おもしろニュース拾遺

 BC級ニュースが織り成す可笑しくも愛しい『人間喜劇』。おもしろうてやがて悲しき・・・

ホリエモン逮捕:賛美論を振り返る

2006-01-24 16:16:09 | 詐欺
           (「裸の大将」じゃない。ホリエイカロスだよ)

 マクベスは、「グラミスの領主、コーダの領主、いずれは王ともなられるお方」という魔女たちの予言を聞いて、王を殺害して自ら玉座に座ったのだが、果たしてこのような不正義で権力が維持できるのか悩む。しかしまたしても魔女たちの予言を聞いて自信を回復する。「マクベスは滅びはしない、あのバーナムの大森林がダンシネインの丘に攻め上って来ぬかぎりは。」というのである。「バーナムの森が動くわけはないではないか。王座は永遠だ」。しかし「バーナムの森」は動き、マクベスは滅んだ。魔女たちの予言は100発100中だったのである。ただ、マクベスがその予言の意味を取り違えただけであった・・・・

 シェークスピアの悲劇の中で『マクベス』がストーリー的には一番面白いと思う。謎の予言、王位の簒奪、栄光の絶頂、反乱、破滅・・とドラマチックな要素が盛りだくさんで展開も速い。そしてシェークスピアなんて難しいという日本の”庶民”のために、役者的には不足があるが同等のストーリー展開で世間を賑わせてくれたのが、ホリエモン逮捕劇だ。

 それにしてもホリエモンマクベスはどんな「魔女の予言」を聞いてあそこまで突っ走ったのか。「魔女」と呼ぶのが適当かどうか分からないが、実はホリエモンは年頭に日本で最も有名な(つまり稼ぎ頭ということ)女性占い師に未来を予言してもらっているという。その番組は「仇敵」フジテレビの「幸せって何だっけ カズカズの宝話 新春緊急スペシャル」(1月6日放映)。その中でこの「大占い師」はホリエモンを「日本を変える良い魂と腹を持っている」と絶賛したという(ゲンダイネット1月23日)。さらに「いつ(時価総額)世界一になれるか」というホリエモンの問いに、この先生「私の言うことを聞かないとなれない。十中八九なれる要素はあります」と回答したという
 マクベスの魔女ほどとは言わないが、ホリエモンももう少しいい「予言者」に金を払っていれば運命も少しは好転したかもしれない。いや、それでもマクベスと同じ運命だったかもしれないが。

 マスコミのホリエモン評価は昨年とは文字通り手のひらを返したように、もう攻撃一辺倒だ。持ち上げて視聴率を稼ぎ、今度は突き落として世間の喝采を浴びてさらに視聴率を稼ぐ。一つのコンテンツで「二度おいしい」、いつものマスコミの荒稼ぎのパターンだ。ホリエモンは自分にゾロゾロ付いてくる取材陣を従者のように思っていただろうが、実は「バーナムの森」だった。六本木ヒルズの「丘に攻め上って来」る敵軍のように今は彼に襲いかかる。
 もうほとんどリンチ状態なので、ホリエモン嫌いの小生でさえ援軍でも出してやろうかという気持ちになるが、すでにこのBlogで書いたように、「BC級」の範疇外になってしまう。ここでは視点を変えて、「play backホリエモンを絶賛したお偉方」。いかに権力者の「言葉」が軽いものであるか、イカロスの翼をくっつけていたロウのように頼りないものであるか、「日本を変える良い魂と腹」を持つためにもじっくり味わってほしい。

【財界】
 と言えば経団連だ。ライブドアは滑り込みで経団連への加盟を果たしている。これも経団連会長の覚えめでたかったおかげだ。「個人的に付き合えば(堀江君は)まじめな人。あれだけのお金を運用して利益をあげている。若いが情熱をもった人として付き合っている」(05年10月19日の奥田碩会長の会見) 「まじめな人」が粉飾決算をやりますか。奥田会長は「堀江無罪論」を展開すべきだ。経団連として大弁護団を組織すべきでしょう。

