よく書店で見かけるのが「今さら聞けないXXの話し」なる題名の本。今日は「文学」の話題だが、この世界、入門するのに別に資格が要らないのに「知っているようで知らない」、「今さら聞けない」疑問がいくつもある。門外漢の素朴な疑問として◆印をつけたので、どれかひとつでも構わないのでご教示いただければ幸いです。
「芥川、直木賞:文学賞乱立」という長文の解説記事が毎日新聞1月5日付で掲載されている。「芥川、直木賞」の候補作品が出そろったことを伝え、最近の「文学賞」事情を伝えている。
ここで最初の疑問?◆芥川賞と直木賞の違いって何?
「芥川賞は純文学作品に、直木賞は大衆文学作品に与えられる」って、さすがにそれくらいは小生も知っている。しかし牛肉じゃないんだからまさか小説に「純文学」とラベルを貼って編集者に渡すわけではあるまい。その「違い」は誰が判別するのだろう?
「純文学」の謎
「大衆文学」というのはまだ分かる気がするが、「純文学」ってそもそもなんだ。これは日本独特の概念ではないか。英語で言えば"pure literature"か?そんなはずはない。「分かりにくい」文学作品というのが一つの答えで、日本には「純文学」だけを掲載している文芸誌というのがあって、読んでみると確かに作者の訴えたいことが分からない、と言うより何かを言いたいのか何も言いたくないのかさえ分からない作品がほとんどで、なるほどこれが「純文学」というものかと「分かった」ような気になるのである。しかしこれまたいい加減な基準だ。分かりにくく書くのは本来素人の特徴だからだ。
「純文学は初版だけで数千部売れればいい方」(毎日)というから、出版部数で区別するのも分かりやすいが、まるで売れない「大衆小説」もあるし、芥川賞受賞作でも数十万部売れるものもある。
世間一般では「純文学」の方が「大衆文学」よりも”上”であると思われているが、作家の方にもそういう意識はあるだろう。◆だから自分の「芥川賞」狙いの作品が「直木賞」にノミネートされたらショックを受けて抗議するのだろうか。逆に「大衆受け」を狙った作品が「人間存在の深奥に迫る」とか評論家に勘違いされて「芥川賞」を受けたりしたら、恐れをなして辞退したりするのだろうか。
「商売敵」を自ら”選ぶ”?
しかし門外漢から見て最も驚くのはこの2賞の選考委員(末尾に一覧)が全員小説家であることだ。そんなの当たり前と思う方は、例えば日本レコード大賞の審査委員が「日本歌謡界の大御所」、例えば北島三郎、八代亜紀・・・という人たちばかりであったらどうかと考えて欲しい。第一に彼らは全員現役の作家だ。小説の全体売上部数はほぼ一定であるから、作家同士で限られたマーケットを食い合っている。新しい自らの「商売敵」を”発掘”するというのも妙な話だ。 ひょっとしたら「この才能は脅威だ」と感じた新人の”登竜”を阻止するためにわざと駄作を推薦しているのでないか、と疑問を持つほど受賞作はつまらないことが珍しくない。実際プロ野球の「ドラ1」と同じで、「指名」された新人が全く活躍しない例も多いこともこの”疑惑”を裏付ける。
◆そもそも「選考委員」の選考はどの様に行われるのだろう。選考委員自身が選ぶとしたら、もうこれはギルドか一種の家元制度のような排他的な集団だ。そういう人達が「日本文学の在り方」を決めるというのはいかがなものか。
文学賞の選考で選考委員の作家が「Aの作品は人間が描けてない」とかの講評をしているのを読むと、門外漢はつい突っ込みを入れたくなる。「じゃ、あんたの作品は書けてるのね?」。同業者を公の場で批評する居心地の悪さは、例えば、日本料理の道場六三郎が中華の陳健一の料理を「陳君の料理はスパイスの使い方がまずいね」と公の席で評価するのを聞く(もちろん実際にはない)ような感じなのだ。「料理の鉄人」の審査員席に料理人は座らないのだ。文士の世界というのは全く違う掟があるようだ。
「供給者サイド」の論理
