おもしろニュース拾遺

 BC級ニュースが織り成す可笑しくも愛しい『人間喜劇』。おもしろうてやがて悲しき・・・

「死んだふり」は生存に有利:昆虫で実証

2006-03-12 17:20:13 | 発見
 いわば生物の生存戦略の核心を突く大発見ではないか。「死んだふり(擬死)」をする動物は色々知られているが、果たしてそれが生存に役立っているかどうかはあのファーブル先生でさえ立証できなかった。ついに実証的な研究が登場した。

 「穀類の害虫のコクヌストモドキでは、天敵のクモに対して、死んだふりをすることで生き残る可能性を高めていることを、岡山大学の宮竹貴久助教授(進化生態学)が実験で確かめた。」(読売新聞3月12日)という記事。

 コクヌストモドキ(穀盗人擬き-上の写真)は体長3-4mm程度の甲虫で、名前の通り倉庫で穀物を食い荒らす害虫。
 宮竹助教授はまず、この虫を「死んだふり」をするものとしないものとに分けた。それは「クヌストモドキの遺伝的な選抜を10世代繰り返して」、いわば”純系”を作り出したわけだ。ちょうどメンデルがえんどう豆に対してやったように。

 さて、それぞれの個体に対して「それを天敵のクモと15分間一緒にして、どちらの系統が生き残る可能性が高いか比べた。」
 結果は明白だった。
死んだふり派    13回生き残り(14回中)
動き回り派      5回生き残り(14回中)

 つまり「死んだふり」が出来る個体は、14回のうちクモに食べられたのは、1回きりだった。まあ、「死んだふりをしない系統は、普段から活発に動き回る傾向があり、運動量は死んだふりをする系統の約2倍あった。」というから、クモの注目を引くのは当然ではある。

 もちろんだからと言って他の種でも「擬死」がこれほど有効であるかどうかは分からない。特に人間がクマに出会ったときに「擬死」するのは愚の骨頂であることはすでに書いたが、誤解して命を落とす人がいるといけないので、改めて強調しておきたい。

 人間の社会でももちろん「死んだふり」は有効な生存戦略である。特にこのテクニックを活用する「種」と言うと、権力目政治科に属するセイジカという蚊の一種である。コクヌストならぬゼイヌストという別名を持ち、都合が悪くなると「入院」という独自の逃避行動をとる。東京永田町に生息する個体は特に人間社会に与える害が大きいとされる。
 この種の「死んだふり」は非常に巧みで、一時姿を消してもう死んだと思っているといつの間にか活動を開始しているので駆除は困難である。最近ではスズキムネオ、ツジモトキヨミという個体が「死んだ」と思われていたが、誰も気付かぬうちにカムバックして活発に動いている。もっとも、いくら他の個体から叩かれても決して死なぬしぶとい個体、最近ではナガタヒサヤス、ニシムラシンゴなどのミンシュトウという島が原産地のこれらの個体には、いかなる殺虫剤も通用しないようで政体系には大きな脅威となっている。

 ところでこの宮竹先生の研究紹介のページを拝見すると、興味深いというか我々にとって切実な様々な研究をされていることが分かる。
「昆虫には,雌をめぐって激しい雄間闘争を行ったり,交尾のための集団を作ったりする興味深い現象があります。どのような雄が強いのか? どのような雄が雌にとって魅力的なのか?カメムシや甲虫を使って婚姻戦略の謎ときに挑戦します。」

 早く研究結果を発表してください。でも「実力本位」で勝負する昆虫が羨ましいような気もします。

桜開花予想、官と民で大きな食い違い

2006-03-07 14:16:02 | 発見
 桜前線の予報が出される時期になった。ある一つの植物について、これほど詳しくその開花情報が公表され、それが国民的関心になっている国は他にはほとんど見当たらないのではないか。気象庁にとってはプライドを賭けた一種の長期予報だ。

 マスコミで大きく取り上げられるのはもちろん気象庁の予報だが、実は民間でも桜前線予報は公表している。一番早いのが「ウェザーニューズ」の「桜チャンネル」の予想で、第1回は2月27日に発表されている(下の図)。一方気象庁のさくらの開花予想第1回は3月1日(上図)。もちろんそれぞれ独自のデーターに基づいて予想を立てる。

 そして今年は、異常気象のせいもあるのか、この官民の予想が大きく食い違った。「桜開花予想:気象庁と民間気象会社 予想日1週間もずれる」(毎日新聞3月4日)という記事。確かにずれているのである。末尾にその予想の対比を載せたので、ぜひ実際と比べて、官民どちらの「予想屋」の的中率が高いかご自分でご確認ください。気象庁は平年より早く、ウェザーニューズは遅めの予報を出している。

 周知のように気象庁は、今冬の長期予報をこれ以上にないくらい完璧に正反対に外した。これなら「全然分かりません」と答えておいた方がよっぽど世間的な信用を得られたはずだ。ちょうど前原代表が党首論戦の前日に「中味はお楽しみに」と報道陣に宣言して、結局その日の大恥を宣伝したのと同じ効果だ。
 自信がないなら言わなきゃいいのだが、そこはお役所としてのプライドなのだろうか。しかし今は「民」でも予報が出来る。「民間に出来ることは民間に」でいいのではないか。

 長い間日本では「気象予報」は「官」つまり気象庁の独占だった。ここで言う「予報」とは「観測の成果に基づく現象の予想の発表」(気象業務法)と定義されている。詳しく言うと「時」と「場所」を特定して、今後生じる自然現象の状況を、観測の成果を基に自然科学的方法によって予想し、その結果を世の中へ表向きに知らせることだ。だから例えば占い師のH.K.先生が、「あんた明日外出したら嵐が来て地獄に落ちるわよ」と言うのは、気象業務法上の「予報」には当たらない。また我々が喫茶店で友達に「ウチの猫が顔洗ってたから明日は雨だぜ」と言っても気象業務法上の罪にならない。「観測の成果に基づく現象」による予想ではないし、「世の中」に知らせているわけでないからだ。そして世間に「表向き」でなく知らせる、つまり特定の組織だけに契約して予報を行うことは昔から行われている。

 気象予報の民間解放が広く行われるようになったきっかけは、1992年の気象審議会の答申で、そこでは「これからの気象サービスは気象庁と民間気象事業者が適切に役割分担」が謳われた。もちろん現在でも、誰でも「予報」をやってよいというのでなく、気象の予報を業務として実施する者は、気象庁長官の許可を受けること(気象業務法第17条)とされている。そして2006年2月16日現在では、57個人及び業者及び自治体がその「許可」を得ている。ウェザーニューズはその「業者」の一つとして、「官」と競争しているわけだ。

 許可制にしているのは、当然気象の予報の当たり外れが生死に関わる(例えば台風や豪雨の予想)から絶対いい加減であっては困るということなのだろうが、その割には例えば今冬の予報のハズレで気象庁長官が辞任したとか減給になったという話も聞かない。確かに気象業務法を見ても、外した場合の罰則規定というのはない。

 しかし例えば桜開花予想など、外しても笑ってごまかせると思っている人もいるかもしれないが、このことに生活がかかっている人も結構多いのだ。例えば各地の「桜祭り」。一週間外すとドエライことだ。弁当屋や出店は大損だ。首をくくる人も出てくるかもしれない。あだやおろそかに思ってもらっては困るのだ。

 だいぶ昔の話だが、太平洋を航行していたある船舶が台風を避けようと気象庁の予報に従ったのだが、それがまさしく進路の中心に向かってしまったため、沈没するという事件があった。ところが自衛隊は独自の気象予報でこの台風の進路を正しく予報していた。しかし自衛隊は予報を許可された団体でない、と言うかそもそも軍事の世界では気象情報は「秘」扱いで一般に公表することはない。在日米軍もまた独自に台風の進路予想を一般人の読めるWeb上で公開することがあるが、気象庁よりも精度は高いようだ。軍隊の気象予報は作戦の正否と絡むので、命がけだ。単に職業として予報するのと真剣さが違う。技術よりもその差なのかもしれない。しかしいくら「正確」でも軍隊が気象予報会社を兼ねることは決してない。

 とにかく今回の桜前線予想対決は注目だ。「官」v.s.「民」のガチンコ対決になったからだ。もしウェザーニューズが圧勝したら、気象庁は報復として同社を「お取り潰し」つまり予報業務認可を取り消すこともあるのだろうか。それともそんなことをすると「お天気屋」だという批判を受けるからやらないだろうか。いや、やはり気象庁は「お天気屋」だろう。

---第1回 桜開花予想----------
    気象庁  ウェザーニューズ   平年 

東 京 3月25日 3月30日  3月28日
名古屋 3月26日 4月4日   3月28日
金 沢 4月4日  4月7日   4月6日
大 阪 3月26日 4月5日   3月30日
広 島 3月26日 4月3日   3月29日
高 松 3月27日 4月3日   3月30日
福 岡 3月23日 4月2日   3月26日
鹿児島 3月23日 3月30日  3月26日

