武弘・Takehiroの部屋

われ反省す 故に われ在り

青春流転(2)

2024年08月09日 14時09分06秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

2)長瀞

 その日から行雄は、敦子の幻を朝から晩まで追い求める陶酔の日々を送るようになった。 おかしなもので、敦子への愛に焦がれる自分を知ってから、行雄は気楽に森戸の家へ行く気持になれなくなった。 今度彼女に会ったら何を話し何をしようかと、いろいろ思いあぐねるようになってしまった。

 敦子が横浜港から船でアメリカへ出発するのは、三週間ほど後の八月中旬である。 それまでに自分の思いを告白して、一年間別れ別れになっていても、太平洋を越えて二人の愛の虹をかけておかなければならない。 

 そう思うことは簡単だが、ではどういう風に愛を告白しようかとなると、行雄にはとんと良い考えが浮かんでこなかった。 でも、なんとかなるだろう。自分が彼女を愛しているのは本当なのだから、その本心を素直に言えばいいのだと思うしかなかった。

 そんな取り留めのないことを考えていたある日、母の久乃が「学校からお父さん宛にこんな手紙が来ていますよ」と言って、まだ封を切っていない高等学院からの手紙を行雄に渡した。 父親宛の手紙なら、自分で開けて読めばいいのにと思いながら、行雄は封を切って中身を読んだ。

 その内容は以下の通りである。「貴方の御子息は第一学期の成績が芳しくなく、このままでは卒業に必要な六十点平均に到達することは厳しい状況となっています。 どうか御両親におかれましては、御子息の勉学に充分に配慮され、激励して頂くことを切にお願い申し上げます。云々」

 手紙の末尾には、高等学院長・樫山欽四郎名の捺印があった。 行雄は陶酔の気分から、いっぺんに冷水を浴びせかけられたような気持になった。彼の一学期の成績は平均・五十八点だった。 しかし、これならばなんとかすれば六十点に達することはできるだろう。 卒業すればいいんだろう、卒業すれば、と行雄は思う。

 こういうことも敦子に明かして、自分はこんなに学業をおろそかにしている出来の悪い生徒だと言おう。 その方がすっきりした気持になる。出来の良い敦子に対し、出来の悪い自分ではないか。 そう考えていると、行雄は益々やるせないほど彼女が恋しくなってきた。

 出来の悪い自分にとって、敦子はまるで女神のように思われ、はるか彼方の山上にまします“幻”となって映ってくるのだ。 ああ、敦子、敦子、敦子・・・この限りない愛の泉は、彼女の命からほとばしり出てくる。彼女の足元にひれ伏し、その御足に口づけしたい。 彼女のあの白い手を僕の額に押しあて、祈りを捧げることがどうして悪いのだろうか。

 そういう切ない思いにひたる時、行雄の頬に一筋の熱い涙が伝わり落ちるのだった。 敦子に今度会ったら、僕は必ずこの胸の内をさらけ出し、彼女の永遠の愛を勝ち取るのだ。 彼女はきっとこの願い、この夢を叶えてくれるだろう。そうなれば僕の命、このちっぽけな命と心は、全て彼女に捧げることができるのだ。

 行雄は一日中、夢を見ていた。 どうせ夢を見るのなら、この世で誰も見たことのないほど美しい夢を心行くまで見よう。 敦子の御足に接吻したまま死のう。そうすれば、彼女の足元は僕の熱い涙で濡れるだろう。 僕の涙に濡れて彼女はより美しく輝くだろう・・・それがこの世で一番美しい夢なのだ。

 ああ、敦子、敦子、僕の敦子・・・行雄の心は今、この宇宙の始まりと同じように、熱と蒸気と混濁で張り裂けんばかりになっていた。 愛・・・僕はピエタのように、彼女の膝に抱かれて昇天してしまうのだ。 そういう夢を見ていると、行雄はもう他に何もする気になれなかった。 自分から敦子に電話をかけることも、恐ろしくてできなかった。

 