そもそも「芥川、直木賞」は、「1935年に菊池寛(上に似顔絵)によって創設された当初は、雑誌「文芸春秋」の売れ行きが落ちる2、8月対策だった」(毎日)。今でも芥川賞受賞作は「文藝春秋」に掲載され、直木賞は「オール讀物」に掲載されることで「文藝春秋社」を潤すことになっている。この両賞は分かりやすく言えば、「トヨタ自動車が選ぶ今年の”car of the year”」のようなもので、「公正」さを期待する方が無茶だ。だから少なくとも候補作には文藝春秋が著作権を持つ作品が必ず登場する。受賞作も抜きん出て多い。
これでは日本の「文芸界」は完全な”社会主義”で、作家は文藝春秋の顔色をうかがって物を書き続けないといけないことになる。だからこれまでは「供給者サイド」の論理に偏っていた文学賞をもっと「消費者」サイドに変えていこうという動きもこの記事は取り上げている。
<書店員がネット投票する「本屋大賞」(04年創設)、角川書店の「青春文学大賞」や「ヤフー!ジャパン文学賞」「ダ・ヴィンチ文学賞」など、ネット投票や読者代表が選ぶ賞も次々にできた。> いわば文学賞の「民営化」だ。作品の良し悪しを作家自身が決めるという不自然な在り方にようやく気づき始めたということだろう。
「最強の素人」の台頭
それにしてもこのBlogで取り上げているBC級ニュースでも、深く読み込めばそこから「文学」に展開できるネタが満載である。19世紀には、「女性の自殺」という当時でも平々凡々な三面記事から「ボヴァリー夫人」や「アンナ・カレーニナ」のような傑作を紡ぎ出す目を持った大家がいた。今の日本には一つの事件から社会の病理を解剖してその姿を活写するという能力のある文士はいないのだろうか。
「プロフェッショナル」の文章が衰退していく反面、Blogなどで「プロ顔負け」の”素人”の文章に出会うこともある(稀ではあるが)。考えればあの紫式部も「文学賞」とは”無縁”だった。宮中の女房の”Blog"「源氏物語」が、今でも「プロ」の作家の作品を押さえて日本文学史上最高の傑作と言われるのは皮肉だ。「文学」において「プロ」であることの意味が問われている。
大晦日の格闘技では、「大横綱」にして現役プロレスラー、まさしく”格闘技のプロ”の曙氏に、「最強の素人」ボビー・オロゴン氏が圧勝した。喜んでばかりもいられない。「”素人”の時代」は、プロ不在の時代でもある。まだしばらくは「プロ」の健闘を望みたい。作家の先生も、例えば都知事に転身して・・というのも一つの行き方かもしれないが、やはり筆(キーボード)のチカラで社会に貢献して欲しい。
【芥川賞、直木賞選考委員】
【芥川賞】池澤夏樹、石原慎太郎、黒井千次、河野多惠子、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、山田詠美
【直木賞】阿刀田高、五木寛之、井上ひさし、北方謙三、津本陽、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一
【付記2006.1.6-直木賞は「純文学」作家の"流刑地"か】
その後芥川賞・直木賞受賞作品全リスト(これは候補者・作品まで含むリスト)をしげしげと見つめてたくさんの発見がありました。めったに「文学」を読まない私がこれほど楽しめたのですから、文学好きの方なら一日中眺めていても飽きないでしょう。
第一の発見:芥川賞のリストを見ていると、「あっ、この人のエロ小説読んだことある」という作家の方をちらほら見かけます。そう。「純文学」を志したものの「堕落」して原稿料の稼げる「大衆」文学の道を選択した先生。候補に上げられながら受賞できなかった方が多いが、受賞者でもいらっしゃいます。やはり「大衆文学」の方が楽なのですね。
また「堕落」というのではありませんが、松本清張先生はデビューは芥川賞。どちらかと言えば「直木賞」的な作風なのでちょっと意外でした。