酒は飲みすぎても飲まなくても自殺率高い:厚労省

2006-03-02 17:48:18 | 発見
 酒を飲みすぎると体を壊すことは子供でも知っている。しかし飲酒と自殺との相関関係はこれまで調査されたことはなかった。
 厚生労働省の研究班が「男性で多量に酒を飲む人と、まったく酒を飲まない人は、時々酒を飲む人より自殺するリスクが高い」ことを突き止めた。
 「研究班は岩手から沖縄まで8県の40―69歳の男性約4万人を対象に、7―10年追跡調査した。自殺した168人を調べたところ、習慣的に大量に飲酒するグループ(日本酒換算で1日あたり3合以上)は、時々飲むグループ(月に1日から3日)に比べて自殺リスクが2.3倍だった。逆にまったく飲まない人のグループも、時々飲むグループに比べて自殺リスクは2.3倍だった。」(日経3月2日

 確かに大酒を食らう人はその時点でかなりヤケになっている場合が多いから自殺率が高いのは想像がつく。しかしこれほど高い自殺率が確認されたのは初めてという。
 「なぜまったく飲まないグループのリスクが高まるかは今後、調査する」としているが、飲まない人は当然ストレスを貯めこむので、これまた自殺率が高くなるのは当然ではないか。

 この研究結果は厚労省のWebには掲載されていない。代わりに厚労省はWebで<「節度ある適度な飲酒」としては、1日平均純アルコールで約20g程度である旨の知識を普及する。>として、主な酒類の換算の目安を掲げている。それによると「純アルコールで約20g」になるのは、ビールは中瓶1本(500ml)、清酒は1合弱、焼酎35度で72ml程度という。今回の調査では「大量に飲酒」とされた人達はアルコール換算で60g以上を摂取しているということになる。この厚労省のページによると「大量に飲酒」の割合は日本の成人男性4.1%、女性は0.3%という。

 もちろん「節度ある適度な飲酒」は自殺防止の決め手ではない。日本はもともと自殺率の高い国の部類に入る。WHOの資料を見ると、日本は、旧ソ連圏や東欧を除くと最も自殺率が高い(男子)。

 しかもこのグラフ(厚労省の資料から作成)を見れば解るように、近年自殺率は高止まりの傾向にあり、だいたい人口10万人あたり25人の自殺者がいる。日本人全体では3万人以上の水準を維持している。
 グラフからは98年から急に自殺率が上がり、現在に至るまで高止まりしていることが分かる。きっかけは消費税引き上げによる橋龍不況だろう。そして小泉「構造改革」で格差が広がり、絶望した人たちが後を絶たないらしいことが分かる。
 本日発行の「小泉内閣メールマガジン 第224号」で首相は「● 格差社会?」と題する一文にこう書いている。

< 最近、「改革には光と影がある。構造改革を進めた結果、社会の格差がひ
ろがった。」という声をよく耳にします。
 どの国にも、どの時代にも、ある程度格差はあると思います。・・・
 基本的には、企業も国も地域も個人も、自らを奮いたたせて、自分のこと
は自分でやるんだという「自らを助ける精神」と、他人に迷惑をかけないよ
う「自らを律する精神」、この「自助と自律」の精神をもって行動すること
が、どのような時代にあっても大切なことではないでしょうか。
・・・
 挫折した人も、一度や二度の失敗にくじけず、「失敗は成功のもと」と考
え、また挑戦できるような社会にしていくための改革が必要だと思います。>

 しかし実際には日本は「失敗」の許されない社会であり、一度落ちこぼれると取り返しがつかないと思われている。と言うか、失敗は「ご利用は計画的に」地獄への入り口になっている。失敗した人間に群がってさらに血を吸う人間たちは「勝ち組」と呼ばれる。

 また「自助と自律」と言うが、日本の現在の政治家の多くが二世三世議員であり、「親の助けと他律」によって特権を享受する「身分社会」化が急速に進んでいる。

 また防衛施設庁の汚職に見られるように、一度中央官僚のキャリア組のエスカレーターに乗ってしまうと、退職後の天下りによるおいしい生活まで約束される。つまり20代の初めに受けた公務員試験の「成功」だけで人生が保証されてしまうという不合理が生きている。

 いわゆる小泉改革はその「不合理」を糾そうとするものと誤解されていたが、今になって実はそれを温存するものだということが分かった。
 そして野党(と呼ばれるのがイヤだそうだが)の民主党は、その小泉改革の「影」に切り込むと今国会で宣言したのだが、ご存じのような事情で「ポツダム宣言」を受諾して全面降伏。ついに自民党の”間接統治”下に入ることになった。ちょうどマッカーサーが日本支配のために天皇制を温存して活用したように、自民党は前原制を温存して民主党を遠隔操作するつもりだ。<一度や二度の失敗にくじけず、「失敗は成功のもと」と考え、また挑戦>せよと小泉は国会答弁で今日民主党にエールを送った。もう民主党は「我が弟、我が息子です」と思っているのだ。

 今後の日本の政治を想像しただけで、絶望して首をくくりたくなるが、命は大切にせねばならん。ヤケ酒で気を紛らわそうか。ところがこれで自殺率が上がるというからますます絶望は深まるばかりだ。

初の民間公募の地図記号決まる

2006-01-30 10:25:08 | 発見
 国土地理院の新しい地図記号が初めて公募で決まった(1月25日公表)。
 追加されたのは上の二種類。風車と老人ホームだ。驚いたのは入選者が小中学生だということだが、そもそも昨年の10月に公募したときに応募者を小中学生と限定したのだ。
 風車の方は、中学1年生、老人ホームの方は小学6年生の図案だ。「老人」を表すために杖を使ったのはなるほどと思ったが、優秀賞のデザインを見ても多くが杖を使っている。ごく自然な発想なのだろう。

 この地図記号の公募については国土地理院のページのここに詳しい経過が紹介されている。

 公募は今回は初めてということは、これまでは「お上」が勝手に決めていたということだ。また国土地理院の地図記号は日本独自のもので国際性はない。そのため時にそのシンボルが誤解を受けて思わぬ波紋を呼ぶことがある。

 昔日本にやってきたドイツ人が、国土地理院発行の二万五千分の一の地図を見て愕然とした。「日本にはなんとナチスの事務所が多いのだ。とんでもない田舎にも必ず一つはある」。もちろんお寺のマーク「卍」ですよね。
 日本の漢字(と言うより記号)の卍はインド起源。サンスクリットではスヴァスティカといい、ビシュヌ神(ヒンドゥー教の最高神)の胸毛をデザインしたものらしい。陽光の象徴、仏教では仏心を表す。
 一方のナチスの鈎十字(ハーケンクロイツ)は、卍と鏡像の関係つまり”回転方向”が逆だ。つまり別物だが、油断していると同一記号だと思ってしまう。ドイツだけでなく欧州の多くの国でこの記号の使用は禁止されている。第二次大戦の直後、いくつかのアメリカインディアンの種族は、美術品に卍を使用しないとする法令に署名させられたほどで、政治と無関係でも”弾圧”されるほどである。
 昔ポケモンカードの背景に卍が描かれており、著作権者の任天堂がこの英語版を作る際には卍を削除した。明らかに別の記号であり、卍の方が先輩なのだが、文化や感情の問題なのでトラブルを避けたかったのだろう。

 現在国土地理院が使用している地図記号の一覧は、こちらにあるが、今回風車と老人ホーム記号が初めて付け加えられたことでも分かるように、まだまだ必要な記号が完備していないという気がする。

 今緊急に追加する必要のある記号は何か?言うまでもない。耐震強度偽装の大型建築物である。姉歯物件以外にもたくさんありそうだ。政治家の介入がなければドンドンこれから登場してくるはず。地震の時に近くにいると危ないという意味で、地図には明記が必要だ。僭越ながらそのデザインを提案させていただいた。三か月前の日本人では某一級建築士を除いて誰一人としてこの記号の意味するところを理解できなかっただろう。しかし今は、説明は不要。崩れ行く日本の信頼性をも象徴している。

「鄭和が米大陸発見」証明する?地図公開

2006-01-18 15:11:40 | 発見
 考古学的「発見」についての有名な小話二題。
【第1話】「紀元前」のメダル
 古代ギリシャの都市遺跡を発掘していたチームが銅製のメダルを発見した。これは何と古代オリンピックが開催されたことを記念して発行されたものであることが確実という。その理由はこのメダルに「紀元前776年」とはっきり刻印されていたからである。「間違いありません」。発掘チームは記者会見で胸を張った。ある記者がそこで言った。「間違いありません。そのメダルは偽造です」。

【第2話】古代の無線通信技術
 古代メソポタミア学者が中国の学者に自慢している。「メソポタミアの遺跡を発掘していると銅線が出てきます。これはすでに当時から彼らが有線通信の技術を持っていた証拠なのです。」 悔しい中国人学者が言い返した。「それ以上の技術を中国では殷の時代から持っていました。つまり無線通信ですな。それが証拠には遺跡を掘っても銅線など出てきませんから!」


