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隣のお父さんの、見たこと、聞いたこと、感じたこと

季節を教えてくれる小鉢のミドリ、自然の風景、私の興味をそそる鬼瓦、コレクションの煙草の包装紙、文化etc‥‥、

京、伏見の傾斜鉄道

2015-11-11 06:05:11 | 京の歴史 よもやま
京、墨染のインクラインは、豊臣秀吉が伏見城の外堀として造った濠川と、琵琶湖疎水が鴨川運河、(明治27年完)につながり、落差15メートルの墨染インクライン(傾斜鉄道)が完成しました。完成当初は一日に100隻ぐらいの船舶を上げたり下げたりしていましたが、その後使用されなくなり昭和34年にはレ-ルも取り除かれました。この水の落差を利用した墨染発電所が設置され、日本で初めて走った市街電車の伏見~京都駅間に電気が送られていました。私、長年にわたって京都住まいでしたが、墨染インクラインの存在は、識りませんでした。現在、京都住まいの方も、あまりご存知がないのでは??

競馬の神社?

2015-10-24 06:07:34 | 京の歴史 よもやま
京都伏見の藤森神社は境内に設けられた馬場を走り抜ける駈け馬の行事でしられ、競馬に関係の深い人びとの信仰が厚いお宮さんです。このお宮さんの社殿の屋根には菊の紋章がつけられています。提灯も菊の紋章です。これは宝暦5年(1755年)に宮中に三種の神器の神鏡が奉安されている建物の修理のときに造営した仮殿が、昭和4年(1767年)に下賜、移築されたものです。したがって当初、神社としての建築ではありませんので外観が大変ちがうようです。

みたらしのやしろ

2015-06-10 06:09:35 | 京の歴史 よもやま
賀茂つずきで、京、下賀茂神社の御手洗社は境内のみたらし川の水が湧き出ている所にあるお社です。このお社の社殿の横には普段から湧水がコンコンと湧き出ています。土用の丑の日には、この社から御手洗川が流れ出し、参詣人がこの川に膝までつかって無病息災を祈ります。食品の(みたらし団子)は、ブクブクと連なる湧き水の、アワの連想からなずけられた……

赤い糸 ? 赤白のふとい紐

2015-06-05 06:10:36 | 京の歴史 よもやま
赤い糸では心もとない。それならばと出てきた太い紐。下賀茂神社境内の相生社は縁結びのご利益があるとして知られています。このお社の隣に連理の賢木(さかき)があります。この樹はもともと2本の樹だったのですが、相生社の御神威で樹の途中から一本の樹にむすばれています。仲のよいカップルが、むすばれるようにと赤白の組ひもを引いては幸運をねがっているようです。

世界遺産の下賀茂神社

2015-05-30 06:15:28 | 京の歴史 よもやま
《千年の森蔭に一系の小道あり》とうたわれた高校時代の校歌そのままに、京、下賀茂神社の糺の森を3年間通いました。50年以上前の時代です。当時は巨木が織り成す緑のトンネルを歩きました。今は道にロープが張られ、さざれ石や、御手洗の池や、縁結びのかみ相生社、等、私としては見知らぬものが、たくさん表面化していて、その様変わりに驚くとともに以前の静寂な雰囲気が懐かしいです。

この神社 何かが違う?

2015-05-23 06:08:32 | 京の歴史 よもやま
京都吉田神社の太元宮は華やかな美しい社殿そのものが見た目が違うのですが、特に棟上に違いを感じます。①千木の削り出しが右と左で異なり.右側は垂直で外削り、左側は水平で内削りです。 ②棟上の鰹木が右は角材、左は丸材と形が違う ③棟上に露盤宝珠がある ④境内には伊勢の内宮と外宮が祀られている。等、判らないことが多いのですが節分には華麗な境内に入ることが出来るようです。

百万遍って 百万回も……

2015-05-13 06:20:52 | 京の歴史 よもやま
浄土宗の四本山の一つ知恩寺では毎月十五日には大念珠繰り法要があり、百万遍大念珠繰りが行はれます。この数珠は桜の木で作られ野球のボール大のもの1080ヶがつながれています.数珠は、普段は本堂の天井に吊り上げられています。、間口15間(約27,3m)奥行⒔間(約23、6m)本堂いっぱいに広げられた大数珠を念仏の声に合わせて信者がまわしていきます。百万遍(回)と言はれることばの響きのよさからか?近くの交差点には百万遍となずけられた地名もありますます。

はにわの 鳥

2015-04-25 06:06:44 | 京の歴史 よもやま
700年代には国の都、長岡京でもあった長岡市に史跡公園としての恵解山古墳があります。この古墳は、刀剣や鋤など700点からの鉄製品が出土したことで有名です。この古墳から鳥形の埴輪がでてきました。古墳時代のの生活の中で、身近に見られた水鳥と思はれますが、食料品だったのか?ペットだったのか?当時の暮らしではどちらだったのかな?

光秀が 秀吉をむかえた本陣跡

2015-04-18 06:13:58 | 京の歴史 よもやま
織田信長は明智光秀の奇襲をうけて、京の本能寺で最後をむかえました。信長の臣、豊臣秀吉と明智光秀が小泉川をはさんで天下分け目の戦いをしたときに、明智光秀が本陣を置いたとされるところです。御坊塚と云われる小高い丘のうえにある共同墓地でした。訪れてその地にたちましたが墓地があるだけのところで、ここに本陣があったことは、まったく想像できませんでした。合戦に敗れた光秀は近江の坂本城に退く途中で京都の山科で落ち武者がりの手にかかって最後をとげたようです。写真は、この丘のすぐ下に立てられていた、本陣跡としるされた長岡京市の掲示板です。