それから芥川賞と直木賞を一人で受賞することはできないというのは明文規定のようです。つまりどちらかの賞を受賞した時点でその人は「純文学」・大衆文学、どちらの道を進むかが規定されるということです。これはかなりユニークな日本文学界の特徴ではないでしょうか。
第二の発見:直木賞を受賞した作家で「純文学」に転じた作家はいない。これはまだ仮説です。すべての先生の業績を知らないので、そんな気がするというレベルですが、ぜひ例外を指摘して欲しいと思います。
これは大変なことです。「純文学」を志している若き才能が直木賞を受賞した途端「おまえの進む道は大衆文学だけ」と宣告されるのですから。喜ぶべき受賞が「流刑地」とは驚きです。直木賞作家で選考委員渡辺淳一先生のあの”朝から興奮”日経朝刊連載小説「愛の流刑地」(「愛ルケ」ご存じですよね)にちなんで、私は「直ルケ」と呼びたいと思います。
直川龍五先生、あなたは若い頃純文学を志しておられて、芥川賞を取ったあと、ノーベル文学賞を受賞するんだとお友達に話しておられましたね。すばらしいことです。そしてあなたにはその才能があった。私、テレビで拝見したあの授賞式の時の先生の笑顔よく覚えております。とても印象的でした。ンフフフ・・満面に笑みをたたえて・・・しかし私は気付きました。あなたの目は笑っていなかった!・・・それはなぜか・・・
そうです。あれは直木賞の授賞式だったのです。その授賞式であなたは誓ったはずです。「純文学作家としての俺の将来を奪ったすべてに復讐する」と。直木賞選考委員の全員を殺害すること、そして文藝春秋社を破産させるというあなたの「プロジェクトX」はこの日に始まったのです。
おや「ヘッドライト・テールライト」のエンディングテーマが流れてきましたね。・・・そろそろ参りましょうか。・・・私には分かりません。裁判所が決めることですから。いずれにしても少なくとももう一本小説を書く時間は残されていると思います。どうかいい「純文学」作品を書いてください。・・ええもうお会いすることはありません。古畑任三郎でした。
「芥川、直木賞:文学賞乱立」という長文の解説記事が毎日新聞1月5日付で掲載されている。「芥川、直木賞」の候補作品が出そろったことを伝え、最近の「文学賞」事情を伝えている。
ここで最初の疑問?◆芥川賞と直木賞の違いって何?
「芥川賞は純文学作品に、直木賞は大衆文学作品に与えられる」って、さすがにそれくらいは小生も知っている。しかし牛肉じゃないんだからまさか小説に「純文学」とラベルを貼って編集者に渡すわけではあるまい。その「違い」は誰が判別するのだろう?
「純文学」の謎
「大衆文学」というのはまだ分かる気がするが、「純文学」ってそもそもなんだ。これは日本独特の概念ではないか。英語で言えば"pure literature"か?そんなはずはない。「分かりにくい」文学作品というのが一つの答えで、日本には「純文学」だけを掲載している文芸誌というのがあって、読んでみると確かに作者の訴えたいことが分からない、と言うより何かを言いたいのか何も言いたくないのかさえ分からない作品がほとんどで、なるほどこれが「純文学」というものかと「分かった」ような気になるのである。しかしこれまたいい加減な基準だ。分かりにくく書くのは本来素人の特徴だからだ。
「純文学は初版だけで数千部売れればいい方」(毎日)というから、出版部数で区別するのも分かりやすいが、まるで売れない「大衆小説」もあるし、芥川賞受賞作でも数十万部売れるものもある。
世間一般では「純文学」の方が「大衆文学」よりも”上”であると思われているが、作家の方にもそういう意識はあるだろう。◆だから自分の「芥川賞」狙いの作品が「直木賞」にノミネートされたらショックを受けて抗議するのだろうか。逆に「大衆受け」を狙った作品が「人間存在の深奥に迫る」とか評論家に勘違いされて「芥川賞」を受けたりしたら、恐れをなして辞退したりするのだろうか。
「商売敵」を自ら”選ぶ”?