 中国・明代の大航海家、鄭和が最初に米大陸を発見し、世界一周にも成功したとの説を裏付ける15世紀の地図の写しが見つかった、と北京の地図収集家が主張、この写しを公開したというニュース(時事通信1月18日)が流れた。
 歴史教科書的には鄭和は明の永楽帝の命を受け、1405-1433年の間に艦隊を率いて南海を探検しアフリカにまで足を伸ばしたとされているが、実はこの時喜望峰を超えて大西洋に入りアメリカ大陸を「発見」したという説が以前からある。最近ギャヴィン・メンジーズという人がこのテーマで「1421-中国が新大陸を発見した年」という本を出版(日本語訳は2003年12月刊)している。これによると日本人(世界中だが)の「1492 いよー国が見えた」という分かりやすい語呂合わせは事実に合わないということになる。「1421 いっしょに行ってアメリカ”発見”-鄭和の大艦隊」とでも語呂を変えないといけない。

 メンジーズは鄭和が地球を一周して明に戻ってきて世界地図を作ったというのだが、それらは後世破棄されたり焼かれたりして残っていないという。今回発見された世界地図はその鄭和の地図を写したもので、1763年のものだが、1418年の地図の複写であると明記されているのだという。
 それが冒頭の地図だ。ムハハハハ・・こ、これは違う。「1418年の地図の複写」というが、「作成された」1763年時点の知識(あるいはもっと後)で描かれていることは明らかだ。
ご参考までにコロンブス後だが、1507年にフランスで作られた世界地図を掲げた。当時の知識ではこのレベルでしょう。上の「鄭和の地図」では南北アメリカがかなり正しいプロポーションで描かれているだけでなく、オーストラリアまで”サービス”されている。これは"行き過ぎ"だ。

 この地図は北京の弁護士、劉剛さんが上海の収集家から「500ドル」で買ったものという。最初は気付かなかったが、メンジーズの本を読んでその重大性に気づいて公表したという。<劉さんは「多くの記録がまだ存在すると思う。中国の学者はそれに注意を払っていない。彼らを目覚めさせるのが私の目的だ」と話している。>というから、その動機は愛国的なもので、決して自分の地図をオークションで高く売ろうという下心があるのではなかろう。しかし劉さんには気の毒だが、これでは素人さえ100ドル以上の値をつけないだろう。

 歴史的資料の捏造というのは、金銭を超えて不思議な魅力があるらしい。日本でもいわゆる「古代文字」がどれだけ「発見」されたか分からない。文字の数だけデザインを考えないといけないのだから、捏造するだけで汗をかくがその苦労を厭わない人達が大勢いる。「源義経はジンギス汗」説のルーツとなった江戸時代の偽書『金史別本』も、今では近江の沢田源内の捏造と分かっているが、なぜ一文にもならぬ苦労をしたのかと考えると、今後も資料の捏造は止みそうになり。

 歴史資料の捏造といえば、日本でも最近では「”原人”の石器発掘」の騒ぎがあった。これは石器を埋めた当人よりもこれを大発見と持ち上げた学者たちが問題だ。幸い?今回の劉さんの地図を「中国人の偉大さ」の証明と騒ぐ”愛国的”学者はいないだろう。

 しかし気をつけなくてはならない。【第1話】のように捏造を直接的に証明できる場合はいいのだが、【第2話】のように「非存在」によって「存在」を証明するという高度なテクニックを駆使された場合、反証は難しい。この小話の作者は相当頭のいい人物だ。とりわけこの「中国人学者」のように”愛国心”が絡むと妙に説得力を持ってくるからだ。

【付記】
 たとえこの「劉さんの地図」が本物としても、鄭和が最初にアメリカ大陸を「発見」したことにはならない。とっくの昔に北回りでモンゴロイドが大陸に入って住み着いていたのだから。最近の教科書はだから、「コロンブス米大陸に”到達”」と書いてあるのが普通だ(オーストラリアも同じ)。逆に「発見」とある検定済み教科書をご存じの方は教えてください。


「土佐宇宙酒」まもなく出荷へ

2006-01-16 11:14:08 | 発見
 だいぶ昔のことだが、高知県のある大学の学長が酒宴の最中トイレに立って階段から足を滑らせてお亡くなりになるという気の毒な事件があった。しかしこの事件を伝えたある週刊誌が、地元ではこの学長に対する同情よりも非難の声が出ていると伝えていた。「1升程度の酒で足元がふらつくとは情けない」というのである。
 昔から土佐では「酒をしょうしょう飲む」とは、「升升」ということで2升程度を意味する。高知と秋田は昔から酒豪の多いところとして有名だ(単純に一人当たりの酒量では「酒好き」かどうか分からない。この議論は煩瑣になるので記事末を参照)。

 その酒好き高知で世界初の「宇宙酒」の醸造が始まっている。<「土佐宇宙酒」の初搾り>asahi.com高知1月11日。実は日本酒なのだが、この酵母がロシアの宇宙船ソユーズに乗せられて宇宙を旅したことから「土佐宇宙酒」と命名されているのだ。
 この酵母は冒頭に掲げた写真のようにカプセルに入れられて、昨年の10月1日カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、同11日に地球に帰還した。乾燥させた粉末状のドライ酵母8種類、寒天を培地にしたウエット酵母4種類が2グラムずつ10日間の「宇宙旅行」を体験して、現在もう初搾りの段階にまで進んでいる。

 関係者は「地球を回っている時の地磁気の影響で、酵母に変化があったかもしれない。」と語っている(朝日新聞1月5日)が、影響があるとすれば、「磁気」よりも重力だろう。そして細胞分裂の盛んなウエットタイプの酵母が突然変異の可能性が高い。しかし10日間は短い。もう少し長く滞在していればもっと「変異」の可能性が高かっただろう。
 とは言え、それは費用と効果のバランスの問題。いくら酵母が軽いとは言え、宇宙船への「乗車賃」が必要だった。今回の費用は総額1200万円。700万円を酒造組合と県の補助金でまかない、残りは賛同する企業などが負担したという。

 この「宇宙酒」は一般にも販売され、Webなどで予約(4月1日から販売)を受け付けているが、気になるお値段は、720mlビンで一本3150円とされている。
 その「効能」については誰にも分からない。酔っ払って突然「宇宙人語」をしゃべる人があるかもしれないし、「たま出版」に入社したくなる人が出るかもしれないし、何の変化もないかもしれない。

 「宇宙酒」は酒文化の成果の一つと言えるが、一方飲酒のもたらす弊害、特に公務員の飲酒運転の頻発に苦慮した高知県は1997年に下戸の橋本知事が、飲酒運転の県職員は即刻懲戒免職との通達を出し、これが「厳しすぎる」といまだに議論が続いている。しかしこれも驚きだ。つまり飲酒運転「程度」では懲戒免職にしないというのが「普通」のお役所ということだから。

 最近少し厳しくなったが、日本の法律が飲酒運転に「寛大」なのは”国策”のせいである。飲酒を制約して酒税が減少するのがイヤな大蔵省と、モータリゼーションにブレーキがかかってしまうのを恐れる通産省がバックにいた。罰則強化の「抵抗勢力」だったと言えよう。
 このように我々が「日本の文化」と思っているものの多くは、実はお役所の「指導」によるものが多い。例えば、お花見と言えば今ではソメイヨシノだが、これは戦前に「パッと咲いてパッと散る」この品種が、「お国のために命を捨てる」教育に効果的と思った国が植樹を奨励したからだ。ちなみにソメイヨシノは江戸時代に作られて以降接ぎ木で増えていったから、日本中にあるこの桜はすべて「クローン」である。恐るべき「画一化」だ。だから例えば西行が今の日本の「花見」を見たとしたら、「これは”日本文化”でない」と抗議することだろう。

 宇宙空間での滞在がもう少し長くなれば、突然変異で酔い覚めのスゴく早い日本酒を産み出す酵母が誕生するかもしれない。費用が問題だが、アルコール中毒の増加に悩むロシアにうまく働きかけて共同研究という形を取ればかなり節約できるはずだ、

【付録】 「飲んべえ」都道府県はどこ?

