし悲しいぃぃーーーーー!」と、主人公は朗々とソロを歌い上げながら、観客に共感と陶酔に抱き込んでくれます。めくるめく夢の世界というのは、理性を手放して感情人間になれる状態ですよね。(ディズニーランド然り)
 そういう余韻の過剰さっていうのが、ひとつ宝塚の特徴だと思うんですけども、MAHOROBAには、そういう意味の陶酔が薄いんです。観客が理性を手放す前に、サクッと次の場面に移ります。余韻はソコソコでカット。宝塚レビュー比では、すっごくドライだよねえー。宝塚慣れしてると「あれっ。ここらでもっと歌い上げまくって、ピンスポットで悲しみのトップスターが消えていく演出とかあってもいいんじゃあ」とか思うんだけど、それしないのがやっぱり「外部」の感覚だな、と。ものすごく新鮮だよ。ドライな(←宝塚比でね)宝塚って、新鮮っ。

 専科さん&組長の使い方も、今の宝塚ではなかなか無いカンジ。
 ちゃんとそれなりの役割がある。すっごく存在感あるんです。でも、ハッキリ「スター」とは(いい意味で)区別されている。昔の専科って、こういう使い方されてたのかなーと、ちょっと思いました。老け役をできるヒトっていう求められ方じゃなくて、インパクトあって芸の先輩としての舞台人って感じね。一番大事なところはスターにゆだねるけど、決して専科を脇に追いやらないんだよねー。

 スターと専科の使い方、とにかく上手い。謝先生は、とてもバランス感覚のいい方なんですねえ。
 トップが主人公のヤマトタケルで、二番手・三番手がお付き(?)なんですよ。上手い・・・。とっても自然。
 なんか、トップ+二番手三番手で行動するって、すごく安易なカンジがするじゃないですか。それが見ると、恐ろしいほど自然なんです。やっぱり、わたしのイメージのなかでも、二番手三番手というのは、トップとセットで見ているところがあるんでしょうね。こういう使い方、ありそうでないなーと思って。特に通し役では。宝塚の従来の発想だと、クマソとか敵役に二番手三番手を配しちゃうと思うんだよねー。そうじゃなくてヤマトタケル御一行様に二番手三番手を豪華に配してしまうんだよねー。で、クマソとか、トップに対立する役は若手スターを配しています。
 ・・・たしかに、敵役って、「敵」ってだけでインパクトあって重要だから、若手の存在感で充分なんだよね。やりがいあって、スターさんも伸びるだろうし。逆に、学年が高い、人気スターは、やはり「白い二枚目」で見ると、とてつもなく存在感あって魅力があって、輝いてるんですよ。安易なようで、意外とベストな布陣なんだわ、これが。しかも女役付だしね!

●謝先生の圧倒的な才能
 とにかく、随所に謝先生の圧倒的な才能が光っています。
 まあ、もちろん、謝先生の努力あってのものでしょうけど、それでもやっぱり根本的に持っている才能の量は多い方だと思うね。
 映像パネルや、民俗テイストの具合や、「うわっ。こんなふうに表現するんだ!」って、びっくりさせられます。ヤマトタケルということで、和太鼓の音だとか、木村信司先生の「スサノオ」と似たモチーフ使っているんだけど、謝先生のほうが圧倒的にセンスがいい。都会的でおしゃれで、いま風ななかに、チラッと民俗色を織り込むのが、絶妙。それでいて品と女性らしい華やかさがある!
 映像パネルにしても、小池先生が使うと「パネル、使ってます!」ってカンジで、どうも映像が映像映像しすぎるんだけど、謝先生は背景の一部としてキレイに使っていて、うまく舞台に溶け込ませているんです。

 わたしは思うんだけど、MAHOROBA見て「こうすればよかったんだ!」と地団駄踏んだ演出家、多いんじゃないでしょーか。少なくとも木村先生&小池先生は「負けた・・・」と思った部分(あくまで部分ね。全負けとは言ってません)、あるんじゃないかね。

