武弘・Takehiroの部屋

“裏金議員”は落選しろ! 当選させるな! 

昔のフジテレビ(2)

2024年07月29日 14時37分29秒 | フジテレビ関係

 5) 昨年亡くなった元Fテレビの名プロデューサー・横沢彪(たけし)さんも、組合活動が災いして全く違うセクション(関連会社)に飛ばされた。彼は何年かそこで“冷や飯”を食わされていたわけだ。
組合員への露骨な人事異動が続いたが、それで職場環境が良くなるわけがない。 Fテレビはだんだん落ち込んでいった。鹿内信隆社長の経営方針が徹底され、組合対策があったのかどうか知らないが、制作部門が本社から切り離され幾つものプロダクション・子会社が誕生した。これは「競争原理」を導入したのだが、制作現場を全く無視した経営第一主義の誤りだったと思う。
だって、プロデューサーが子会社の「社長」になれば、ドラマなどの内容よりも収益をいかに上げるかの方が優先されるのだ。 早い話が制作費を出来るだけ抑え、利益を増やそうということになる。そうなれば、ドラマなどの中身はお粗末になるばかりだ。 Fテレビの視聴率はどんどん下がっていった。良かれと思ってやったのに、逆に本社の営業成績は落ち込み、視聴率の低迷で系列局からも苦情が殺到した。
こうした逆境の中で鹿内氏(会長になっていた)は、息子の春雄氏をニッポン放送から副社長で迎え入れることになる。そこから、Fテレビの大転換が始まるのだが、話を石川部長のことに戻そう。
 
鹿内社長の腹心だった石川さんは組合潰しに功績があり、仕事も出来るからどんどん出世していった。Fテレビの報道局も目覚ましく強化され、もう新聞や通信社から馬鹿にされることもなく、テレビ報道自体が日本社会に広く認められるようになった。 だから、私も報道の仕事に生きがいを感じ、自分なりに一生懸命 仕事に励んだと思う。あの頃が一番充実していた。
石川さんは部長から報道局次長、報道局長へと栄進し日の出の勢いだった。その間、私は結婚の仲人を石川さんにやってもらい、公私共に幸せだったと思う。
ところが、その頃になって、石川局長が夜の会合などで変なことを言い出した。 「鹿内さんが会社を私物化しようとしている」というのだ。テレビ電波は公共のものであり、それを世襲などで私物化するのは許されないという意味だろう。
あれほど鹿内氏を支え、また彼から認められてきた石川局長が反旗をひるがえすのか? まさかと思ったが、何やらキナ臭い空気が漂ってきた。(続く。2012年1月7日)

 6) 石川局長が「(鹿内氏が)会社を私物化しようとしている」と言ったのは、鹿内信隆会長が息子の春雄氏を抜擢することへの反発だった。 春雄氏はFテレビに来る前に既にニッポン放送の副社長に就任していた。息子を可愛がるのは父親の常だが、石川さんから見れば、これは完全に身内への“えこひいき”に映ったに違いない。つまり、世襲に反発したのだ。その気持は、私にもよく分かる。
普通の会社なら親族企業などは当たり前だが、石川氏は「電波は公共のもの」という信条がある。ラジオもテレビも公共のものなのだ。これを世襲で私物化するのは許されないという強い思いがあったのだろう。それは当然かもしれない。 しかし、しょせん株式会社なんていうものは、株を沢山持っている者が優位に立つのだ。信隆氏がニッポン放送の株をどのくらい持っていたか忘れたが、彼が可愛い息子を抜擢する気持も分かる。
しかし、石川さんは反発した。彼は早稲田大学の雄弁会出身だったから、政界に広い人脈を持っていた。後に首相になる竹下、海部、小渕、森らは雄弁会出身である。 彼ら与党(自民党)議員だけでなく、民社党や社会党など野党にも知人が多くいた。石川さんはこれらの政界人脈を使って、電波を私物化する鹿内氏に対抗しようとしたらしい。
私もその動きを察知したが、石川さんと親しい何人かの先輩は、鹿内氏と妥協するように勧めたようだ。そうでなければ、石川さんが左遷される可能性が大きいからだ。しかし、彼はプライドが高いというか、自分の信条に忠実なので妥協を拒んだ。
その頃、鹿内氏にゴマをする役員らは多かったが、石川氏はそれを嫌って、「あんなゴマすりは俺には出来ない」とよく言っていた。 また、息子の春雄氏については「春雄君は子供の頃から知っているよ。その彼に・・・」と言った。 “その彼に”とは、はるかに年下の春雄氏に仕えるのは、プライドが許さないという意味だろうか。
息子を引き立てようという鹿内会長と、それを許さない石川局長との破局の時が刻々と近づいていた。(続く。2012年1月10日)