 彼が夢を見ている最中に、電話は彼女の方からかかってきた。 「行雄ちゃん。今度、徹郎や信二と一緒に長瀞へ行ってみませんか。 私まだ長瀞へ行ったことがないので、アメリカへ行く前にぜひ一度行ってみたいの。 そう言ったら母も大賛成してくれたわ。明日でもあさってでもいいから行きましょう。 ね、いいでしょう?」

 敦子からの思わぬ誘いに行雄は喜んだ。「うん、それはいいさ。どうせ休みだもの、早く行く方がいいね」 行雄が快諾したので、敦子は嬉しそうな声を出して続けた。「ありがとう。それじゃ後で、行雄ちゃんの都合の良い日を教えて。 私も来月になると、アメリカ行きの準備で忙しくなるから早く行きたいわ。 じゃ、また後でね。お母さまによろしく、さようなら」

 敦子の電話が切れると、行雄は初めて現実の世界に戻った感じがした。 なにしろこの一週間ほど、自分は夢うつつの状態で、現実に何をしたらいいのか考える気にもなっていなかった。 今の敦子の電話で、何をすれば良いのかが分かった。

 夏休みだ。彼女とどこへでもいいから、一緒に行こう。 長瀞は何度か行ったことがあるが、敦子と一緒なら更に何度も何度も行こう。そして、早く行こうと急かされる気持になった。 しかし、明日ではなにか早過ぎるような感じがした。明日ではもったいない。行雄は、もう少し“夢”を見ていたいと思った。

 それならば、明後日にしよう。 暫くして行雄は敦子に電話をかけ、明後日長瀞へ行くことを約束した。 敦子は前の電話以上に、嬉しそうな弾んだ声を上げていた。

 

 次の日、もう少し夢を見ていたいと思っていたのに、行雄は朝からそわそわして落ち着きをなくしていた。 中学時代に友人と長瀞へ行った時の写真を出してきて見たり、自転車に乗って久しぶりに近くの公園に出かけたりした。 そのうちに、急に友人の向井弘道に会いたくなった。

 向井は、行雄と同じ中学校から共に高等学院に進んだ同期生で、中学時代から行雄とざっくばらんに話し合える仲だった。 ところが最近になって、行雄は彼とあまり話し合うことがなくなった。 それはこの春、向井が高等学院の学生自治会委員長になったのに対し、逆に行雄が学院そのものを馬鹿にするようになったため、なんとなく疎遠な関係になっていたからだ。

 勿論、会えば会ったで挨拶もするし話しもするが、クラスは違うし彼はけっこう自治会の仕事で忙しく、行雄は歴史研究会やフランス文学研究会のクラブ活動にだけ精を出していたから、落ち着いて話し合う機会はなかった。

 久しぶりに向井の家に寄ると、彼はニコニコ笑いながら行雄を迎えてくれた。「やあ村上君、元気かね。 最近あまり会わないから、どうしていたのかと思っていたよ。お父さん、お母さんはお元気? このところ、ちっとも君の家に行っていないからなあ」

「ああ、僕も両親も元気だよ。休みになったから、君も少しは暇になったと思って寄ってみたんだ」 向井に温かく迎えられたので行雄は気分を良くし、久しぶりに彼とざっくばらんに話しを続けていった。

 学院のこと、中学時代の旧友や教師の話しなどをしているうちに、向井は自治会の話題を持ち出してきて、行雄のいる三年K組のクラス委員・大川勇のことに触れてきた。「大川君は君も知っているだろうが、全学連のシンパだよ。完全なマルキストだね。 このあいだも、安保改定反対闘争のことを議題にしようと言い出して、自治会で安保反対決議をしたらどうかなどと演説していた。 勿論、そんな提案などは否決されたが、高校の自治会に政治問題を持ち込んでくるなんて、おかしいと思わないかい?」

 向井の言うことはもっともなので、行雄は「僕もそう思うよ」と相づちを打った。 しかし行雄は日頃、大川に好感を持っていたので、次のようにべらべらと喋りまくってしまった。

「でも大川君は、とても感じの良い親切な人だよ。 彼が全学連に関係していることは誰でも知っているけど、彼はとても人柄がいいので、みんな彼を立派なクラス委員だと思っているよ。 彼は今や、裕次郎や水原弘のような人気者だね。僕なんか近寄りがたいと思っているくらいだ。