 センスがいいんだよねえー。才能ですよ、才能。
 特にヤマトタケルが死ぬところだっけか・・・椿の花がポトリと落ちる背景、息を呑むほど美しい&斬新だと思った。ふつうの発想だと、あそこ「桜」になりますよ。そうじゃなくて「椿」を持ってくるところが、謝先生の非凡さですよね。

 衣装がたしか有村淳先生ですよね。有村先生も「才能の塊」「センスで勝負」のヒトだから、ほんと才能と才能のコラボレ~ションで、刺激的なショーでした。目の醒めるようなショーです。すばらしい。友人Rが「宝塚ってすごい・・・」とつぶやいてましたが、まさにまさに。ベルばらがあって、さくらー妖しいまでに・・・-があって、A/Lがあって、MAHOROBAみたいのもやるんですよねえ。すごいねえ、宝塚って。このショーは、劇団もご自慢なんじゃないかなー。わたしも自慢したいもん。「宝塚って、こんなにクリエ~ティヴな作品かけてるんだ!」って、非宝塚FANにこそ自慢したい。

 謝先生のMAHOROBAは、幻惑や幻影じゃないんです。そこに自分を投影するスクリーンではありません。むしろアッサリと物理的で、謝先生が表現したい事柄、場面が、ビシリと精確に物理的に描き出されています。「じつはこうなのかも~」とか、スキ間を埋める・・・妄想の余地がない、という点で、面白みがないのかもしれないけれど、妄想で埋める余地がないぐらい、スキ無くきっちり表現された、じつにクオリティの高いショーだと思います。表現するというのは、抽象的な感覚を具現化すること、だとしたら、謝先生は「具現化」に最高の才能を発揮する方で、表現者としては相当高いレベルにいるんじゃないかと、わたしは思いますねえ。

 当たったのが月組だったのもよかったですね。月組の、洞察ベースの表現力は、謝先生の具体的なイメージを、きっちりとらえて表現したなーと思います。月組の表現力は本当にすばらしいと思いました。

 宝塚に興味が無い方にこそ、ぜひ見ていただきたい作品だ!と思うのよ。
 そして家に帰って妹U(←宝塚どころか、舞台芸能一般に興味ゼロ。映画とか映像のが好きらしい)相手に「あのねあのね!このショー見てよおおお!ほんとすごく刺激的なショーで~っ」と熱く語るメーワクな姉の生意気娘K。宝塚FANじゃないヒトにススメたいんですよ、ホントに。

【マジシャンの憂鬱】

●マジシャンは何が憂鬱なのか
 
正塚先生の抱えるキイワードのひとつが、「憂鬱」ですね。なんか憂鬱、なんとなく憂鬱、そこはかとなくメランコリィ。・・・しかし、あのう。とりあえず今回の作品、「マジシャンの憂鬱」にかぎって眺めても・・・いったい、何が憂鬱なんでしょーか。
 主人公は立派な屋敷に住んで、居候を抱えられる身分。クロースアップマジックという一応の生業があり、エジプシアンホールに立ちたいという「夢」もあり・・・とりたてて不自由はない。友人(居候)もいる。自分のポリシーを貫いて生きていくに、何か障害があるワケでもない。たとえば「金持ちすぎて跡目争いで悩んでいる」とか、「自分の生き方を貫くには金が無さすぎる」とか、物理的な人生の障害は、さしあたって何も無いじゃないですか~。傍目に見れば「すっごく幸せそうで、よろしいことです」と言いたくなりませんー!?

 それでも、なんとなく憂鬱、なんだかメランコリィ・・・。全編を覆う、孤独や憂鬱のムード。「なんとなく」というのが、ポイントですね。まあたしかに。木村先生が黒蜥蜴で歌詞に書くまでもなく、「戦争はー終ったー♪日本は豊かに、なぁった~♪」ってことで、かつての社会のように、わたしたちの前に物理的な障害がたちはだかることは少なくなりました。それでも、どうしたってヒトは孤独から逃れられないもの。「安定した仕事があって、生活問題ナッシング」で、モノがあふれて豊かになって・・・それでもみんな「なんとなく孤独」だと思っている。正体なき孤独です。