 国税庁の統計によって、一人当たりの消費酒量を知ることはできる。これによると東京、大阪、高知の順だ。しかしなぜ東京、大阪が多いのか?これは要するに飲食店の数が多いからだ。例えば埼玉から都心に通っているサラーリーマンが飲酒するのは東京都に換算される。だから本当の自家消費量を知ることが出来ない。
 東京、大阪の特殊事情を考えれば、やはり高知県が一番の「飲んべえ」県と推定される。

 またアルコール度数の問題がある。強い酒と日本酒は単純に量を比較してもダメだ。これについては「エチルアルコール換算の都道府県別1人当たりのアルコール消費量」を計算した結果がある。これについても、上記の「補正」をしなければ東京人が一番の飲んべえという誤った結果に導かれてしまう。
 このページでは、酒に弱い人強い人と遺伝子の相関についての議論がされている。詳しくは上記ページを参照されたいが、結論的に言うと、「縄文人は酒に強く、弥生人(渡来人)は弱い」ということだ。日本人の起源について一つの示唆を与えている。


日本語テストで意外な結果

2006-01-15 12:12:23 | 発見
 やけ焦げたパンを売りに出そうというパン職人がいるだろうか?ヒビの入った焼物を出展しようとする陶工がどこの世界にいるだろう。
 しかしこれら「不良品」、出来損ないで公然と商売している人達がいるのである。
 今では各局の「特番」の定番となった「NG特集」だが、もう少しも新鮮味を感じないくらい当たり前になった。番組制作者や出演者の「失敗」を売りに出すのだから、耐震偽装マンションや黒こげパンを販売する以上の”勇気”が最初は必要だったはずだ。しかし、視聴者から苦情が寄せられるどころか、「正常な商品」、つまり普通の番組よりも視聴率が高いというから、我々が普段見せられている「正常な」番組の水準について思いを馳せざるを得ない。

 このような”偶然”の恥を売りに出すだけでは最早マンネリと鋭敏に感じ取ったテレビ局は、もっと積極的に自らの「恥」を前面に押し出そうとしている。
 自局の女子アナを一堂に集めてクイズ大会を開き、彼女たちの無知・無学を大笑いし、いじり倒して視聴率を稼ごうとする番組まで登場しているのだ。
 まあ最近は「女子アナ」というのは、スポーツエリートと結婚するための花嫁学校であるから、知的云々は期待する方がお門違いであるとは言え、自局の社員の知的水準の低さを”ウリ”にするとは驚くべき神経である。彼女たちの”珍答”の数々が”演技”と言うか台本に従ったものであってくれと願うばかりである。

 さて、そのような「お笑い」番組でよくネタとして使われるのが「日本誤」である。
(お粗末な番組は”前ふり”がやたら長い。この記事でもそれをシュミレートした)
 「今どきの」若者の出鱈目な日本語の使い方を笑い物にして、しばしの優越感を視聴者に与えるというのが、テレビの定番だが、こちらは真面目な調査。
 「ジャストシステム、日本語テストを実施」というPC WEBの12日記事。「ジャストシステム」は日本語入力IMEのATOKを製造しているので日本語の研究所を持っている。
 そこが「首都圏に住む10~50代の男女1,037人(男性49.9%、女性50.1%)」対象に、「漢字力、表記力、文法、敬語、手紙の常識、語彙力を問う多肢式30問」を出題して、その結果を公表した。ホントは問題そのものも紹介したいのだが、実はこのテスト現在Webで実施されているので、ここで書くとネタバレになる。興味ある方は自らテストをお受けになられたい。

 結果はやや意外なものだった。と言うのも年代別の平均点が以下のようになったからだ。
1位 50代(60.9点)
2位 20代(60.2点)
3位 30代(59.7点)
4位 40代(58.8点)
5位 10代(58.7点)
 つまり「近頃の若い者は日本語も知らん」と攻撃の対象となっている20代が2位に食い込んでいる。最も「指導的立場」にある40代は、10代の”ひよっこ”と点数が変わらなかった。こうなってくると最近日本の「オピニオンリーダー」達がテレビでふんぞり返ってお説教している「若者の学力低下」もそのまま受け取れない。つまり若者たちの学力が十分というより、「大人」達の「学力」が心配になってくるのだ。

 そうなのである。最近バラエティークイズ番組に国会議員の先生が出席されることが増えている。選挙のために名前を売ることは必要であるから出演自体は悪いことではないが、視聴者と言うか有権者としては、自分たちの「選良」の知的水準にドキリとさせられることがある。この人たちに日本を任せて大丈夫なのか?

 そのような不安を解消するために、然るべき機関が日本憲政史上初めての「国会議員学力調査」を実施して欲しいと思うのだ。今は資産公開ということで、議員先生のだいたいの懐具合を知ることは許されている。もっと重要な”オツム具合”を有権者は知る権利があると思うのだ。結果は当然偏差値付きで公開される。各先生の「苦手科目・得意科目」を知ることで、どの委員会に所属するのが適当かということも分かる。

 先生方は当然”アタマ”に自信があるから赤絨毯を踏んでおられる。恥ずかしいからイヤという先生はないはずだが、「問題を見せろ」と試験実施機関に圧力をかける先生が必ず出てくる。これを排除する議員立法の成立が急務であろう。

「捨て子ボックス」を教会に設置:イタリア

2006-01-10 22:01:37 | 発見
 「あんたは橋の下で泣いてるのを拾ってきたんや」と親から”衝撃の告白”をされたことのない子供の方が稀ではないだろうか。一度アンケートを取って欲しい。捨てられる場所は必ず「橋の下」なのである。もちろん雨風を避けるという「母親」の最後の配慮なのだが、不思議なことに「橋の下」の捨て子のニュースを読んだことはない。
 知人は幼い頃叱られてこの「告白」を聞いたときに衝撃を受けたというより「謎はとけた」と思ったという。自分は両親や兄弟に似ず「美しい」、それがずっと納得できなかったというのだ。まあこういうおめでたい人ばかりなら捨てる「親」の方も気が楽だけど。

 ノーベル賞作家川端康成の『古都』、最近では山口百恵主演で映画化されている(かなり原作から変えられている)ので、ストーリーご存じの方は多いはず。貧しい北山杉の職人のもとに双子の姉妹が生まれた。生活苦から一人の子を捨てるが、その子は京都の老舗の呉服問屋に拾われてお嬢様として何不自由ない生活を送る。もう一人はまもなく父も母も死に、貧しく淋しく北山で暮らす。その二人が祇園祭で運命的な再会をする・・・・
 別の知人ですが、たぶんその人の知的関心から判断して『古都』でなく少女マンガを読んだ影響かと思うのですが、欲しいものが買ってもらえなかったので、「なんで私を大金持ちの家の前に捨ててくれへんだんや」と泣いて抗議したそうです。ホリエモンや村上セショーの家の前は捨て子で溢れるのでしょうね。

 前置きばかりで本題になかなか入れないのは気が重いテーマだから。まず冒頭の写真だが、これはいったい何を収納する空間とお思いでしょう。夜間金庫のような感じ。
 これは何と<捨てられた赤ん坊を救う特製の「捨て子窓口」>なのです。WIRED NEWS(英語版は2006年1月3日、こちらにその日本語訳)の記事。
 この「捨て子窓口」はイタリアのパドバにこのほど設置された。正式名称は『命のゆりかご』。「イタリアの『全国養家・里親協会』(Anfaa)の試算によると、イタリアでは毎年400人の新生児が捨てられていて、その数は毎年10%増加しているという。」
 この「ゆりかご」は単なるボックスではない。
 「通りに面した金属製のフタを誰かが開けると、上の事務所で警報が鳴り、24時間体制で待機しているソーシャルワーカーに知らせる。母親が赤ん坊を中に入れると、2分経った後に重量感知式のセンサーが働いて、さらに大きな音で警報が鳴る、という仕組みだ。
 赤ん坊が入れられると、箱の保温システムが作動すると同時に、最寄りの救急サービスに通報される。」

 さすがに夜間金庫のようにどこでも設置されているわけではない。実際この「ゆりかご」の設置を受け入れてくれる施設はなかった。そこで「伝統」が思い出された。「1400年代から1888年まで、女性たちは、パドバのオニサンティ教会の正面にある台に赤ん坊を置き去りにしていた。」だから昔のように教会にこの「捨て子窓口」が設置された。

 イタリアでこれほど捨て子救済のシステムが完備しているのはそもそも捨て子が多いからでしょう。(日本の捨て子統計は存在するのでしょうか。ご存じの方はご教示ください。)これは恐らく中絶を禁じるカトリックの教えの結果だと思う。イタリアでもそう考える人が多いと思うが、カトリックでは中絶を殺人と考える。「望まれない子」でも産むしかないとなると、赤ん坊の命を救済するためにこのような「捨て子バンク」が必要になる。

 イタリアではこの『命のゆりかご』が全国に普及するのだろうか。その時には親たちは「お前はこの箱に入れられてたのをもらってきたんや」と子供たちに”衝撃の告白”をするのだろうか。なるほどこの「保温装置」、「通報装置」付きのボックスは至れり尽くせりだが、「橋の下」のような”ドラマ”がない。「橋の下」には捨てたあとまた戻ってくる母親の姿が見えるが、この”夜間金庫”だと「赤ちゃん確かに領収しました。2006.1.10」という”レシート”をチラリと見て財布の中に納める「事務員」の姿しか浮かんで来ないのだ。コンセプトはいいのだがデザインには改善の余地あり。と言うか、いかにして捨て子0の社会を作るかということなのだが。


「モーツアルト」頭蓋骨、鑑定は「証明できず」

2006-01-09 11:05:52 | 発見
 「モーツァルトの頭蓋骨論争ついに決着!今夜ドキュメンタリーですべてを公開!生誕250周年に遂に謎を解明」とオーストリア国営放送(ORF)が鳴り物入りで予告していたDNA鑑定の結果だが---結果はネガティブ。つまり問題の頭蓋骨(上写真)はモーツアルトのものであると証明できなかった。--と言うか、ほぼ偽物であると言っていい。視聴率を稼ぐためとは言え、国営放送がこんな”前宣伝”をやるなんてひどい話だ。
(今のところ日本の報道機関は伝えていない。なぜ?海外では大きく、例えばイギリス「ガーディアン」紙など無数)【追記】共同通信がようやくAPの転載で。

