「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「永観堂」(えいかんどう)

2006年05月02日 21時34分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
紅葉寺としても知られる永観堂は、シーズンともなればライトアップも行われ、苔に覆われた繁みに和紙と竹で作られた行灯の火がぼんやりと境内の小径を照らし、幽玄の世界へといざなう。
 当寺の正式な寺名は禅林寺といい、浄土宗西山禅林寺派の総本山である。
仁寿3年(853)文人・藤原関雄の山荘を空海(弘法大師)の弟子真紹(しんじょう・
797-873)が真言宗の道場に改めたのが起こりで、貞観4年(863)清和天皇より鎮護国家の道場として勅額を下賜され「禅林寺」と名づけられた。 平安時代中期に入寺した永観律師によって浄土念仏道場となった。

 東山の豊かな自然と一体になった回廊で法然上人像を祀る御影堂などが結ばれており、中でも“みかえり阿弥陀如来像”は、左後方を振り返っている珍しい如来像で重要文化財に指定されている。
 応仁年間(1467~69) 応仁の乱によって、全山被災、烏有に帰したが、文明4年(1472)頃より明応6年(1497)頃にかけて堂宇殿舎を復興。後土御門天皇によって御影堂が再建され、後柏原天皇によって方丈(釈迦堂)、書院、客殿が建立された。
「おく山の岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」(古今集)

 当寺を創建した真紹僧都の徳を慕って、自分の山荘を寄進した藤原関雄が詠んだ歌で、草創以来、幾多の文化人達の筆や歌に親しまれてきた京都有数の古刹である。
 社伝によれば永観堂の歴史は、大きく3つの時代に分けられる。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし・1033-1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代。次は永観律師から源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都(じょうへんそうず・1166-1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院であった。その後は、証空上人の弟子、浄音上人(1201-1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となったとある。

 「みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ」(千載集)
と詠まれた永観律師は特に名高く、自らを「念仏宗永観」と名るほど、念仏道理の基礎の上に立ち、境内に薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努めた。

 本堂(阿弥陀堂) 入母屋造り、本瓦葺。大阪四天王寺からの移築とも伝えられている近世初期の建物で、正面、側面の柱間に蔀が設けられ寝殿造り風であるが、桃山風も随所に見られる。内陣天井の、種々の花々が極彩色で描かれた「百花の図」が徳に目を引く。本尊の見返り阿弥陀像の他、脇壇に十一面観音菩薩像、地蔵菩薩像、永観律師像を安置する。
 釈迦堂には、建物自体より古い長谷川等伯筆と伝えられる「竹虎図」の襖絵、土佐光信の筆と伝える三十六歌仙図などがある。臥竜楼・御影堂を中心として、本堂や開山堂などの建物間を結んで延びる、長い渡り廊下は、当寺の特色をなしている。
 自然を愛でる日本人の感性の豊かさを表し、日本庭園に音の風雅をそえる水琴窟は、御影堂裏の阿弥陀堂と臥龍廊に別れる回廊の山裾、静かに水を注いで水滴が奏でる澄んだ音が楽しめる。

 所在地:京都市左京区永観堂町48。
 交通:JR京都駅から市バス5系統で南禅寺永観堂道下車、徒歩3分。京阪電車三条から市バス5系統で「南禅寺永観堂道」下車、徒歩3分。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「御香宮」(ごこうぐう) | トップ | 「晴明神社」(せいめいじん... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古都逍遥「京都篇」」カテゴリの最新記事