武弘・Takehiroの部屋

われ反省す 故に われ在り

青春の苦しみ(14)

2024年06月09日 02時29分33秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

15)百合子の指

 Fテレビの研修が終って通常の大学生活に戻ると、また早稲田祭の季節になっていた。百合子は歌舞伎研究会の活動に熱心に参加していたが、行雄は蓼科での合宿に行けなかったことなどから歌舞研にはほとんど関心を失い、早稲田祭のサークル活動には加わらなかった。

 そんなある日、徳田と雑談を交わしていると、エール・フランスの採用試験に失敗した百合子が、彼の助力でフランス大使館への就職を決めたことが分かった。徳田の先輩が大使館に勤めているので、その筋から彼女の採用が内定したようである。

「中野さんもホッとしているよ、とにかく良かったね」徳田が我がことのように言うので、行雄も「良かったね」と“おうむ返し”に答えた。「君も中野さんも就職が決まったのだ、もう何の心配もいらない。後は卒業するだけじゃないか」 徳田の快活な語りかけに行雄はうなずいた。

 彼は相変らず“二人”の関係の進展を促しているようだ。以前も「就職が決まったのだから、中野さんと一緒にやっていけるじゃないか」と言ったことがある。 百合子と仲の良い徳田が、彼女の心情を察してそういうことを言うのだろうか。あるいは、自分の決断を促しているのだろうか・・・行雄はそんなことを考えていた。

「実は、僕は来年4月にも小野と結婚しようと思っている。彼女も異存はないと言っているんだ」徳田が自分の慶事を打ち明けた。「えっ、そう。それはおめでとう」行雄は反射的に祝意を表わした。 彼の話しによると、小野恭子の方が結婚を急いでいるという。徳田は、いずれ結ばれるのは分かっているのだから、まだ若い二人が結婚を急ぐ必要もないだろうと考えていたが、彼女の方は早く“見える形”でケジメを付けたいのだという。

 その話しを聞いて、行雄は渡辺悦子とAクラスの会沢邦彦のことを思い出した。「渡辺さんと会沢君は、どうなるのだろうか?」「さあ、それはまだ分からない。でも、あの二人も来年中には一緒になるはずだよ」徳田が確信ありげに答えた。 彼は渡辺と会沢の話しを続けていったが、顔が広いだけに、その他のクラスメートの交際関係にも触れていた。

 徳田が楽しそうに語るのを行雄は黙って聞いていたが、卒業が間近に迫ってくると就職や男女関係など、人それぞれの運命が決まっていくのだと思った。 人もこの世も成るようになる、成るようにしかならない。そう考えていると、彼は又、あのゲーテの言葉を思い出した。自分の場合は「人生は欲して成らず。成りて欲せず」ということだろうか、と。

 

 早稲田祭が終ると秋も一段と深まり、木々の緑も色褪せて赤や黄色の紅葉の季節を迎えた。行雄は卒業論文の作業を急がねばと思いながらも、まだ時間が十分にあるではないかと自分を甘やかした。卒論などは年が明けて集中してやれば良いと考えたのだ。

 むしろ彼はこの時期、百合子との関係を真剣に考えようとしていた。 徳田にいろいろ言われたこともあったが、年が明ければ直ぐにも期末試験と卒業が迫ってくる。卒論のまとめで忙しくなるだろうし、Fテレビの方から予期しない呼び出しなどもあるかもしれない。

 何かと落ち着かない日々がやって来そうなので、今のうちに彼女との交際を真面目に考えなければならない。行雄はそう思うのだが、そう思ったとたん、過去の百合子との諍(いさか)いや数々の失敗の思い出が、脳裏にどっと浮かんできた。

 自分が彼女に近づこうとすると、必ずと言って良いほど上手く行かなかったではないか。自分は感情の起伏が激しく短気で“わがまま”だったかもしれないが、百合子の方も気紛れと言うか、予想もしない対応を示したことが数多くあったではないか。

 つい先日もそうだった。行雄が歌舞伎研究会に関するある件を聞こうとしたら、彼女は鼻であしらうかのように顔をぷいと背けて立ち去った。その時、傍らにいた学生達が失笑したので彼は恥をかいたのだ。 歌舞研の蓼科合宿の件もそうだった。彼が楽しみにしていたら、彼女から事実上、参加を邪魔されたのだ。

 他にも、上手く行かなかったことは枚挙にいとまが無い。それらのことを思い出すと、行雄はどうしても重苦しい気持になってくる。俺と百合子は傷つけ合うように出来ているのか・・・多分そうなのだろう。「呪い殺す」と俺が絶好状を叩き付けた時から、二人の間には深い溝ができてしまって関係修復は不可能になってしまったようだ。