 「モーツアルトの頭蓋骨」は、彼の姪と祖母であるのが確実である遺骨のDNAと照合されたが、親族関係を示す結果は得られなかったと、米陸軍のDNA鑑定所(兵士の遺骨を調べる必要がある)などが調査の結果を公表した。「モーツアルトの頭蓋骨」は凱歌を奏でることはなかった。ヨーゼフ・ロートマイヤーという墓堀人が1801年に共同墓地から、これはモーツアルトの遺骸であると思って掘り出した頭蓋骨は別人であった。「オレは違う、オレは作曲どころか生前は楽譜も読めなかったんだ」と200年間訴えようとしたが、顎がなく喋れなかったこの気の毒な人物には「お騒がせしました。これからは静かに眠ってください。生前のいや死後の数々の失礼お許しください」と謝るしかない。この骨を「モーツァルト」と言ってきた人たちは「謎は深まった」なんて曖昧な言い方をしているが、正直に「謎は解けた。すべては捏造だった」と認めた方がいい。

 ミステリアスな生涯を送った大芸術家としては日本ではいつも「東洲斎写楽」は誰か?というのが論争と好奇心の種だが、モーツアルトはその死因が常に論争の種になってきた。1984年のアメリカ映画『アマデウス』は、モーツアルトの”ライバル”宮庭音楽家アントニオ・サリエリの「殺害」説でストーリーを組み立ててアカデミー賞(監督賞など8賞)を受賞した。モーツアルトのあまりの才能に宮廷で「恥をかかされた」と思ったサリエリが、「土曜ワイド劇場」のような手の込んだ手段(変装してモーツアルトに依頼をするとか)で間接的にモーツアルトを「病死」させるという完全犯罪だ。サリエリが晩年に癲狂院で行った告白(これは歴史的事実のようだ)に基づいている。しかしサリエリと同じくここにおられた患者の方は、例えば「ひょっとしてあなたはモーツアルトではありませんか?」と問いかけると、「Nein(ノー)!」と狡賢い笑いを浮かべ否定するが、ウソ発見器の針は激しく振れるという人達だから、彼の「告白」の真偽も神のみぞ知るである。

 殺害された天才芸術家と言えば、日本では江戸時代の天才画家長澤蘆雪{長沢芦雪}(1754-1799)がいる。彼は円山応挙の一番弟子(しかし破門された)で奇行でも知られた天才だったが、大阪で芝居見物中に食べた弁当があたって亡くなった。死ぬ間際に「毒を盛られた」と叫んだという伝説から殺害説が生まれ、蘆雪と喧嘩別れした応挙までが「容疑者」として「捜査線上に浮上」する(後世のでっち上げだが)という、この巨匠には迷惑至極な展開もあった。
 司馬遼太郎氏と言えば、いわゆる「司馬史観」で「日本人として自信を持った」と世間では評判がいいようなのですが、「えー!これは単純すぎるのでは」とこちらはオロオロするだけ。でも彼の『蘆雪を殺す』は蘆雪「殺害」事件をうまく料理した好短編としてアンチ司馬の小生もお勧めします。

 モーツアルトに話を戻して、この頭蓋骨に傷があることからこれが彼の死の原因では(晩年頭痛に悩まされた事実がある)という説もあったが、それも振り出しだ。『アマデウス』ではモーツアルトは音楽の才能をのぞけばただの頭の悪いスケベとして描かれているが、確かにそれ以外では人格的にあるいは知的に秀でたところはなかったようだ。
 ただ人類に音楽だけを与えて、貧しい共同墓地に姿を消した「モーツアルト」。「たま出版」あたりが「モーツアルトは宇宙人だった」(だから遺体は「宇宙人」が回収してしまった)という本を生誕250周年を記念して出すのでないかと期待しているのですが・・・

【付記】

 それにしても惜しいことだ。もしこの頭蓋骨がモーツァルトのものであることが確定すれば、我々はあの天才のDNAを手にしていたわけで、そうなると・・・・・
「そうです皆さん、我々は人類の宝を手にいれたのです」。
 あっ!そうおっしゃるあなたは韓国の・・・
「左様、ソウル大学教授 黄禹錫(ファン・ウソク)です。今初めて発表するのですが、われわれはすでにそのモーツァルトのDNAを入手して、世界で初めて万能ES細胞からモーツァルトの脳を作ることに成功したのです。これが蘇ったあの天才の脳味噌です!」
 し・・しかし先生、それはどう見てもただのコチュジャンじゃないかと・・
「だまらっしゃい!このコチュジャンじゃない、脳味噌を食べることで、あなたの脳細胞の一部がモーツァルトのそれに置き変わって、あなたは天才作曲家になれるのです!」
 先生どうもそれはウソクさいような気がするのですが。
「あなたは私がこの味噌を醸造、いや捏造したとでも言うのですか?私のファンはすでにこの脳味噌を食べて天才作曲家になっています。彼らが作った音楽を聞きなさい」
 せ、先生、それはモーツァルトのCDだと思いますが・・・・
「彼のDNAが複製された脳が作曲するのですから同じ曲が出てくること自体、これがモーツァルトの脳味噌である証明なのです!」



仙台赤ちゃん誘拐事件「脅迫文」を読む

2006-01-09 00:42:32 | 発見
 極めて特異な事件だった。最初は赤ちゃんの欲しい夫婦の犯罪かと思ったが、男の異様な行動の報道で異常性格者の犯罪という印象を得た。そうなると赤ちゃんの命が危ない。しかし身代金目当ての犯行だった。報道協定で肝心なことを知らされていないために全く勘違いさせられた。
 そのことを知ったのは、赤ちゃんが保護されたというニュース速報(1月8日7:00AM)を見てホッとした後だった。この犯罪の卑劣さはここではあえて論じない。他の人たちがそれぞれの場所で行っているだろうから。

「文学」としての「脅迫文」

 この事件の特異性は犯人からの脅迫文にある。その全文が公表された。もちろん原文ではなく、警察が打ち直したものなので、伏せられている部分がある可能性が否定できない。しかしそれでもこの「全文」から見えてくることは多い。完成度は低いながらこれはある種の「文学」なのである。もちろん犯人たちを褒めるという意味でもなく、文章の技巧が見られるという意味でもない。脅迫文にあっては「ならない」ことだが、犯人の心の動きや屈折が絶妙に表現されているという点においてだ。
 毎日新聞がWebでいち早くこの漢字カタカナ(たぶん筆跡を隠したかったのだろう)の脅迫文の全文を掲載したが、まもなく削除した(表から見えないところに移動しただけで残されていました)。犯人への同情と取られてはまずいと思ったのか。ここでは河北新報に掲載(全文、しかしいつまでも掲載されているかは保証できない)されたものを原文の通りカタカナに戻して引用する。

赤ちゃんの容体を詳しく描写

 脅迫文は赤ちゃんの容体から始まる。
「赤チャン シュー君ハ トテモ元気ダ 心配シナイデイイ
ミルクモタップリ飲ムシ ウンチモ異常ナイ」
 誘拐犯が人質の無事を告げるのは常套手段だが、この犯人の場合不必要なまでに詳しく赤ちゃんの様子を伝えている。この脅迫文を見て警察も犯人が性格異常者でなく赤ちゃんも大切に扱われているという感触を得たはずだ。
「私ノ元デハナクテモホントニ大事ニ世話ヲサセテモラッテマス
室温ハ24℃ ミルクモ温度ヲハカリホトンド100ccヲ一度ニ飲ミマス
日中ハケッコウ起キテマスガ夜ニナルトグッスリ寝マス。」
とまるで我が子について語っているようだ。そして脅迫文とは思えないこんな文が続く。
「ホトンド泣カズ本当ニイイ赤チャンダト思イマス。」

 面白いのは脅迫文として「必要」な文章は「目ヲ通シテイルハズダ」、「復習シテオコウ」、「取引キハ中止ニスル」などと”常体”だが、赤ちゃんのことや心情を吐露するところでは「オ母サントオ父サンヘ 心カラ申シ訳ナイト思ッテマス」と”敬体”になることだ。犯人の心の揺れを文章心理学者でなくとも感じ取れるという意味で、これは立派な「文学」なのだ。