 ほら、先月のクラス別野球大会の時なんか、決勝で彼がホームランを打ってくれたからC組に勝てたんだ。 あんなに細くて小さな身体で、ホームランを打つんだから大したものだ。気力があるんだね、彼は。 ほかの連中は格好だけはいいけど全然打てなくて、彼のホームランでK組は優勝できたんだ。 素晴らしいよ、彼は」

 行雄があまり大川のことを褒めるので、向井は面白くないといった顔付きになり黙ってしまった。 二人は暫く黙り込んでいたが、向井が気を取り直したように口を開いた。

「ところでこの前、須原屋に本を買いに行ったら、雨宮さんにばったり会ったよ。 彼女は相変わらず愛想が良くて、元気そうだったね。なにか女らしくなったみたいだったな」 雨宮の話しが出て、行雄は一瞬ぎくりとした。

 雨宮和子。 行雄が中学時代、一学年下の彼女が好きでたまらなくなり、よく彼女の家に押しかけて行き、半年以上付き合った子である。 しかし、行雄が高等学院に入ると、中学三年になった和子は受験勉強で忙しくなり、次第に疎遠になってしまった。

 それに、和子の方で行雄を敬遠したきらいがあった。 行雄が「マノン・レスコー」や「ジャン・クリストフ」の情感あふれるくだりを、彼女と共感を分かち合おうと思って朗読すると、中学三年の和子が当惑した顔付きになり、仕方なさそうに朗読を聞いていたことが思い出されてきた。

 結局、彼女の受験勉強を心配した両親が、行雄の母に二人の交際を暫く止めさせて欲しいと頼んできたため、行雄は兄の国義に厳しく叱られ、和子の家に行くことを諦めた。 その後、和子が浦和第一女子高校に入学してからも、行雄はもう彼女の家に行くことはなかった。

 それでも、中学時代の雨宮和子との楽しかった交際を、行雄は時たま思い出すことがあった。 いま、向井から和子の話しを持ち出され、行雄は彼女のことを改めて思い出していた。 後頭部を刈り上げ日焼けしてボーイッシュな、ふっくらとした顔立の和子。バスケットボールが好きだった和子・・・ 彼女も高校生になって女らしくなったのかと、行雄がその面影を思い浮かべていると、それが森戸敦子の幻影に移り変わっていった。

 行雄は雨宮和子のことには触れず、向井に親しみを込めて語りかけた。「ねえ、ヒロちゃん。僕、好きになった女の子がいるんだ・・・」 それから行雄は、敦子のことを一気に向井に話して聞かせた。彼の共感や激励が欲しかったのだ。

 ところが向井は、行雄の話しを聞いていても一向に共感するような表情を見せなかった。 行雄は自分が一方的に話しているうちに、気まずい雰囲気を感じるようになった。どうも、向井の共感や激励は当てにできそうもないようだ。

 話しがある程度進んだ所で、向井は行雄をさえぎるような形で「君の好きなようにしたら。彼女への好意がそのまま続けばいいじゃないか」と言った。 その口調には相手を皮肉る感じが込められていたので、行雄はそれ以上話しを続けることができなくなった。

 向井は行雄のことを、熱しやすく冷めやすい男と見ていたのだ。それも分からないわけではない。 一年ほど前、二人の共通の友人である斎藤正裕の妹に、行雄が熱を上げたことを向井は覚えている。 ところが、数カ月もしないうちに行雄の情熱は冷めてしまったのだ。

 その時は、向井が行雄に「君は冷めやすいんだね」と言ったことがある。 一年も経っていないことだから、行雄もその時のことをよく覚えている。そして今、それを思い出した。 行雄は急に自分の痛い所を突かれた感じになり、不機嫌になってしまった。

 彼は暫くして向井に言った。「僕、もう帰るよ。どうも、君には分かってもらえそうもないから」 行雄はぶっきらぼうにそう言うと、向井の家を出てしまった。 今度こそ友人に自分の気持が分かってもらえるものと期待していたのに、それが裏切られる形となった。