【政界】
<武部勤幹事長>
 前回の衆院選で民主党もアプローチしたが、結局ホリエモンは自民党を選んだ。公認候補ではなかったが、応援演説にきた武部幹事長はホリエモンを「わが弟、わが息子」と呼んだ。 幹事長、「息子」が逮捕されたのに何もしなくていいのですか?
 幹事長のホリエモンへの入れ込みようは尋常でない。ライブドア社の広報誌「livedoor 2005 winter」で武部氏はホリエモンとの対談でこう絶賛する。「堀江君は素晴らしい青年だと思うな。奔放に広がっていく」、「経験も豊富だし、勉強もしているし、ネットワークも広い」(北海道新聞1月21日 「奔放に広が」り過ぎたのでしょうか。

竹中平蔵総務大臣
 昨年のホリエモン選挙応援で、「郵政民営化、小さな政府づくりは小泉純一郎、ホリエモン、竹中平蔵の3人でスクラムを組んでやり遂げる」と締めくくった(8月30日)。 改革「3人衆」の一人がこけたのですから郵政民営化に暗雲が立ちこめてきたのではないでしょうか。

<小泉純一郎総理大臣>
 ホリエモン立候補について、「新しい時代の息吹というか、若い感覚をこれからの日本の経営に与えてくれるんじゃないか。反発もあるけど、時代の変革期という感じがする」(2005年8月16日) ご自身は今ホリエモンに「反発」は感じておられますか?

 ちなみに上記の占い師の先生はこの番組で、ホリエモン選挙再出馬について「絶対、出ちゃダメ。こんな口下手な人はいないの。結果しか言わないから。政治はやめなさい。風評が悪くなる。」と言ったらしい。もう出たくても出れません。確かに【政界】の先生はホリエモンよりも口はうまいですね。自分の言ったことになんの責任も取らずにスルリと逃げておしまいになられた。さすがのホリエモンも政治家の要領のよさには唖然として言葉もないだろう。「政治はやめなさい」と言われるまでもなかった。

 マクベスの魔女たちは劇中不思議な歌を歌っていたことを覚えておられるだろうか。
 「♪綺麗は穢い、穢いは綺麗」というのである。そう、世間というのはあるいはマスコミというのは、あるいはお偉方というのは、一瞬にして「綺麗は穢い」と評価を180度転換するものなのだ。喝采は罵倒に、六本木ヒルズは東京拘置所に、時価総額1兆円は買手なしに、一瞬にして変わる。「人の心は金で買える」と豪語したホリエモンだったが、「人の心を変える」ものについての理解は足りなかったのだろう。

「クマと逢ったら」を教えるビデオ製作

2006-01-24 10:43:00 | 動物・ロボット・植物
ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん おにげなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ

  -「森のくまさん」(訳詞:馬場祥弘)

 森の中でクマに出会ったら誰でも動揺する。でもこの童謡の「クマさん」はご存じのように親切で落とし物まで届けてくれた。同様の幸運はしかしいつでも期待できるわけではない。そこで、「ヒグマと遭遇した場合の対処方法などを解説したビデオを北海道内1400の全小学校に配布しようと」今最終仕上げの段階というニュース(毎日新聞1月23日)。

◆「クマと逢ったらむやみに逃げるな」

 ビデオは10分ずつの3部構成で、一部はクマの生態、二部が実際にクマと遭遇しない、あるいは遭遇したときの対処方法、三部がクマとの共生の取り組みを紹介するというから、単なるハウツービデオではない。
 「ヒグマは人間の食べ物の不始末に引き付けられて人里に現れるケースが多い。逃げるものを追う習性があり、むやみに逃げるのも危険だ。」などと説明しているという。

 異常気象のせいで食べ物が少なくなっているせいか、北海道だけでなく本州でもクマが人里に降りてくることが多くなった。日本ではクマが最強の野生動物だから人間を守るためにどうするという議論が当然起きてくる。
 「クマと共生できるように環境整備するべきだ」という自然保護派の意見がマスコミでは紹介されるが、「そんな甘っちょろいことを言ってたら人が殺される。猟師を大量に山に送ってクマの数を減らさないとダメだ」という「武力行使」派の人も結構多い。単なる安全策の議論でなく、どうやらその人の「クマ観」と言うか、世界観、イデオロギー問題になってくる。

