武弘・Takehiroの部屋

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昔のフジテレビ(3)

2024年05月21日 01時54分33秒 | フジテレビ関係

10) 前にも話したが、私がお世話になった石川報道局長は「電波の私物化」に反対し、鹿内信隆会長と対立、その挙句に左遷され社外に飛ばされた。 電波とは国家・国民のもの、公けのものである。それを私物化するのは何事だと反対するのは分かるが、皮肉なことに、息子の春雄氏がFテレビの実権を握ると、視聴率は3冠王になるし営業成績も民放トップに躍り出た。
 こうなると“勝てば官軍”である。私は石川さんのFテレビ復帰を秘かに願っていたが、それはますます絶望的になった。 春雄氏の経営方針で、労働組合出身でも優秀な人材は次々に登用されたので、報道局にもそれらの人が復帰してきた。石川さんが陣頭指揮した組合潰しは終わったのである。
 そうなると、組合出身の同期生らが私よりも上の役職に就く。これには面白くなかったが、時勢が変わったのだから仕方がない。自分は報道が好きだから、とにかくここでずっとやっていこうと思うしかなかった。3冠王の金一封がどんどん出るからいいじゃないかと(笑)。

さて、鹿内春雄氏は会長、さらにFSグループの議長に就任し飛ぶ鳥を落とす勢いだった。夏休みに「夢工場」という大イベントを仕掛けると(1987年)、東京と大阪でなんと570万人もの入場者が集まった! 正に“お祭り男”である。以下はその時の映像の一部だが、なにか夢を呼ぶようだ。

アドベンチャー・ドリーム・・・http://www.youtube.com/watch?v=17HWTtgZzMA

絶好調の春雄氏・・・彼の時代が永く続くと誰もが思った。ところが、翌年(1988年)の4月、春雄氏は急性劇症肝炎であっけなくこの世を去る。まだ42歳の若さであった。 これには誰もが驚いたが、一番ショックを受けたのは父の信隆氏だったろう。息子をせっかく後継者にしたのに、先に逝かれるとは思ってもみなかったに違いない。ただし、春雄氏の天下が永く続いていたら、一種の“暴走”が起きていたかもしれない。それほど彼には勢いがあったからだ。
 しかし、不思議に評判の良い人だった。もちろん、何もかも上手くいった(?)という事もあるが、率直で人の意見もよく聞く所が好かれたのだろうか。(2012年1月24日)

 
11) 鹿内春雄氏の急死によって、事態は大きく動いていく。父の信隆氏はすぐにFSグループの議長に復帰、娘婿の佐藤宏明氏と“養子縁組”を結び、今度は宏明氏をFSグループに迎え入れたのである。こうして「電波の私物化」がさらに続く。
ちょうどその頃だったか、私は思い余って鹿内信隆氏に手紙を出したことがある。もちろん『匿名』でワープロで文章を書いた。実名で出したら何をされるか分からないから(笑)。 2回出したと思うが、記憶力が悪いので何を書いたかよく覚えていない。ただ、このままではFSグループの発展は難しいとか、Fテレビの将来が心配だなどと、抗議を含めて警告や諫言をしたように思う。鹿内宏明氏が入ってきたことに不安を表明したわけだ。 40代後半の中間管理職として、自分も一言云いたかったのだと思う。別に怪文書でも何でもない(笑)。
宏明氏は東大法学部を卒業した後、日本興行銀行で働いていたが、春雄氏の死去に伴い急きょ鹿内家を継いだのだ。春雄氏とは同い年だが、タイプは全く違っていた。 東大卒のエリート銀行員だったから、テレビ局の現場や番組作りなどは、ほとんど何も分かっていなかったと思う。
私は“下っ端社員”だから、もちろん宏明氏と話す機会などなかったが、漏れ聞くところによると、どうも単なる経営第一主義という感じがした。それはともかく、鹿内家の御曹司という立場でいろいろ勉強はしていたのだろう。しかし、社内では宏明氏への警戒感というか、不信感みたいなものが広がっていったように思う。
そうこうする内に、鹿内信隆氏が死去した。78歳だった(1990年・平成2年)。 功労のあった石川局長を左遷したり、世襲で電波の私物化を図るなどどうしても好きになれなかったが、信隆氏の死去は何か“巨木”が倒れたような感じがした。それだけ大きな存在だったのだろう。 その頃の日記を読み返すと、「昭和天皇が亡くなったような感じだ」と書いてある。やはり“大物”があの世へ逝ったのだ。
このあと鹿内宏明氏がグループの議長に就任、鹿内家支配を引き継ぐことになった。 しかし、ワンマンだった信隆氏の急逝は、鹿内家の絶対支配に陰(かげ)りを落とすことになる。(続く。2012年1月30日)