 不愉快な気分で家路についたが、我が家に近づくにつれて、行雄は明日の長瀞行きのことで嬉しさが込み上げてきた。 明日は敦子と一緒に行けるということが、不愉快な気分をぬぐい去っていった。 向井に長瀞行きの件を言わなかったことが、秘めた幸福感となって沸き上がってくるのだ。

 帰宅すると、もう夜の七時を過ぎていた。久乃が待ちわびていたように行雄に告げた。「さっき、敦子さんから電話があったのよ。帰ってきたら、こちらから電話をさせますと言っておいたわ」 「うん、ちょっと向井君の所へ行っていたんだ」 行雄はそう言うと、すぐに敦子に電話をかけた。

「明日九時に、浦和駅の西口で会いませんか。こちらは徹郎が都合が悪くなって、信二と私の二人だけです。 それでいいですか?」「ああ、いいよ。僕、カメラを持っていくよ。 それじゃ、明日九時に浦和駅で」 二人とも弾んだ声のうちに電話を切った。

 行雄は自分の部屋に戻ると、最近撮ったことのないカメラを取り出してみた。 だいぶ前に入れたフィルムが、まだ十数枚は残っていた。 これで敦子の素敵な写真を何枚も撮ってあげようと思った。 その夜、ベッドにもぐり込んだが、明日の長瀞行きの期待で行雄はなかなか寝つくことができなかった。

 

 翌朝、行雄がバスで浦和駅西口に着くと、信二が目ざとく行雄を見つけて走り寄ってきた。「お兄ちゃん、おはよう。僕も連れてってね」と声をかけてきた。 敦子はと見ると、上下とも水色の半袖ブラウスにスカートをはいており、それがいかにも爽やかな印象を行雄に与えた。

「おはよう、今日はとても暑くなりそうだね。 僕、登山帽をかぶってきちゃったけど、麦わら帽子の方がいいくらいだね」 「でも、行雄ちゃんの登山帽は似合うわ。さあ、行きましょう」敦子が快活に答えた。

 行雄が、母からもらってきた金でさっさと切符を買うと、敦子が「私が誘ったのに・・・それじゃ、帰りは私が持ちます」と言って、三人はプラットホームに入った。 京浜東北線で大宮駅に着くと、今度は高崎線に乗り換えた。 電車の中はそれほど混んでいなかったが、けっこう蒸し暑く扇風機がせわしげに回っていた。

 三人は熊谷駅で降りると、その後は秩父鉄道に乗り換え、昼前に長瀞駅に着いた。 真夏の日差しが、刺すように強く行雄達の顔に当たる。 敦子はまぶしそうに目を細め、時々手を額にかざして日差しをさえぎっていた。信二だけが元気良く先を歩いていく。

 長瀞の有名な岩畳が見えてきた。 初めて見る光景に、小学生の信二は大はしゃぎで「先に行ってるよ」と言って、岩畳の上をピョンピョンと跳ねるように走っていった。「信ちゃんはすばしこいね」と行雄が言うと、「ええ、あの子は運動神経だけはいいのよ」と、敦子が笑って答えた。

 日差しが強烈なので、行雄は目の前がくらむような感じがした。 荒川をはさんだ対岸の樹木の緑が、行雄の目に鮮やかに、きつく迫ってくるような気がした。 その時、行雄は右手首の上に柔らかく暖かい感触を受け、はっとして思わず敦子の方を振り向いた。

 彼女の左手が、行雄の右手首に伸びていたのだ。 敦子はニッコリと微笑んだが、行雄が余りにびっくりした表情を見せたので、左手をそっと下ろしてしまった。 なんて暖かい手なんだろう! 行雄は呆然とした気持になった。 彼女の手の暖かみが自分の皮膚を通して、骨に染み入るような感じがした。

 敦子にこうやって触れられるなんて、生まれて初めてだ。 彼女は僕に好意を持っている。行雄は一瞬にしてそう信じた。 嬉しいというより、なにか愕然とするような感じに襲われた。 自分が崇拝してやまない彼女に、こうも親しく触れられたことが、異様なものに思えてならない。