 アメリカと違って、日本では我々「フツーの人」は丸腰だ。その普通の人がクマにあったらどうすればいいのか。日本で最も熊を知る人の証言がある。
 ズバリ、『クマにあったらどうするか』(木楽舎2002年刊)という本がある。これは「アイヌ民族最後の狩人」である姉崎等氏の話を書き留めたもの。「65年間」狩りをしてきたクマ狩りの巨匠がヒグマを語っている。
 姉崎氏によると一番大事なことはクマと遭遇しないことだ。「クマも、人間を恐れています。クマも人間が通り過ぎるのを、待っているんです」。ああだから鈴をつけたり、ラジオを鳴らしたりするんですね。でもそれでもばったり出会ったら? 「クマの目をじっと見据えてください。自分より強い相手には向かってきませんから」。すぐに背中を向けて逃げるのが間違いなのですね。気合いでクマを圧倒するというのはいいですね。しかしそれでも襲ってくる凶暴なやつはいませんか? 「その場合は、あきらめてください」。

◆「平和共存」か「武力行使」か-「クマ観」の相克

 「ほーれ見ろ!、だから武力行使だというんだ。山に入るときは銃を持てと」。ちょ、ちょっと、横から口を出さないで。それなら銃刀法を改正して「国民皆兵」にしろというの?アメリカみたいな銃社会になってそっちの方がよっぽど危ないでしょ。第一、クマじゃなくてイノシシだけど、ベテラン猟師が手負いの猪に逆襲されて死亡するという事件が22日に起きている(読売)。武装は命の保証にはならないんだ。

 クマを「殺るか殺られるか」の不倶戴天の敵と考えるか、共存できる相手と見るか、自然観の違いで対応は全く異なる。姉崎氏のようなアイヌの人達はクマ狩りを続けてきたわけだが、別に憎い敵と考えているのでなく、「クマはアイヌにとってもっとも偉い神のひとつです。クマ神の国は山奥にあって、そこでは人間と同じ姿をし、人間と同じような生活をしているのです。クマ神が人間の前に姿を現すのは、人間と交易をするためだと考えられていました。」(アイヌ民族博物館より)
 大切な「交易相手」をむやみに殺生することはあり得ない。アイヌの人でも確かにヒグマに襲われて殺される人はあったが、それは「その人間がクマ神から好かれているかどうか」の問題で、すぐに「報復攻撃」という発想とは無縁だった。

◆本当は怖い「森のくまさん」

 日本で歌われている「森のクマさん」の歌詞はなにか不自然だと誰でも思う。最初「お嬢さん」はクマから逃げたのに、最後にはいっしょに歌を歌っている。
 この疑問はアメリカ民謡である原詩"The Bear"を読めば氷解する。つまり共通なのはクマとの遭遇の場面だけで、後は日本人的価値観に合うように中味が全く変えられているのだ。
 原詩では、クマが最初に「お前はなぜ逃げない。銃もないのに」、と話しかけてくる。「それはもっとも」と「私」が逃げると、クマが追ってくる。私は目の前にある木の枝に飛びつこうとするが失敗。今度は別の枝にしがみついて一命を取り留めた、という内容で、クマさんとの和解など微塵もない。そして「私」は恐らく「お嬢さん」と言うより、成人男子だ。

 日本ではこれは最初NHKの「みんなの歌」で紹介されたという。この時に訳詞をされた馬場氏が子どもにも歌える「平和的」な内容に書き換えたということだが、当然アメリカでは子供たちがこのまま歌っているわけだ。最後の部分はいくつかのバージョンがあって、「教訓」で結ばれるのだが、それが、「木の枝のない森には入らないようにしましょう」か、「テニスシューズでクマに話しかけないようにしましょう」か、ちょっとずらした「教訓」もアメリカ的だ。いずれにしてもクマと人間の非和解性を説いているところは同じで、アメリカ人の自然観というか世界観をよく表している。

 なお、Webで調べると、結末部分が以下のような内容のアメリカバージョンが存在すると指摘している_日本人の_ページが複数あった。ただし現在のところ、果たしてこれがアメリカ人の作詞なのか確認できなかった。と言うのも、内容があまりにもアメリカ的で、パロディの可能性が高いと思われる。帰ってから今度は森に戻ってクマに報復する「私」は、アフガン・イラク戦争に出かけたアメリカ人と重なる。さすがにアメリカでも子どもに歌わせるのは憚られるのでないか。

これで話は終わり
もう続きはないよ
私がもう一度あのクマに出会わない限り
それでもう一度ホントに出会ったのさ
今ではクマは私の部屋の敷物さ

this is the end
there ain't no more
unless I meet that bear once more
and so I met that bear once more
now he's a rug on my cabin floor