しかし門外漢から見て最も驚くのはこの2賞の選考委員(末尾に一覧)が全員小説家であることだ。そんなの当たり前と思う方は、例えば日本レコード大賞の審査委員が「日本歌謡界の大御所」、例えば北島三郎、八代亜紀・・・という人たちばかりであったらどうかと考えて欲しい。第一に彼らは全員現役の作家だ。小説の全体売上部数はほぼ一定であるから、作家同士で限られたマーケットを食い合っている。新しい自らの「商売敵」を”発掘”するというのも妙な話だ。 ひょっとしたら「この才能は脅威だ」と感じた新人の”登竜”を阻止するためにわざと駄作を推薦しているのでないか、と疑問を持つほど受賞作はつまらないことが珍しくない。実際プロ野球の「ドラ1」と同じで、「指名」された新人が全く活躍しない例も多いこともこの”疑惑”を裏付ける。
◆そもそも「選考委員」の選考はどの様に行われるのだろう。選考委員自身が選ぶとしたら、もうこれはギルドか一種の家元制度のような排他的な集団だ。そういう人達が「日本文学の在り方」を決めるというのはいかがなものか。
文学賞の選考で選考委員の作家が「Aの作品は人間が描けてない」とかの講評をしているのを読むと、門外漢はつい突っ込みを入れたくなる。「じゃ、あんたの作品は書けてるのね?」。同業者を公の場で批評する居心地の悪さは、例えば、日本料理の道場六三郎が中華の陳健一の料理を「陳君の料理はスパイスの使い方がまずいね」と公の席で評価するのを聞く(もちろん実際にはない)ような感じなのだ。「料理の鉄人」の審査員席に料理人は座らないのだ。文士の世界というのは全く違う掟があるようだ。
「供給者サイド」の論理
そもそも「芥川、直木賞」は、「1935年に菊池寛(上に似顔絵)によって創設された当初は、雑誌「文芸春秋」の売れ行きが落ちる2、8月対策だった」(毎日)。今でも芥川賞受賞作は「文藝春秋」に掲載され、直木賞は「オール讀物」に掲載されることで「文藝春秋社」を潤すことになっている。この両賞は分かりやすく言えば、「トヨタ自動車が選ぶ今年の”car of the year”」のようなもので、「公正」さを期待する方が無茶だ。だから少なくとも候補作には文藝春秋が著作権を持つ作品が必ず登場する。受賞作も抜きん出て多い。
これでは日本の「文芸界」は完全な”社会主義”で、作家は文藝春秋の顔色をうかがって物を書き続けないといけないことになる。だからこれまでは「供給者サイド」の論理に偏っていた文学賞をもっと「消費者」サイドに変えていこうという動きもこの記事は取り上げている。
<書店員がネット投票する「本屋大賞」(04年創設)、角川書店の「青春文学大賞」や「ヤフー!ジャパン文学賞」「ダ・ヴィンチ文学賞」など、ネット投票や読者代表が選ぶ賞も次々にできた。> いわば文学賞の「民営化」だ。作品の良し悪しを作家自身が決めるという不自然な在り方にようやく気づき始めたということだろう。
「最強の素人」の台頭
それにしてもこのBlogで取り上げているBC級ニュースでも、深く読み込めばそこから「文学」に展開できるネタが満載である。19世紀には、「女性の自殺」という当時でも平々凡々な三面記事から「ボヴァリー夫人」や「アンナ・カレーニナ」のような傑作を紡ぎ出す目を持った大家がいた。今の日本には一つの事件から社会の病理を解剖してその姿を活写するという能力のある文士はいないのだろうか。
「プロフェッショナル」の文章が衰退していく反面、Blogなどで「プロ顔負け」の”素人”の文章に出会うこともある(稀ではあるが)。考えればあの紫式部も「文学賞」とは”無縁”だった。宮中の女房の”Blog"「源氏物語」が、今でも「プロ」の作家の作品を押さえて日本文学史上最高の傑作と言われるのは皮肉だ。「文学」において「プロ」であることの意味が問われている。