 行雄は心の動揺を見られたくなかったので、敦子から離れた。そして、信二の後を追うように、足早に岩畳の上を進んでいった。 心臓のドキドキという鼓動が耳の奥にまで達してきて、息苦しいような気持になった。 こちらから、敦子にそれとなく好意を示そうと思っていたのに、いきなり彼女の方から予想もしない親愛の情を示され、行雄は気が動転したのだ。

 それと同時に、昨夜あまり良く眠れなかった疲れが、真夏の強い日差しの下で行雄の五体を襲ってきた。 こんなことではいけないと思いながら、行雄は敦子の方を振り返った。彼女はけげんそうな表情を浮かべて付いてくる。 彼女に申し訳ないという気持が湧いてきて、それが行雄の心の中に内向していった。

 こういう時は「びっくりしてごめんね」と一言いえば済むことなのに、心の動揺と疲労感でそれが素直に言えなかった。 俺は意気地がないんだと思うと、行雄は急に自分が情けない奴に見えて嫌になってきた。 彼はこういう場合、すぐに自虐的な気持に陥ってしまう癖(へき)があるのだ。

 もうどうでもいいような気持になって、行雄は敦子にまた背を向けて、信二の後を追っていった。 岩畳の上には十数人の行楽客が見物に訪れていた。 他の人達がいる所で、親愛の情を示したことがいけなかったのかしら、と敦子は思った。 それにしても、あの人は訳の分からない人だ。どうしてあんなに不機嫌な顔をするのだろう。 敦子は不満を押し殺しながら、行雄の後を付いていった。

 荒川の流れが瀞となって淀んでいる。どこからともなく蝉の鳴く音が聞こえてくる。 眺めの良い所に来て三人はたたずんだ。 「お兄ちゃん、写真を撮ってよ」と信二が声をかけてきた。行雄はようやく我に復ったような気持になり、瀞と対岸の樹林をバックにして敦子姉弟をカメラにおさめた。 その後、三人は代わる代わるに写真を撮った。

 長瀞の景観を暫く楽しんだ後、行雄達はもと来た道を戻り、駅近くの食堂で昼食を取った。 食事中、行雄はほとんど無言だった。「せっかく来たんですから、宝登山(ほどさん)の方にも行きましょうよ」と敦子が言った。「うん、行こう行こう」と信二が相づちを打つので、行雄は渋々二人の後に付いて宝登山へ行くことにした。

 なだらかな昇り坂を上がっていくと、汗が噴き出してきた。蝉の声がやけにうるさく聞こえる。 強い日差しに照り映えた森を見ると、行雄は圧迫されるような感じを受けた。暑さと疲労感で彼は歩く意欲をなくしていた。

 ふて腐れた表情で歩いていると、敦子が近寄ってきて行雄の肩にそっと手を添え、「ねえ、疲れたんでしょう」と声をかけた。 「いや違うよ」と行雄は答えたが、その表情には、もう歩き回るのは嫌だ、早く帰ろうという思いがにじみ出ていた。

 またも今度は、敦子の方が面白くなくなってしまった。 浦和駅を出る時はあんなに元気が良さそうだったのに、長瀞の岩畳に着いてから、行雄は急に不機嫌になってしまった。 疲れているのかもしれないが、この人はどうしてもっと楽しそうに快活にしてくれないのか・・・敦子は不満であった。

 彼女の気持をまったく察していないように、行雄はまるで「うつ病患者」のように黙り込んだまま歩いていた。 宝登山神社の境内を散策している途中で、行雄は「もう帰ろうよ」と敦子に言った。 彼女は返事をしなかったが、信二が「もう帰るの?」とびっくりしたような声を上げた。

「うん、もう帰ろう。暑くてやりきれないよ」と行雄は吐き捨てるように言うと、さっさと長瀞駅に向かって歩き始めた。 敦子と信二は、仕方なくその後を付いていくしかなかった。 帰りの電車の中でも、行雄と敦子は一言も言葉を交わさなかった。 信二だけがたわいのないことをしゃべっていたが、そのうち彼も疲れたのか眠りこけてしまった。