 そう考えていると、俺は今でも百合子が好きで惹かれているはずなのだが、二人の交際が順調に進んで“花が開く”という展望に、行雄は悲観的にならざるを得なかった。 そういう時にも唯一、彼に明るい将来を予感させるのは進路を決めた「テレビ業界」のことである。

 多くの人がそうだったように、彼はその月(11月)の下旬に予定されていた、通信衛星を使った日米間で初のテレビ中継を楽しみにしていた。 ところが23日朝、早起きしてテレビを見たら、飛び込んできたのは驚くべきニュースだった。衛星放送の開始直前に、アメリカのケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのである。

 このため、録画によるケネディ大統領の日本国民へのメッセージは急きょ中止となり、沈痛な面持ちの特派員がケネディ暗殺を伝える中で、歴史的な衛星中継は「追悼特別番組」に切り替えられたのである。 行雄は呆然としてテレビ画面に釘付けになった。先の熱海での研修で、二つの大事故の中継を見た時と同様のショッキングな出来事だった。 しかし、彼は落ち着くにつれて、これがテレビの世界なのだ、これが未来に発展するテレビなのだ、この現実をよく見ておけよと自分に言い聞かせていた。

 

 12月に入ったある日、行雄が文学部の校舎から外へ出ようとした時、渡辺悦子に突然呼び止められた。彼女はAクラスの会沢邦彦との仲が良くなっているせいか、このところ端から見ていても幸せそうで、生き生きとした感じがする。少なくとも彼にはそう見えた。

 渡辺はなぜか、行雄を鉄扉(てっぴ)の方へ寄らせると、翌日の講義の件で幾つか“つまらない”質問をしてきた。彼は、どうしてそんな質問をするのだろうかと不審に思った。 暫くして、彼女は真剣な面持ちになって聞いてきた。「村上さん、あなたは中野さんのことをどう思っているのですか? 今でも好きなのですか?」

 まるで、検事の尋問みたいだ。それを聞きたいために、先程のつまらない質問を前もってしてきたのか。行雄はやや呆れ、何と答えていいものかと思いながら彼女から目を逸らした。 すると、鉄扉と壁のわずかな隙間から百合子の後ろ姿が見えるではないか! 彼は唖然としたが、渡辺にそれと気付かれないように何食わぬ顔をしていた。

 百合子が“盗み聞き”をしている、親友を使って俺の本心を探ろうとしている。そう思ったとたん、行雄は残忍な返事をした。「別に何とも思っていないよ」。 盗み聞きなんて卑怯じゃないか、そんなことをする女に対しては、こちらは高圧的な態度に出るしかないのだ。彼は“出任せ”の返事をして渡辺悦子から離れた。

 百合子の“盗聴”を知ってから、行雄は彼女に対し優位な立場になったと感じた。彼女を哀れにさえ思う。 きっと耳をそばだてて、こちらの本心を探ろうとしていたのだろう。ところが、俺は「別に何とも思っていないよ」と答えた。あの返事は彼女の耳に入ったに違いない。俺の心が冷たくなっているのを悟ったに違いない。そう考えると、行雄は勝利者の気分になったのである。 しかし、残忍な返事をして自分が優位に立ったと思ったとたん、落胆している百合子を想像すると、彼は彼女に同情する気持になっていた。

  それから数日して、行雄がフランス文学のある講義に出席すると、教室には百合子を含めて6~7人の学生しかいなかった。 師走になって皆も忙しいのだろうと思っていたが、講義が終ると他のクラスメートはさっさと席を立ったのに、百合子はなぜか居残っている。行雄も吊られるようにその場に残った。

 冬にしては暖かい日和で、陽射しが教室にも入っている。二人だけになって彼は、声をかけた方がいいのか、やはり立ち去った方がいいのか迷った。 しかし、自分が立ち去ると、残された百合子が可哀想ではないかという“勝手な”思いが湧いてきて、行雄は気安く彼女の席に近寄った。

 百合子は何十枚もの四百字詰め原稿用紙に目を通している。彼女は声をかけられるのを待っているかのように思えた。「なに、それ」と話しかけると、彼女は「卒論です」と素っ気なく答えた。 行雄が原稿用紙を覗き込むと、百合子らしい大らかで読みやすい文字が目に入った。それはかつて、彼女が彼に送ってきた手紙の文字を想い起こさせた。

 急に親近感が込み上げてきて、行雄はその原稿用紙を取り上げた。「何をするのよ~」百合子が拗(す)ねたような甘ったるい声を出した。 原稿に興味を覚えた彼は、彼女を無視して数枚読んでいった。アンドレ・ジッドの作品についていろいろ書かれている。

「面白そうだな、これちょっと貸してくれる?」行雄は出任せに聞いた。「駄目です。まだ半分ぐらいしか出来ていませんから」また素っ気ない答えが返ってきた。 「ふん、じゃあ返すよ」行雄が原稿用紙を百合子の手元に戻した時、彼女の“指先”が目に入って彼は激しい衝動に駆られた。