犯罪者の心理を理解しない「法律家」

 ところで8日のある報道番組で、元検事で「犯罪コメンテーター」の方がこの脅迫文を「分析」していた。そこで、「この犯人のやったことはまず未成年者略取罪で、法定刑が3ヶ月以上7年以下の懲役なんですが、この脅迫文を書いたことで身代金目的略取になり懲役3年以上で無期懲役になります。そのくせ赤ちゃんを大事にしてますと言って罪を軽く見せようという行動は矛盾している」と指摘してたが、なんとまあ法律家というのは犯罪者の心理を理解できない人種かと感心。
 犯罪者で六法全書と相談しながら犯行を行う者は稀だ。彼にとっての最大関心事は捕まるか否かということなのだ。そして罪の意識も六法に従うのでなく、自らの「倫理規範」によって変わってくるのだ。例えば、彼が殺生をするのが嫌いな性格の場合、偽札作りの方が傷害よりも罪は重いが、彼にとっては全く逆になる。
 だから法律家が罪を重くすることによって犯罪を抑止できると考えるのは単純に過ぎる。犯罪の抑止とは、人にいかにして罪の意識を感じさせるかということなのだが、法定刑の上下だけでそれができると検事が考えている限り犯罪は減らないというより、犯罪者を更生させることはできない。

最大の謎は院長との関係

 容疑者が確保されているのだから、事件の真実はまもなく明らかになるだろう。この事件の大きな謎は、犯人と病院の院長との関係だ。院長は予想通り、「身に覚えがない」。
 しかし脅迫状は、「院長ニハ些細ナコトデモ 私ニハ大キナ貸シガアリマス」、と過去に何かあったことを匂わせている。もっと決定的なのは6150万円という身代金の中途半端さだ。この院長の誕生日は6月15日という。偶然とは思えない。松本清張の「Dの複合」という作品では、元船長に復讐を企てる男はある緯度と経度の地点だけを選んで殺人を続ける。船乗りは緯度と経度に敏感であることを活用して、「ターゲット」にだけ分かるメッセージを送って心理的に追い詰めていく。その話を思い出した。
 また「一通目ハ目ヲ通シテイルハズダ」、「院長 志村サンハ 今日 例ノバッグヲ持ッテ」などとすでに何らかの「連絡」を行っていることを示唆している。初めてなら「例ノバッグ」とは書かない。

 身代金の受け渡しの指示も「各駅ゴトニ1両ズツ前ニ乗リ換エル 1番前マデ行ッタラ
今度ハ後ニ移ルコト イツモ携帯ニ注意スルコト」などとやたらに綿密で、「何ニシロ 警察ノ臭イガスレバ スベテ中止」、そして逆探知を警戒するなど細かく計画を練っていることが分かるが、一方で、「イズレ私ハ捕マルダロウ」と揺れる心を覗かせている。


「若イ看護婦」と「年増ノ看護婦」

 しかしこの脅迫文の「文学的」価値は彼が「ドーデモイイコトダ」と書いた次の連続する4行にある。
「若イ看護婦ハ最後マデ患者ノソバデ守ロウトシタガ
年増ノ看護婦ハ 1人デ逃ゲテ行ッタ
ソレニ 私ハ誰モ 監禁シテイナイ。
豹変(ヒョウヘン)モシテイナイ。」

 確かに脅迫文には「不必要」な記述なのだ。先に後半の二行について。「監禁」というのは当初の報道で看護婦を新生児室に「監禁」したと報道されたこと、「豹変」というのは男が受付で最初は丁寧に、途中で「豹変」して火をつけると脅したと報道されたことを憤っているのである。事実と違う、オレは常に冷静だったとマスコミに抗議しているのだ。
 前半の二行は報道されなかったことだ。確かに応対した「看護婦」は2人いた。犯人によると、責任ある立場にある「年増ノ看護婦ハ」自分の安全だけを考えて「逃ゲテ行ッタ」が、「若イ看護婦ハ最後マデ患者ノソバデ守ロウトシタ」。このことが男にある感銘を与えたことは間違いない。彼にとっては、「年増ノ看護婦」が院長とダブって見えた。しかし命を賭けて患者を守ろうとした「若イ看護婦」は全く違う人間だった。
 「善良な市民」から凶悪な誘拐犯への”三途の川”を渡るその最後の瞬間に、彼は「人間」を見たのだ。もしこの2人の看護士とも逃げ出していたら、彼もまた人間性を喪失し、赤ちゃんの命も危なかったという気がする。この「若イ看護婦」こそ本当に患者を「守ロウトシタ」そして実際に命を守った英雄(英雌と言うべきか)だ。

テロリスト発見装置を開発:米空軍

2006-01-07 23:13:55 | 発見
危うし「暑苦しい男」

 昨年の8月のことだが、ある民間企業が「今すぐCoolBizを着て欲しい!熱すぎる男性」、要するに「暑苦しい男」のランキング調査を行った。アンケート調査の詳しい結果はここにあるので興味のある方はご覧いただければいいのですが、1位 松岡修造、2位 みのもんた、3位小泉純一郎という結果だった。
 なぜこんな季節外れの話題を蒸し返すかというと、「暑苦しい男」に身のもんた、いや身の危険が迫っていることが分かったからだ。

 「遠くのテロリストも発見? 米軍が“新兵器”開発計画」という共同通信6日配信の記事だ。「暑苦しい男」とどう関係あるのか?それは群衆の中から「テロリスト」を見つけ出すというこの「新兵器」の原理にある。
 自爆テロリストの気持ちになってみろ。あと数分後には自分の体が吹っ飛ぶ、事前に気付かれたら大変だ・・・極度のストレスで体は熱く、呼吸も乱れる。それを遠くから関知できれば「テロリスト」を機械的に発見できる。ウソ発見器の原理だ。ペンタゴンがこの機械を作ってみないかと民間企業に呼びかけているという。

 ブハハハハ・・・そりゃうまく行けばいいけど単純すぎる。例えば”ゴルゴ13”のような訓練された冷徹なテロリストには全く歯が立たないだろう。第一、ウソ発見器だって被験者の物理的な反応(針の触れで見る)だけで結論を出すのでなく、質問を変えたりいろいろな角度から専門家が検討して結論を出すので、最終的には人間の判断だ。
 しかも人間が「熱く」なるのは何もテロを考えているときだけでない。「暑苦しい男」はたぶん24時間熱いだろう。この検知器のそばを通るだけで、彼らは「テロリスト」の警告が画面に表示され有無を言わせずその場に組み伏せられる(悪くするとその場で「処刑」)。ロンドンの地下鉄で「テロリスト」と誤認された外国人が無警告で射殺されたが、もっと攻撃が早くなるわけだ。

国会「活性化」にも一役か

 米軍はどうも最近、「テロリスト」と聞くだけで「熱く」なりすぎる傾向がある。彼らもそんな批判を気にしているのか、「国防総省は救急患者の病状把握や受刑者の自殺防止など“平和目的”にも使えると強調している。」と記事は書いている。この機械は、「マイクロ波やレーザーを利用して最大で対象者から35メートルでの計測が目標としている」らしい。

 それならもっといい「平和利用」の方法がある。興奮状態にある人間を見つけられるのなら、その逆、精神活動の著しく低下している人間を見分けることもできるはず。これを国会に導入するのだ。
 国会の、特に本会議だが、中継をご覧になる方は、画面に映し出される白河夜船状態の先生があまりに多いことに納税者として心を痛めておられるに違いない。携帯電話でゲームしている(本会議中にだ)議員があまりに多いので、それは首相の方からも注意があったが、睡眠ばかりは「目を閉じて重大な思索に耽っていた」(でもよだれ垂らしてましたよーだ)と”偽証”する議員がほとんどで取り締まりようがない。
 国会議員を経験したタレント?森田健作氏がテレビで語っていた。「オレ、あの国会で居眠りしてるやつ、絶対後ろから頭張り倒してやろうって思ってたんだけど、いざ本会議になるとさ、スーと意識が遠のいていくんだよね。あれって不思議なもんだよねー」。「青春の巨匠」さえ自らの意志に反して前後不覚に陥らせるのであるから、国会議事堂にはどうやら魔物が住んでいる、と言うか謎の磁場が流れているに違いない。国会論議が低調なのは先生方の無能怠慢のせいではなさそうだ。

 先生の睡眠にも「時給」が払われてるわけで、この「魔物」はぜひ退治しなければならない。ペンタゴンが例の機械を開発した暁には少しばかり血税を割いてこの機械を購入するのである。そしてここでは「熱さ」でなくて、「冷たさ」、つまり精神活動の低下を警告するのである。心地よい夢の世界へと入った先生を関知して、「35番睡眠モード」と警告が出る。担当官は「35番スイッチオン」と叫んでボタンを押す。ギャー!。電気ショックで国会審議という本来の仕事に呼び戻されるというわけ。あるいは国会中継の場合、この機械とデジタル放送を連動させて、画面で「睡眠中」議員の名前が表示されるようにするのは技術的に困難なことではない。困難なのは先生方がそうしないように圧力をかけるのをどう回避するかだけだ。

日本の市民を米兵から守るため

 それにしても米軍がこの「テロリスト発見装置」を開発したら真っ先に配備するのは自分の基地の中になりそうだ。と言うのも、先日横須賀で起こった残忍な手口の路上強盗殺人犯として米海軍の空母の乗組員が逮捕されたが、米軍は「(無抵抗の女性を殴り殺すような)こんな危険な人物だと見抜けず反省している」と弁明している(神奈川新聞1月6日)という。これ程の凶悪犯は「テロリスト」よりも「熱く」なっているはずなので、この装置で発見は容易なはず。まず拘束して、基地の外に出ないようにすることだ。

