「NDT創設の秦豊吉は、東京宝塚劇場の支配人だったのに左遷されちまったらしい!」 65へぇ
「小林一三の昭和演劇史」(大原由紀夫/演劇出版社)より
※出版は1987年。絶版です。
ヤフーブックス→ココ
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前回、前々回の一三のトリビア記事、なにやら字体が変で、読みにくかったらすいませんでした。(いろいろいじってみたけど、どうしても戻せなかったのー!←スキルしょぼい)
今日明日は、日劇の話題でお送りします。
NDT(日劇ダンシングチーム)創設の・・・例の、ラインダンスをしごいたと噂の秦豊吉とゆーお方、阪急東宝の社員のひとりかなーぐらいに思ってたら、もっとエライ人だったっぽい。(すいません、秦さん!)
この本は秦さんの話がほとんどですわ。
どうやらもともとは財界のお知りあいらしくてね、三菱につとめてた人を、東京宝塚劇場を建てるにあたって、制作兼支配人の条件で引き抜いたらしい。
で、この人は東宝に移籍する直前に、(移籍する前提で)一三の命を受けて洋行したんだそうです。それが昭和8年(1933)。
それで秦さんはね、西洋を見てまわって、「レビューだけでは飽きられる。これからはストーリーのあるミュージカルだッ」と思って、そう一三に意見したらしい。たぶんこれが、タカラヅカがレビューだけじゃなくて、ミュージカルにも力を入れるようになった所以なのかな?
あのねえ、後日紹介する別の本に書いてあったんだけど、どうやら1933年にはもう、アメリカのレビューは衰退気味だったみたいなんですよ。パリゼットの白井が洋行した1920年代なかばは、まさにレビュー絶頂期だったと思うのね。それが秦氏が洋行したころには、大恐慌を経て、イマイチ盛り上がっていなかったと。レビュー衰退の兆しを、秦氏はしっかり感じ取って、日本に持ち帰ったということなんでせう。
そんで、その秦氏、ほかにも「西洋そのままじゃなくて、日本や地方の特色をいかしたものを作るべきだ!」とか「バラエティの要素を入れるべきだ!」とか「これからはラジオ→TVに時代は移行する!」とか、いろいろコダワリ意見を持ち帰ったみたいですよ。
しかし・・・東宝支配人としては、やがて免職(事実上の左遷)されてしまったとのこと。小林一三との不仲説もあったらしい。(不仲説の真偽のほどは不明)まぁなんか、引き抜きで来た外様ってこともあって、いろいろ難しかったみたいです。
秦氏は日劇の仕事専属になり(もともと日劇、東宝支配人のかけもちだったのが、東宝支配人を免職になって専属にってことね)、バラエティ、ラインダンス、地方色、などのオノレのコダワリを貫く仕事をしたそうな。バラエティ、って読んで、わたしは「ビギン・ザ・ビギンー日本ショウビジネス楽屋口ー」で読んだ、日劇の様子を思い出しました。なるほどね。歌手とか芸人とか出たっていうのは、東京という(マスコミにつながった)土地柄かと思ってましたけど、創設時の方針もあたんですね。
地方色としては「九州レビュウ」とか「大島レビュウ」とか作ったらしいですよ。九州レビュウ・・・どんなんなんでしょ。名古屋レビュウもあったかなぁ。(名古屋じゃダメか・・・。金シャチしかないもんな)
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