 電車を乗り継いで浦和駅に着いた時は、まだ日の残る夕方であった。 「それじゃまた、さよなら」 行雄が敦子にそう言うと、彼女はなにも返事をせずうつむいてしまった。行雄は逃げるようにしてバス停に向かった。 後に残された敦子は悔しかった。

 アメリカへ行く前に、彼と楽しい一時を過ごそうと思って出かけたのに・・・結果は行雄の勝手気ままな振舞いに、不愉快な気持だけが残ってしまったのだ。 彼と私はうまくいかないのかしらと思う。 敦子は信二とタクシーに乗ると、寂しい思いを抱いて家路についた。

 

 行雄は帰宅すると自分の部屋に閉じこもり、今日一日のことを振り返ってみた。 敦子に触れられた右手首には、まだ“ぬくもり”を感じるような気がした。あの時の感触が残っている気がしてならない。 それと同時に、心の奥底から悔やみが込み上げてきて、敦子に申し訳ないという気持で胸が締めつけられるのだった。

 自分はどうしてこんなに愚かなのだろう。 どんなに疲れていても、またどんなに気が動転しても、彼女と楽しく過ごすことはできたはずだ。自分の勝手気ままな振舞いから、彼女との貴重な一時を台無しにしてしまった。 なんて馬鹿なんだ。敦子になんて謝ったらいいのか。

 行雄は自分の愚かさを責めさいなんだ。もう彼女との関係は駄目になるかもしれない。 そう考えていると、敦子にまったく値いしない自分が、彼女からのせっかくの親愛の情を、どうしてぶち壊してしまったのか悔やまれてならなかった。

 行雄は悲しくて耐えられない気持になった。拳で自分の頭を殴ってみたがそれでも治まらず、今度は頬を力一杯殴りつけた。 顔面に相当の痛みを感じて、目を閉じると不思議なことに気持が安らいできた。 甘く切ない悲しみが込み上げてきて、涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。

 自分は駄目な男だ。そうだ、そのとおりだ。 しかし、いくら自分が馬鹿で駄目な男でも、敦子のことをこれほど思い慕っている人間は、この世に二人とはいないはずだ。 それは間違いない。それなら、それでいいじゃないか。

 行雄は、野原に咲く名もない雑草の花に自分をなぞらえてみた。 そこに輝くばかりに美しい敦子が現われ、自分を踏んで通り過ぎていった。ああ、しかしそれでも、雑草の花である自分は幸せなんだ。 彼女に踏みつけられ、死んでいくだけでも幸せなんだ。

 そう思うとまた、やるせなく甘い気持に襲われて涙が流れてきた。 ああ、僕ほど敦子を愛している男はこの世にいない。 たとえ彼女に忌み嫌われることがあろうとも、彼女にめぐり合える機会を僕に与えてくれた神様に感謝しよう。

 敦子は、僕なんか到底足元にも及ばないほど、素晴らしい女性ではないか。彼女と付き合えるだけでも幸せなのだ。 明日、彼女に電話して、今日の僕の失礼な態度を謝ろう。 彼女は許してくれなくてもいい。僕はただ謝るだけだ。 そう考えていると、行雄はようやく平静な気持を取り戻し、眠りにつくことができた。


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2 コメント

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この先どうなるのでしょう? (madonnna)
2012-03-29 20:29:01
さすが自伝小説というだけあって、心理描写g細かくてこの年齢の少年の心の動きがよく書かれています。フィクションと言うことですが。彼女が積極的だったことで気持が萎え、不機嫌になってしまう行雄の態度が理解できます。男の中で育ち、二人の男の子の母親ですから。
この先、どうなるのか、少し怖いですね。なにしろ、どうしても行雄と矢嶋さんがオーバーラップしてみえますので(笑)。
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行雄と敦子 (矢嶋武弘)
2012-03-29 20:48:10
マドンナさん、あなたは男の中で育ってきたんですね。思春期の少年は勝手なものです。いや、少女もそうかもしれませんが。半分以上は夢を見ている感じです。
どうなるか大したことではありませんが、どうぞ気楽に読んでいってください(笑)。興味を持たれるだけありがたいことです。
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