 在日米軍には「日本を守ってくれ」というような大きなことを言うつもりはない。ただ凶悪な米兵から善良な日本人を守ってくれればその任務の大半は果たされたとせねばなるまい。そのためにこの新兵器が活用され、日本人が安心して街を歩けるようになるのを祈るばかりである。

芥川賞、直木賞の候補発表

2006-01-05 17:08:17 | 発見
 よく書店で見かけるのが「今さら聞けないXXの話し」なる題名の本。今日は「文学」の話題だが、この世界、入門するのに別に資格が要らないのに「知っているようで知らない」、「今さら聞けない」疑問がいくつもある。門外漢の素朴な疑問として◆印をつけたので、どれかひとつでも構わないのでご教示いただければ幸いです。

 「芥川、直木賞:文学賞乱立」という長文の解説記事が毎日新聞1月5日付で掲載されている。「芥川、直木賞」の候補作品が出そろったことを伝え、最近の「文学賞」事情を伝えている。
 ここで最初の疑問?◆芥川賞と直木賞の違いって何?
 「芥川賞は純文学作品に、直木賞は大衆文学作品に与えられる」って、さすがにそれくらいは小生も知っている。しかし牛肉じゃないんだからまさか小説に「純文学」とラベルを貼って編集者に渡すわけではあるまい。その「違い」は誰が判別するのだろう?

「純文学」の謎

 「大衆文学」というのはまだ分かる気がするが、「純文学」ってそもそもなんだ。これは日本独特の概念ではないか。英語で言えば"pure literature"か?そんなはずはない。「分かりにくい」文学作品というのが一つの答えで、日本には「純文学」だけを掲載している文芸誌というのがあって、読んでみると確かに作者の訴えたいことが分からない、と言うより何かを言いたいのか何も言いたくないのかさえ分からない作品がほとんどで、なるほどこれが「純文学」というものかと「分かった」ような気になるのである。しかしこれまたいい加減な基準だ。分かりにくく書くのは本来素人の特徴だからだ。
 「純文学は初版だけで数千部売れればいい方」(毎日)というから、出版部数で区別するのも分かりやすいが、まるで売れない「大衆小説」もあるし、芥川賞受賞作でも数十万部売れるものもある。

 世間一般では「純文学」の方が「大衆文学」よりも”上”であると思われているが、作家の方にもそういう意識はあるだろう。◆だから自分の「芥川賞」狙いの作品が「直木賞」にノミネートされたらショックを受けて抗議するのだろうか。逆に「大衆受け」を狙った作品が「人間存在の深奥に迫る」とか評論家に勘違いされて「芥川賞」を受けたりしたら、恐れをなして辞退したりするのだろうか。

「商売敵」を自ら”選ぶ”?

 しかし門外漢から見て最も驚くのはこの2賞の選考委員(末尾に一覧)が全員小説家であることだ。そんなの当たり前と思う方は、例えば日本レコード大賞の審査委員が「日本歌謡界の大御所」、例えば北島三郎、八代亜紀・・・という人たちばかりであったらどうかと考えて欲しい。第一に彼らは全員現役の作家だ。小説の全体売上部数はほぼ一定であるから、作家同士で限られたマーケットを食い合っている。新しい自らの「商売敵」を”発掘”するというのも妙な話だ。 ひょっとしたら「この才能は脅威だ」と感じた新人の”登竜”を阻止するためにわざと駄作を推薦しているのでないか、と疑問を持つほど受賞作はつまらないことが珍しくない。実際プロ野球の「ドラ1」と同じで、「指名」された新人が全く活躍しない例も多いこともこの”疑惑”を裏付ける。
 ◆そもそも「選考委員」の選考はどの様に行われるのだろう。選考委員自身が選ぶとしたら、もうこれはギルドか一種の家元制度のような排他的な集団だ。そういう人達が「日本文学の在り方」を決めるというのはいかがなものか。
 文学賞の選考で選考委員の作家が「Aの作品は人間が描けてない」とかの講評をしているのを読むと、門外漢はつい突っ込みを入れたくなる。「じゃ、あんたの作品は書けてるのね?」。同業者を公の場で批評する居心地の悪さは、例えば、日本料理の道場六三郎が中華の陳健一の料理を「陳君の料理はスパイスの使い方がまずいね」と公の席で評価するのを聞く(もちろん実際にはない)ような感じなのだ。「料理の鉄人」の審査員席に料理人は座らないのだ。文士の世界というのは全く違う掟があるようだ。
 

「供給者サイド」の論理

 そもそも「芥川、直木賞」は、「1935年に菊池寛(上に似顔絵)によって創設された当初は、雑誌「文芸春秋」の売れ行きが落ちる2、8月対策だった」(毎日)。今でも芥川賞受賞作は「文藝春秋」に掲載され、直木賞は「オール讀物」に掲載されることで「文藝春秋社」を潤すことになっている。この両賞は分かりやすく言えば、「トヨタ自動車が選ぶ今年の”car of the year”」のようなもので、「公正」さを期待する方が無茶だ。だから少なくとも候補作には文藝春秋が著作権を持つ作品が必ず登場する。受賞作も抜きん出て多い。

 これでは日本の「文芸界」は完全な”社会主義”で、作家は文藝春秋の顔色をうかがって物を書き続けないといけないことになる。だからこれまでは「供給者サイド」の論理に偏っていた文学賞をもっと「消費者」サイドに変えていこうという動きもこの記事は取り上げている。
 <書店員がネット投票する「本屋大賞」(04年創設)、角川書店の「青春文学大賞」や「ヤフー!ジャパン文学賞」「ダ・ヴィンチ文学賞」など、ネット投票や読者代表が選ぶ賞も次々にできた。> いわば文学賞の「民営化」だ。作品の良し悪しを作家自身が決めるという不自然な在り方にようやく気づき始めたということだろう。

「最強の素人」の台頭

 それにしてもこのBlogで取り上げているBC級ニュースでも、深く読み込めばそこから「文学」に展開できるネタが満載である。19世紀には、「女性の自殺」という当時でも平々凡々な三面記事から「ボヴァリー夫人」や「アンナ・カレーニナ」のような傑作を紡ぎ出す目を持った大家がいた。今の日本には一つの事件から社会の病理を解剖してその姿を活写するという能力のある文士はいないのだろうか。

 「プロフェッショナル」の文章が衰退していく反面、Blogなどで「プロ顔負け」の”素人”の文章に出会うこともある(稀ではあるが)。考えればあの紫式部も「文学賞」とは”無縁”だった。宮中の女房の”Blog"「源氏物語」が、今でも「プロ」の作家の作品を押さえて日本文学史上最高の傑作と言われるのは皮肉だ。「文学」において「プロ」であることの意味が問われている。
 大晦日の格闘技では、「大横綱」にして現役プロレスラー、まさしく”格闘技のプロ”の曙氏に、「最強の素人」ボビー・オロゴン氏が圧勝した。喜んでばかりもいられない。「”素人”の時代」は、プロ不在の時代でもある。まだしばらくは「プロ」の健闘を望みたい。作家の先生も、例えば都知事に転身して・・というのも一つの行き方かもしれないが、やはり筆(キーボード)のチカラで社会に貢献して欲しい。

【芥川賞、直木賞選考委員】

【芥川賞】池澤夏樹、石原慎太郎、黒井千次、河野多惠子、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、山田詠美

【直木賞】阿刀田高、五木寛之、井上ひさし、北方謙三、津本陽、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一

【付記2006.1.6-直木賞は「純文学」作家の"流刑地"か】

 その後芥川賞・直木賞受賞作品全リスト(これは候補者・作品まで含むリスト)をしげしげと見つめてたくさんの発見がありました。めったに「文学」を読まない私がこれほど楽しめたのですから、文学好きの方なら一日中眺めていても飽きないでしょう。

 第一の発見:芥川賞のリストを見ていると、「あっ、この人のエロ小説読んだことある」という作家の方をちらほら見かけます。そう。「純文学」を志したものの「堕落」して原稿料の稼げる「大衆」文学の道を選択した先生。候補に上げられながら受賞できなかった方が多いが、受賞者でもいらっしゃいます。やはり「大衆文学」の方が楽なのですね。
 また「堕落」というのではありませんが、松本清張先生はデビューは芥川賞。どちらかと言えば「直木賞」的な作風なのでちょっと意外でした。

 それから芥川賞と直木賞を一人で受賞することはできないというのは明文規定のようです。つまりどちらかの賞を受賞した時点でその人は「純文学」・大衆文学、どちらの道を進むかが規定されるということです。これはかなりユニークな日本文学界の特徴ではないでしょうか。