大晦日の格闘技では、「大横綱」にして現役プロレスラー、まさしく”格闘技のプロ”の曙氏に、「最強の素人」ボビー・オロゴン氏が圧勝した。喜んでばかりもいられない。「”素人”の時代」は、プロ不在の時代でもある。まだしばらくは「プロ」の健闘を望みたい。作家の先生も、例えば都知事に転身して・・というのも一つの行き方かもしれないが、やはり筆(キーボード)のチカラで社会に貢献して欲しい。
【芥川賞、直木賞選考委員】
【芥川賞】池澤夏樹、石原慎太郎、黒井千次、河野多惠子、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、山田詠美
【直木賞】阿刀田高、五木寛之、井上ひさし、北方謙三、津本陽、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一
【付記2006.1.6-直木賞は「純文学」作家の"流刑地"か】
その後芥川賞・直木賞受賞作品全リスト(これは候補者・作品まで含むリスト)をしげしげと見つめてたくさんの発見がありました。めったに「文学」を読まない私がこれほど楽しめたのですから、文学好きの方なら一日中眺めていても飽きないでしょう。
第一の発見:芥川賞のリストを見ていると、「あっ、この人のエロ小説読んだことある」という作家の方をちらほら見かけます。そう。「純文学」を志したものの「堕落」して原稿料の稼げる「大衆」文学の道を選択した先生。候補に上げられながら受賞できなかった方が多いが、受賞者でもいらっしゃいます。やはり「大衆文学」の方が楽なのですね。
また「堕落」というのではありませんが、松本清張先生はデビューは芥川賞。どちらかと言えば「直木賞」的な作風なのでちょっと意外でした。
それから芥川賞と直木賞を一人で受賞することはできないというのは明文規定のようです。つまりどちらかの賞を受賞した時点でその人は「純文学」・大衆文学、どちらの道を進むかが規定されるということです。これはかなりユニークな日本文学界の特徴ではないでしょうか。
第二の発見:直木賞を受賞した作家で「純文学」に転じた作家はいない。これはまだ仮説です。すべての先生の業績を知らないので、そんな気がするというレベルですが、ぜひ例外を指摘して欲しいと思います。
これは大変なことです。「純文学」を志している若き才能が直木賞を受賞した途端「おまえの進む道は大衆文学だけ」と宣告されるのですから。喜ぶべき受賞が「流刑地」とは驚きです。直木賞作家で選考委員渡辺淳一先生のあの”朝から興奮”日経朝刊連載小説「愛の流刑地」(「愛ルケ」ご存じですよね)にちなんで、私は「直ルケ」と呼びたいと思います。
直川龍五先生、あなたは若い頃純文学を志しておられて、芥川賞を取ったあと、ノーベル文学賞を受賞するんだとお友達に話しておられましたね。すばらしいことです。そしてあなたにはその才能があった。私、テレビで拝見したあの授賞式の時の先生の笑顔よく覚えております。とても印象的でした。ンフフフ・・満面に笑みをたたえて・・・しかし私は気付きました。あなたの目は笑っていなかった!・・・それはなぜか・・・
そうです。あれは直木賞の授賞式だったのです。その授賞式であなたは誓ったはずです。「純文学作家としての俺の将来を奪ったすべてに復讐する」と。直木賞選考委員の全員を殺害すること、そして文藝春秋社を破産させるというあなたの「プロジェクトX」はこの日に始まったのです。
おや「ヘッドライト・テールライト」のエンディングテーマが流れてきましたね。・・・そろそろ参りましょうか。・・・私には分かりません。裁判所が決めることですから。いずれにしても少なくとももう一本小説を書く時間は残されていると思います。どうかいい「純文学」作品を書いてください。・・ええもうお会いすることはありません。古畑任三郎でした。