 7) 当時のFテレビ社長は浅野賢澄(よしずみ)氏で、郵政省からの“天下り”だった。郵政省の事務次官まで務めた人だが、田中角栄元首相に可愛がられ、UHFテレビ局の全国新設に大いに力を振るった。 このUHF局の設置に際し、鹿内信隆会長と意気投合したのだろう。Fテレビに招かれ社長に就任したのだが、石川局長とはどうもソリが合わなかったようだ。浅野社長は石川局長に対し「あまり政治的活動はするな」とよく注意したという。
こうした状況の中で1977年7月、鹿内会長はついに石川さんをFテレビ報道局長から放逐することを決断する。 役員会での鹿内氏の態度は非常に重々しかったという。彼は決然として石川さんの“処分”を発表したのだ。これによって、石川氏は産経新聞の某関連セクションへ異動することになった。
この報に接した時、私は初めはもちろん驚いたが、同時に「成るべくしてなったか」とも思った。石川さんは鹿内会長の“電波私物化”に反対していたし、浅野社長とも仲が良くなかったからだ。 Fテレビからの追放! それは石川さんにとって屈辱だったに違いない。日経連からニッポン放送、そしてFテレビへと、絶えず鹿内氏の腹心の部下として尽力してきた彼にとっては、最悪の日を迎えたのだ。
これに対して、喜んだのは労働組合の人たちだろう。鹿内氏の意向を受けてずっと組合を弾圧してきた石川氏がいなくなることは、願ってもない吉事である。これで報道の職場も働きやすくなると思ったに違いない。
石川さんが報道局の全体会議で別れの挨拶をした時の情景は忘れられない。彼は最後に『北帰行』を歌った。私は万感胸に迫り、涙が込み上げてきたのを覚えている。 「今は黙して 行かん 何をまた 語るべき・・・」 
この後、鹿内会長は息子の春雄氏をFテレビに迎え入れる態勢を着々と整えた。そして、1980年6月、鹿内春雄氏は代表取締役副社長に就任する。そこから、Fテレビの大改革が始まるのである。(続く。2012年1月12日)

 8) Fテレビはその昔「母と子のFテレビ」をキャッチフレーズにしていたが、鹿内信隆会長が息子の春雄氏を副社長で迎え入れたため、世間からは「父と子のFテレビ」と揶揄された。また、春雄氏のスキャンダルもいくつか週刊誌などに出た。 しかし、春雄氏が経営トップに参加してから、Fテレビは見る見るうちに変貌し、躍進していく。
最も大きく変わったのは、外部に切り離されていた制作部門を本社に吸収したことだろう。これで社員が一挙に300人以上増え、制作局が新設されて強力な番組制作体制が確立した。 これを土台にして、Fテレビはやがて目覚しい飛躍を遂げることになるが、1980年のこの時が大きな分岐点だったに違いない。
なにかFテレビの宣伝みたいになってしまったが、春雄氏は父の信隆氏と違って「テレビ局の現場」にとても向いていたのだろう。 “お祭り男”のようなところがあった。父は冷徹な経営者で、現実主義と合理主義の塊(かたまり)みたいだったが、息子は夢やロマンを追求するタイプのようだった。どちらが面白いかと言えば、もちろん息子の方である。 そこから「楽しくなければテレビじゃない」というコピーが誕生した。カルチャーに引っ掛けた“軽チャー”路線もそこから出てきたのだろう。 父がハードの人だったのに対し、息子はソフトの人だったということか。
 
鹿内会長が世襲によって電波を“私物化”しようがしまいが、春雄氏が副社長になってからFテレビは勢いがつき、やがて視聴率3冠王が当たり前になっていく。 春雄氏は父と違って、労働組合出身だろうがなかろうが、能力のある人材をどんどん登用していった。いまFテレビの会長を務める日枝氏も、若くして編成局長に抜擢された。 また、悪名高かった「女子25歳定年制」も廃止した。こうした措置が社員の士気を高めたことは間違いない。
仕事の面で輝かしい実績を挙げる春雄氏だったが、プライベートの面でも華やかだった。 NHKで人気のあった頼近美津子アナをFテレビに引き抜くと、数年後には彼女と結婚してしまった。 これには驚いたが、やるな~と思うしかない。春雄氏は他の女子アナらとも秘かに接触していたが、なかなかのものである。詳しいことは言えないが(笑)
もっとも社内に批判がなかったわけではない。 いまFテレビの社長である豊田皓氏などは正義感が強かったのか、「高い金で(NHKから)引き抜いた“商品”に、手を付けるとはけしからん!」と、当時は怒っていた。しかし、勝てば官軍なのか、春雄氏は公私共に勢いがあった。なんだか、今日は鹿内春雄氏の話ばかりになってしまったが(失礼)、それだけ印象が強かったのだと思う。(2012年1月15日)

