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ロシアの文豪レフ・トルストイの作品に『神父セルゲイ』という中編がある。最近(1990年)『太陽は夜も輝く Il sole anche di notte 』という題名でイタリアで映画化された。非常にシリアスな中味なのだが、一言で言ってしまえば、自らの性欲と闘う坊さんの話だ。隠遁して聖者になったセルゲイの僧院に、彼を誘惑してやろうという女
がやってきた。ただでさえあらぬ妄想に苦しめられているセルゲイは、煩悩を断ち切るために自分の指を切り・・・という凄まじい話だが、普通の人よりもスケベ心
をお持ちの方が神に仕える身にならなくとも、とそちらの方が気になってしまう。
こちらはセルゲイよりももっと次元の低い「神職」の話。「長田神社(神戸市長田区)の神職の男(30)が、巫女(みこ)らの使う神社内の女子更衣室にビデオカメラを置いたとして、軽犯罪法違反容疑で長田署の事情聴取を受けていた」(神戸新聞3月4日)。
「同神社によると2月14日、女性職員が空きロッカー内に設置されたビデオカメラを発見。宮司が15日に男性職員全員に問いただした
ところ、男がカメラを置いたことを認めた」ため、神社からは懲戒解雇されたという。
呆れるのは、この長田神社、「2003年4月にも、盗み撮りをしたとして神職の男が県迷惑防止条例違反の疑いで逮捕」されているというから、「神の道」の紊乱ぶりは隠しようもない。
「神職」という言い方では、この盗撮男の階級は分からない。現在神社本庁は、司・権宮司・禰宜・権禰宜の四職に「神職」を分類しているという。神道は仏教よりも”学歴至上主義”で、宮司になるには、國學院大學文学部神道学科や皇學館大學文学部神道学科で単位を取得し、神道研修部(神社本庁の研修機関)の各研修等を修了しないといけない。ただ、仏教のような厳しい?修行
はなく、知識優先という感じだ。
だからこういう未熟者が聖職に就くと言えそうだが、実際には仏教界からも女子更衣室のロッカーでひたすら待ち続けた坊さんが輩出されているので、神道界・仏教界共に反省
が必要だろう。
◆神道における「罪」の意識
それにしても神道の世界では「のぞき」はいかなる罪(刑法はしばらく措くとして)に当たるのであろう。
神道で言う「罪」と、現在の日本人の考える罪の意識には大きなズレがある。文献として神道の「罪」が記されいてる最古の文献は平安時代の『延喜式』(905-967年に成立か)だ。この中で「罪」は「天津罪・国津罪」に大別されている。「天津罪」というのは、主に水田工作を妨害する活動が上げられていて、いかにも日本の成り立ちを表しているのだが、傑作なのは「屎戸の罪」で、神殿に屎をまきちらす
ことをわざわざ列挙している。
もう一つの「国津罪」として列挙されている「罪」の方が現在の罪の感覚に近いが、殺人は具体的な列挙がなく、代わりに生身の人間及び死者の皮膚を剥ぐこと(生膚断・死膚断)が罪とされている。また母子相姦などは罪だが、強姦は指摘がなく、当然「のぞき」は「罪」だと考えもしなかったようだ。
いずれにしても神道での「罪」は、キリスト教の「原罪」とは正反対で、一種の”汚れ”(穢)なので、「洗えば」落ちる。いわゆる禊(みそぎ)の考えだ(現在でも政界では禊という言葉は多用されている)。「罪や穢」は祓(はら)えばきれいさっぱり。それでもう悩むことはないんだ
。宗教上の教義というより、楽天的な日本人古来の信条を神道が採用したということだろう。
そうなのだ。日本の宗教は「性」についておおらかと言うか、深刻には考えてこなかった。だから「神父セルゲイ」をイタリア風にrewriteして映画は作れるが、主人公を日本人の神主にすると滑稽映画
になってしまう。
次々と盗撮神職を輩出したこの神社の宮司のコメントが秀逸だ。「今後は心を鬼にし
綱紀粛正を図りたい」。神職というよりは、たるんだ官庁の管理職のコメントだ。俗人と聖人は行動からはもう区別できない。だから袈裟があり、あるいは神祇装束を身につけて差別化するのだが、今回はその「俗」から「聖」への”変身の瞬間”を狙われた。
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こちらはセルゲイよりももっと次元の低い「神職」の話。「長田神社(神戸市長田区)の神職の男(30)が、巫女(みこ)らの使う神社内の女子更衣室にビデオカメラを置いたとして、軽犯罪法違反容疑で長田署の事情聴取を受けていた」(神戸新聞3月4日)。
「同神社によると2月14日、女性職員が空きロッカー内に設置されたビデオカメラを発見。宮司が15日に男性職員全員に問いただした
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呆れるのは、この長田神社、「2003年4月にも、盗み撮りをしたとして神職の男が県迷惑防止条例違反の疑いで逮捕」されているというから、「神の道」の紊乱ぶりは隠しようもない。
「神職」という言い方では、この盗撮男の階級は分からない。現在神社本庁は、司・権宮司・禰宜・権禰宜の四職に「神職」を分類しているという。神道は仏教よりも”学歴至上主義”で、宮司になるには、國學院大學文学部神道学科や皇學館大學文学部神道学科で単位を取得し、神道研修部(神社本庁の研修機関)の各研修等を修了しないといけない。ただ、仏教のような厳しい?修行
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だからこういう未熟者が聖職に就くと言えそうだが、実際には仏教界からも女子更衣室のロッカーでひたすら待ち続けた坊さんが輩出されているので、神道界・仏教界共に反省
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◆神道における「罪」の意識
それにしても神道の世界では「のぞき」はいかなる罪(刑法はしばらく措くとして)に当たるのであろう。
神道で言う「罪」と、現在の日本人の考える罪の意識には大きなズレがある。文献として神道の「罪」が記されいてる最古の文献は平安時代の『延喜式』(905-967年に成立か)だ。この中で「罪」は「天津罪・国津罪」に大別されている。「天津罪」というのは、主に水田工作を妨害する活動が上げられていて、いかにも日本の成り立ちを表しているのだが、傑作なのは「屎戸の罪」で、神殿に屎をまきちらす
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もう一つの「国津罪」として列挙されている「罪」の方が現在の罪の感覚に近いが、殺人は具体的な列挙がなく、代わりに生身の人間及び死者の皮膚を剥ぐこと(生膚断・死膚断)が罪とされている。また母子相姦などは罪だが、強姦は指摘がなく、当然「のぞき」は「罪」だと考えもしなかったようだ。
いずれにしても神道での「罪」は、キリスト教の「原罪」とは正反対で、一種の”汚れ”(穢)なので、「洗えば」落ちる。いわゆる禊(みそぎ)の考えだ(現在でも政界では禊という言葉は多用されている)。「罪や穢」は祓(はら)えばきれいさっぱり。それでもう悩むことはないんだ
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そうなのだ。日本の宗教は「性」についておおらかと言うか、深刻には考えてこなかった。だから「神父セルゲイ」をイタリア風にrewriteして映画は作れるが、主人公を日本人の神主にすると滑稽映画
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次々と盗撮神職を輩出したこの神社の宮司のコメントが秀逸だ。「今後は心を鬼にし
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