 12) 鹿内宏明氏はやる気満々だった。養父の信隆氏が死去したことで、いよいよ自分がFSグループを率いていくのだと決意を固めたのだろう。 しかし、もともとマスコミと縁のなかった彼のやり方は、グループ各社の社長らと波風を立てることになる。
その頃だったか、社内に“身上調書”みたいなものが配られた。「これは何?」と庶務係の女性社員に聞いたら、「議長(宏明氏)がいろいろ調べたいんですって」と答える。 おい、ちょっと待ってくれ。履歴や職歴などは人事部で調べればすぐに分かるではないか。何を今さら調べるのかと不愉快になったが、適当に記入して庶務係に提出した。いい加減に書いたので中身は全く覚えていないが、こんなことまで議長はやるのかと不審に思った。
優秀な元銀行マンは、何でも把握しないと気が済まないのだろうか。やる気満々なのは良いが、組織のルールを無視するようなやり方がグループ内の反感を買ったようだ。こうして宏明氏は、自分に忠誠を尽くす者を側近に登用しようとしたのだろう。 また、グループの最高意思決定機関として「FSコーポレーション」なるものをつくり、各社の社長をその配下に置いて支配力を強めようとした。要するに、自分が何でも取り仕切らないと気が済まないということだ。

 丁度その頃、Fテレビ報道の下請け会社を経営していた次兄が、私と会った時にこう言った。「あいつ(宏明氏)は馬鹿だな~。細かいことはどうして下の社長らに任せないのか。自分で何でもしたがる。だから、下と衝突するんだ。 もっと“お殿様”になって、良きように計らえと言って笑っていればいいんだ。そうすれば安泰じゃないか。馬鹿だよ、あいつは」
次兄はどこで聞いてきたのか知らないが、話に実感がこもっていた。私は上層部の確執なんかに興味はなかったが、何か不穏な情勢になってきたように感じた。 果たせるかな、そうこうする内に宏明議長はFテレビの日枝社長らと対立を深めているといった噂が飛び交うようになった。

 上で何があったかよく知らないが、今思うに、“名将”というのは部下を信頼し任せるのが常道だろう。日露戦争の時の大山巌総司令官も、またこれはあまり知られていないが、日韓基本条約を締結した時の椎名悦三郎外相も、部下を信頼し好きなようにやらせていた。 大山も椎名も、一番肝心な時だけ決断した。あとは悠々として部下に任せていたわけで、そうなると部下も責任の重さを感じ、信頼に応えようと必死に働くのだ。だから名将、名外相と言われるのだが、宏明議長にはこうした資質が全く欠けていたようだ。
人間は決して悪くないと思うが、上に立つ器量がなかったのだろう。自分がマスコミには素人の元銀行マンだから余計に焦ったのだろうか。信隆氏から大きな遺産を受け継いで、やらねばならないと必要以上に気負ったのだろうか。
むしろ何もやろうとせず、大山や椎名のようにゆったりと構えていれば良かったのである。そうすれば部下から慕われただろうに・・・残念である。そして、宏明議長と日枝社長らが決定的に対立する1992年を迎えるのだ。(2012年2月3日)


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