 9) 鹿内春雄副社長はやがて会長に就任し、ますます独自のカラーを発揮するようになる。Fテレビを含むグループの統一シンボルが『目ん玉マーク』になった時は驚いた(1985年)。斬新というか奇抜というか、私などは度肝を抜かれた。 あんなマークで良いのかよ~と思ったが、学生時代の旧友などは「あれは凄いね。参った!」と言う。そうかな~と半信半疑だったが、たしかに印象に残るマークではある。

その頃の私はずっと報道局にいたので、オーソドックスな考え方でニュース制作に当たっていた。ところが、社風が一変して何でも新しいものに挑戦する動きが出てくる。 それは良いとしても、ニュース自体が“ショーアップ”した番組になったのには抵抗感を覚えた。まして、私は「政経デスク」である。現場記者からの情報を客観的に正しく伝えるのが仕事だったのだ。

 しかし、ニュースの編集長はそういう報道を嫌ったのか、政経ネタをほとんど取り上げない。今から思えば「官庁の垂れ流し情報なんか流せるか!」と考えれば済むのだが、当時は現場の記者からは突き上げを受けるし、政経ネタをほとんどやらないからストレスも溜まる。 とうとう編集長と大喧嘩になったが、向こうは編集権を持っていて譲らない。ついに私はノイローゼ気味になって、大阪や神戸、姫路へ“”癒し”の旅行に出かけたくらいだ。
さすがに社内外から、あれはニュースなのかといった批判も出てきて、例えば「駅頭中継」と言って、帰宅時のサラリーマンに一言インタビューするような企画はなくなった。 酔っ払いのオジサンが「いま帰るよ~」と言ったって、ニュースとは何の関係もないではないか! それはともかく、新しい色々な試みが現在のテレビニュースの原点になったかもしれない。
そのうち、もっと驚いたのが、夕方のメインニュースの直前に「夕やけニャンニャン」という番組が始まったことだ。これには参った。 “おニャン子クラブ”という若い女の子たちが出てきて歌ったり踊ったりするのだ。中高生を対象にした番組なのだろう。

 今では“AKB48”などがあるから驚かないが、当時の私は頭の固い政経デスクである。何だ! こりゃ~~とびっくりした。「もう、テレビも終わりだな」と仲間と話し合ったぐらいだ。 ところが、こういう新しい番組や企画が次々とヒットし、Fテレビは完全に視聴率3冠王に輝くようになった。
毎週、3冠王だと1万円が出る。どんどん1万円が出てくる。これには助かった。懐具合が良くなって飲みに行けるのだ(笑)。 こうなると、おニャン子にも抵抗感が薄れてくる。昔、大宅壮一や松本清張はテレビで「一億総白痴化」になると言った。しかし、しょせん「楽しくなければテレビじゃない」ということか。以下に、おニャン子クラブの代表的な歌をリンクしておこう。(続く。2012年1月18日)

  セーラー服を脱がさないで・・・http://www.youtube.com/watch?v=kwm8Zskinsg


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2 コメント

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創業者 (keitan)
2014-09-26 08:52:52
創業者を大切にすることは必要であるとは思いますが、そのI部長は鹿内信隆翁を何か誤解をされていたと謂うことでしょうか?
 そう言えば、産経新聞は信隆翁を知るも春雄将軍様を知らない訳です。それが後の変化に大きく影響しているのではないかと思います。
 民主党も鳩山二世と言うか三世が指導部になると良いかも知れません。
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信隆親子 (矢嶋武弘)
2014-09-26 10:08:47
アイ局長は信隆氏の息子(春雄さん)偏愛を嫌っていましたね。電波の私物化として、それに反発していました。記事の中にあるとおりです。
しかし、世襲はよくあることです。また、春雄さんが後を継いで開放的になり、良くなった面は多々あったと思います。
産経新聞と春雄さんの関係は、私は経営者ではないのででよく分かりません。でも、新風を吹き込んだと言う人が多かったですね。
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