 白くしなやかな指先を握ろうとして、彼は辛うじて思いとどまった。それは本当にしなやかで美しい指だった。大柄でふくよかな百合子の姿態からは、想像もできない華奢で“なよなよ”とした指だった。 だが、この指を握れば、自分の運命が決まってしまう。自分の人生が決まってしまう。行雄はそう直感して欲望を押さえ込んだ。

 百合子は彼を無視するかのように、また卒論に目を通している。何かを待っているような風情にも見えたが、それは行雄の思い過ごしだったろうか・・・彼は「それじゃ」と言って離れたが、彼女は無言のまま顔も上げなかった。

 行雄の心には野獣のような情欲があったが、意識は潔癖すぎるほど純粋で神経質であった。もし自分が百合子の指を握れば、それは重大な責任を負うものと理解していた。 想像の中では彼女をいつも“オナペット”にしているくせに、実際の行動では極めて慎重で用心深いのだ。 彼は教室を出て長いスロープの歩道を下りていったが、決定的な行動に踏み切れなかったことで、最後の機会が失われたような気がした。

 

 12月も半ばを過ぎると寒さが一段と厳しくなった感じで、行雄は冬休みの予定を考えてみたが、これといった妙案は浮かばなかった。 その前に何かすることはないかと考えていると、突然、思いがけない発想が浮かんだ。 百合子との関係が冷え切っていたせいもあるが、歌舞伎研究会との関係を精算しようというものだ。

 歌舞研を退会する。そのためには“贖罪”の意味を込めて大金を寄付するというものだ。 歌舞研に入会したのは、まったく不純な動機からだった。百合子との接触時間を増やすため、彼女が所属するクラブにストーカーのように忍び込んだのだ。ただそれだけだ。

 確かに歌舞伎の勉強はしたし、観劇の楽しさも味わった。それなりに、日本の古典文化に触れた意義はあったが、動機が極めて不純であったことは否定できない。 行雄は歌舞研のサークル活動に参加している間、いつも何か“後ろめたい”気持でいた。それは、不純な動機による罪の意識と言ってよいものだ。

 彼は罪の意識を払拭したかった。罪を贖(あがな)うためには何かしなければならない。そのためには、自分が所持する金を寄付しよう。出来るだけ多く寄付しよう。そうすれば、罪から逃れられると考えた。 彼は1万8千円ほど持っていたが、全額を寄付する気持にはなれなかった。少しは自分の手元に残しておきたい。

 それならば、ちょうど1万円というのが妥当ではないか。1万円とは、自分の家庭教師アルバイト料の2ヵ月分という“大金”だ。 彼はそう考えると矢も楯もたまらない気持になり、翌日、歌舞研に退会を届け出て金を寄付しようと決めた。

 そう決意すると、寄付が百合子への面当てか当て擦りのように思われてきた。良いではないか・・・これで彼女が驚けば俺は満足だ。 行雄はふと、以前、新宿に売春婦を買いに行って失敗したことを思い出した。あの行動も、冷たい百合子への面当てではなかったか。あの時1万円を使っていれば、ドブに金を捨てたのと同じではなかったか。

 しかし、今回は違う。自分の罪を許してもらうために使うのだ(“罰金”ということか)。1万円がどう使われようと、たとえ飲み代に消えようとそんなことはどうでも良い。罪を償うのだ。 そして、百合子が驚けばそれで良いではないかと彼は考えた。

 翌日の午後、行雄は学生会館にある歌舞伎研究会の部室を訪れた。幹事と数人のメンバーがいたが、百合子はいなかった。 「歌舞研にはいろいろお世話になりましたが、きょうで退会したいと思います。僕はクラブの活動にほとんど寄与できなくて、申し訳ないと思っています。 罪滅ぼしに、これだけはお納めしたいので、ぜひ受け取って下さい。有意義に使っていただければ幸いです」

 行雄は一方的にそう言うと、1万円の入った茶封筒を幹事に手渡して直ぐに立ち去った。彼らからどうのこうのと言われるのが嫌だったからだ。 彼は少し“ヒロイック”な気分になったが、こういう気分を味わうのは全学連の時以来だったろう。そして、歌舞伎研究会を退会して彼は解放感を覚えていた。 

 次の日、行雄は講義を受けるため教室に入ると、百合子が“びっくり”した表情で彼を凝視するのを痛いほど感じた。彼女は俺の寄付を知ったのだと思うと、「やったぞ!」という優越感に浸った。二学期が終る直前に、百合子が驚くような行動が取れたことに行雄は満足したのである。

 歌舞研を脱会したことで、俺は彼女の呪縛からようやく解放されようとしているのだ。あの寄付金は何か“手切れ金”みたいな感じがするが、百合子の手かせ足かせから逃れ、俺は自由の身を回復しようとしているのだと行雄は思った。


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