 実のところ、「マジシャンの憂鬱」の本筋には、孤独はまっっったく関係ないですよね。コメディだし。主人公が孤独だの憂鬱について、他の登場人物と語らう、という箇所も見当たりません。ストーリーは、ひょんなことから巻き込まれた「皇太子の婚約者探し」のミステリーで、透視できないのに、「透視能力者」として有名になってしまった主人公が、うそから出たまことに助けられながら、事件を解決していく話です。
 なのに・・・主題歌は「欺き続ける孤独を 誰も知らない」うんぬん。主人公は話の合間に、こっそりコレを歌うワケ。観客にだけ聞かせるために。主人公が実は孤独だ、という事実は、物語の登場人物のダレ一人として知らず、観客だけが「そうなんだあ」と思っているんですよ。

●主人公は多くを語らない
 話はコメディとして進んでいくのに、合間合間にはさまれる主題歌で、主人公が孤独を訴えてくるんですね。本筋と主題歌が、乖離しとる。
 居候っつって、一緒に暮らしてるヒトが5人もいるんだし、冒頭に6人の仲良しソングがあるから、主人公と5人が、悩みや憂鬱をわかりあいながら青春を過ごす話かと思ったら、そーゆーわけでもないんだよねえ。

 正塚作品には「ああ」とか「うん」とかのセリフが多いとは、よく言われていることです。歌劇誌の座談会でも、そーゆー話、よく出てますね。
 「ああ」とか「うん」とかが多い、ということの意味を、あんまり深く考えたことなかったんだけど、マジシャン見てわたしは思ったんだよ。要するにね、主人公が受け身だから、そういうセリフが多いんだよ。受け身です、受け身。人生に対しても、恋愛に対しても、そして会話においても、徹底的に受け身。

 ・恋愛・・・ヒロインから「ウェールズにきてください」(=好意があるよのサイン)を受けてから告白。
 ・人生・・・なんとなく透視能力者になってしまった。(やる動機は、もともとない)
 ・会話・・・日常会話は饒舌だけど、肝心なこと(本心の部分)は、自発的にしゃべらない。

 受身の男がひとり、なんとなく社会や自分を眺めているんですね。
 ・・・わたしはずーーっと思っていたのだ。正塚作品って、村上春樹みたいーーーーっ!って。だって、春樹の小説に出てくる主人公の男も、受身の人生送りつつ、まったり社会を眺めているんだもん。なんというか・・・社会に対する距離感というか、根底に流れる何かが同じなカンジがする。

 正塚先生の年齢知らないんだけど、なんとなく村上春樹とは同世代なんじゃないかとゆー気がするのよ。根拠ないんだけど・・・。直感的になんとなく。価値観が似てるっていうか、ねえ。(春樹は1949年生まれ。文壇デビューは1979年)

 まあ、春樹については、いろんなヒトがいろんなコト言ってて、そのわりに「これだーっ!」というのがあんまりなくてさ~、うまくまとめた読みやすい表現を見つけるの苦労したんですが・・・。(手持ちの春樹論が出てきそうな書籍を片っ端から読み直して探しちゃったよ。) これがうまくまとまってるかな。

 「ユリイカ臨時増刊 総特集 村上春樹の世界」より、中野収の「なぜ『村上春樹現象』は起きたのか」。

 村上作品のどこがそんなに?、という問に対するすべてのマニアの最初の一言は、「あのムードなのよねえ」である。そのムードとは、まず第一に、登場人物、しばしば「僕」の、すべてに非決定の人生態度(ライフスタイル)のことである。「僕」は明示されていないけれども、全共闘世代に属し、あの学園闘争からかなり早い時期に、物理的に脱落・逃亡し、心理的に挫折しかつ以来その状態が続いていること、は明らかである。挫折・逃亡が負い目となり、またそれにこだわっているわけでは必ずしもない(こだわったものは、むしろいち早く「体制内化」してしまった)。「僕」は、その時に「なってしまった」自己のままである。あの時の自分を引きずっているのでもない。そのたたずまい(ライフスタイル)は、挫折の結果ではなく、彼の人格に由来しているらしく、以後の行動・コミットと挫折・逃亡の繰り返しに、必ずあの型をなぞっている。もちろん「僕」は、あの型の克服を考えないわけではないが、このライフスタイルに表示されている人格的・心情的何かは、全共闘世代の後裔である’70年・’80年代世代の、あるいはその世代に属する村上ファンの心的構造と親和性が高い。いや心情的には一致しているーーーとマニアは思っている。永遠に続く非決定、より正確には非決定の意識的持続(ある種のやるせなさを伴わせながらの)こそ、モラトリアムの基本属性だからである。「ムードがねえ」とは、こういう意味である。

 下線は生意気娘Kによる


 「ムードがねえ」
 これって、正塚先生にも言えることじゃないですか?
 今回の「マジシャンの憂鬱」、ミステリーという物語として見てしまうと「えええええーーーっ。(欠陥だらけじゃん!)」てコトになりますが、それでもやはり「ああ。正塚先生らしいね。ムードがねえっていう部分、あるじゃん。でもって、正塚作品にとって圧倒的に大切なのは、物語より正塚作品的ムードでせう。

 「非決定の意識的持続(ある種のやるせなさを伴わせながらの)こそ、モラトリアムの基本属性」。ナルホドですね。
 
 マジシャンに出てくる曲で、「後悔はしないで生きてきた」「明日のことなど誰にも分からず 行方も知らないけれどそれこそ人生」「守るべきはひたすら自由」っていう合唱あったでしょ。あれこそモラトリアム宣言じゃん。モラトリアムな主人公が、「でもこれでいいのかなあー」と思いつつ、それでもモラトリアムのなかで生きていく・・・楽しいけど、孤独って話ですね。

受身の主人公は、将来ムコになる!!(予想)
 わたし、思うんだけどね。マジシャンでの「ヒーロー&ヒロイン」の恋愛、あれぁ、わたしの感覚ではロマンティック・ラヴじゃないね。わたしにとっての宝塚的ロマンティック・ラヴってのは「瞳のなかに宝石が見える!」ぐらいの寝言をのたまい、いつの間にか惹かれ合って、男役が娘役を抱きしめて「キミでなきゃダメだ!」みたいな、「ありえない恋愛」なんですよ。現実にあったらヤバイだろう、ぐらいの絵空事ね。

 まあ、そこが正塚先生のリアリズムとか、現代性なんでしょうけど、マジシャンに出てくる男女の関係、「皇室の付き人が事件解決を頼みに来て~」っていう舞台設定をのぞけば、すっごくリアルだよねー。モラトリアムなヒーローと、強いけど根は女性らしいヒロインが、なんとなく「つるむ」ようになり、ヒロインが「好意」をハッキリ向けたところで、ヒーローがダメ押ししてお付き合いスタ~ト~♪みたいな。これ、ロマンティック・ラヴっていうか、健全なる男女交際の話だよね。「キミでなきゃダメだ!」みたいなドラマじゃなくて、「気が合ったので、オツキアイが始まりましたぁ」っていうエピソードだもん。リアルだなー。

 ラストにヒロインが「私の生まれた土地を(アナタに見て欲しい)」みたいな会話になり、「じゃー一緒にいきましょー」みたいな話になりますね。あれは、意外とあたらしいよね。A/Lのときに、ヒーローはヒロインを連れて、自分の・・・ヒーローの思い出の地に行くじゃないですか。あっちのほうが、リアルだと思うね(笑) 「俺のルーツを見せてやるゼ」って、わかりやすいマッチョじゃん(笑) 
 ヒロインの故郷に、ヒーローが連れていかれるっていうのは、意外とあたらしいですね。そういうとこも受け身なんだなぁ、正塚ヒーローは。

 で、ね。わたしは思うんだが、シャンドールはウェールズに行って、ヴェロニカの婿になるんじゃないかと(笑) なんとなく流されて、そーゆーことになりそう~。そしてなんとなく幸せになりそう~。

につづく。


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