 第二の発見:直木賞を受賞した作家で「純文学」に転じた作家はいない。これはまだ仮説です。すべての先生の業績を知らないので、そんな気がするというレベルですが、ぜひ例外を指摘して欲しいと思います。
 これは大変なことです。「純文学」を志している若き才能が直木賞を受賞した途端「おまえの進む道は大衆文学だけ」と宣告されるのですから。喜ぶべき受賞が「流刑地」とは驚きです。直木賞作家で選考委員渡辺淳一先生のあの”朝から興奮”日経朝刊連載小説「愛の流刑地」(「愛ルケ」ご存じですよね)にちなんで、私は「直ルケ」と呼びたいと思います。

 直川龍五先生、あなたは若い頃純文学を志しておられて、芥川賞を取ったあと、ノーベル文学賞を受賞するんだとお友達に話しておられましたね。すばらしいことです。そしてあなたにはその才能があった。私、テレビで拝見したあの授賞式の時の先生の笑顔よく覚えております。とても印象的でした。ンフフフ・・満面に笑みをたたえて・・・しかし私は気付きました。あなたの目は笑っていなかった!・・・それはなぜか・・・
 そうです。あれは直木賞の授賞式だったのです。その授賞式であなたは誓ったはずです。「純文学作家としての俺の将来を奪ったすべてに復讐する」と。直木賞選考委員の全員を殺害すること、そして文藝春秋社を破産させるというあなたの「プロジェクトX」はこの日に始まったのです。

おや「ヘッドライト・テールライト」のエンディングテーマが流れてきましたね。・・・そろそろ参りましょうか。・・・私には分かりません。裁判所が決めることですから。いずれにしても少なくとももう一本小説を書く時間は残されていると思います。どうかいい「純文学」作品を書いてください。・・ええもうお会いすることはありません。古畑任三郎でした。


北京原人の骨はアメリカの施設に

2006-01-03 11:53:15 | 発見
 ナチスによって持ち去られたロシアエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」と共に、第2次大戦で忽然として姿を消して杳として行方の知れのない人類の宝が、歴史の教科書には必ず登場する「北京原人」の骨(化石)だ。
 それは日米開戦と同時に北京からアメリカに運ばれる途中で行方不明になってしまった。その行方をめぐっては様々な説があるが、日本の憲兵隊が1943年段階でそれは北京の米軍施設にあると結論づけていたという文書が発見されたという(朝日新聞1月2日)。もちろん憲兵隊も骨を確認したわけでもないし、その後米軍施設からどこへ運ばれたかは分からない。これまでは「化石は米国の海兵隊によって河北省秦皇島に運ばれ、そこから汽船プレジデント・ハリソン号に乗せて米国に運ばれるはずだった。しかし太平洋戦争が勃発したため、秦皇島に来る途中、ハリソン号は長江の河口で日本軍に撃沈されてしまった。」(「人民中国」2001年11月号)とされていた。果たしてハリソン号と共に海に沈んだか、実は乗せられていなかったかも不明である。
 そのため、中国には「日本が秘かに持ち帰った」という説が根強くあり、昨年の反日運動の時は「骨は日本の皇居の倉庫にある」と断言する中国人の「ジャーナリスト」も登場したほどだ。これでむしろ”疑い”はアメリカに向けられるということになる。

 ところで知ってるようで知らない「北京原人」とはどういう”人物”だったのか?発見されたのは1936年午前10時、北京の南西にある周口店で、人類の化石を探す発掘作業を続けていた中国地質調査所の賈蘭坡という研究者が下顎骨を発見したのをきっかけに11日間で原人の三つの頭蓋骨と一つの下顎骨、三枚の歯を発見したという。だから少なくとも「北京原人」が「3人」は発見されたということだ。そしてその全てが失われている。

『北京原人の逆襲』

 さてその悲劇の北京原人の姿を求めてネットを彷徨うと様々な珍物にぶつかる。その一つが映画『北京原人の逆襲』(1977年香港作品)。上の写真がそのポスターだが・・・・こ?これは?!・・ちょちょっと待て!ブハハハ・・これは北京原人でなくキングコング。そうなのだ。原題は『猩猩王』。猩とは現代ではオラウータンを指すが、漢和辞典によると頭がさえて人間に似た類人猿のことだ。どうも日本の配給元が日本人におなじみの”単語”を勝手に使用したということらしい。明らかに「キングコング」の香港リメイク。しかしサービス精神に満ち満ちていて「怪作」としてマニアックな支持を今も得ているという。ただこの作品を見て、北京原人を全く誤解してしまった日本人も多いという点では罪作りではある。

 もう一つこちらは「本物」の北京原人が登場する日本映画、その名もずばり、『北京原人 Who are you?』(1997年)があるが、ここでは海中から引き揚げた北京原人の骨からDNAを取り出し、北京原人3人を誕生させ・・というストーリーだが、その中味は製作統括者に思わず”Who are you?”(意訳「お前何考えてんねん?」)と問いかけたくなるようなものなので、どうしても知りたい方はこちらをご覧ください。しかしDVDなどを購入した後に「カネ返せ」と抗議されても当方では関知しませんので、あらかじめお断りしておきます。


日本にも「最強のライバル」がいた・・・はずだった

 北京原人にとって日本はどうも鬼門の方角に当たるようで、不幸は映画界での「誤解」に留まらない。思いもかけず「日出ずる方角」から突如ライバルが出現し、北京原人を愚人視するという狼藉に及んだのである。それが世に言う「高森原人」の「発見」騒動である。
 宮城県築館町の上高森遺跡(ここに「遺跡検証発掘調査団」の公式ホームページ)では長年古代人の遺跡発掘調査が続けられていたが、そこで「発掘」された石器が、考古学者と科学者の合同チームの「ハイテク技術を駆使した理化学調査」によって、「60万~50数万年前」のものと「確認」され、「北京原人クラスの人類の存在を決定」した発見であると発表されたのである。
 「北京原人と同年代 歴史が変わる」と大騒ぎしたのはマスコミだけではない。観光資源の欠如に苦しむ地元築館町にとってはまさに救世主で、「高森原人」と命名して、大々的な町興しを始めた。

「原人ラーメン」「原人パン」「原人せんべい」「原人音頭」「清酒・高森原人」 (写真はそのラベル)と次々と”原人ブランド”を展開し、町主催の「原人マラソン大会」には、遥か遠方から「原人服」を纏い「石器」を持って参加する人も現れるなど盛り上がりまくった。

 ところがである・・・すべては捏造であった。この石器を「発掘」した「神の手」を持つと言われたアマチュア考古学者が自分で埋めていただけであった。あまりにも「発見」が相次ぐこの「学者」は怪しいと睨んだ毎日新聞が、隠しカメラで盗撮し証拠を突き付けた(2000年11月5日付けで初めて報道)ため、もはや誤魔化しようもなかった。50万年前の「日本」の歴史の地平線上に浮かび上がった「高森原人」は一瞬にして消滅した。すぐに店頭から撤去するわけにいかない「原人パン」や「原人せんべい」はしばらく存続したようだが、まもなく「原人」の後を追った。そして築館町もまた合併吸収によって地図から姿を消す(現在栗原市)ことになったのは淋しい偶然である。

 それにしても偽物を埋めるという単純至極な偽装を見抜けなかった考古学者チームの責任は、耐震構造データーの偽装を見抜けなかった検査機関や自治体の責任にも匹敵する。しかし理由は明らかだ。石器「発見」当時から繰り返し、「日本にも北京原人に匹敵する”原人”がいた」と発表されたように、そして「50万年前」とされる北京原人よりもほんの少し古い「60万年前」という数字が一人歩きしたように、すべては「北京原人何するものぞ」という偏狭な「愛国心」が根底にあったに違いない。この「神の手」の詐欺師は措くとしても、学者先生のはしゃぎようも「石器」から離れて、<原人の「備蓄の知恵」証明>とか、「原人に精神文化も?」などと「原人」の知性の高さまで「論証」するという暴走ぶり。そしてついに「北京原人・ヨーロッパの原人よりも日本の高森原人ははるかに高い知能と美意識を持っていた」とする「学問的証拠」が得られたと声高に唱える先生が喝采を浴びた。まさしく『高森原人の逆襲』。「襲い」かかる相手はもちろんライバル「北京原人」に留まらず全世界の「原人」だ。「感動した」。 日本人の「祖先」はこんなにも優秀なのだ、と。

未知の概念「国家」に翻弄される「原人」

 それにしても「高森原人」が北京原人よりも知能が高かったら、それが日本人が中国人よりも賢いという証明になるのか。北京原人は人類の直系の祖先ではないとされているから当然「中国人」の祖先でもない。「高森原人」だっていたとしても「日本人」の直系の祖先でない可能性の方が高かった。
 一方の本家中国政府も、「北京原人の骨を何としても北京五輪までに探し出せ」と指令を出しているという。もちろん”国威発揚”が狙いで、三人?の気の毒な北京原人への人道的配慮ではない。50万年の眠りから覚めた原人にはどう説明しても理解できないであろう「国家」の論理が彼らの「現世」での存在を規定している。
 そう言えば、「ミイラの”呪い”」の記事で登場していただいた「エッツィ」氏は「イタリア人」なのにドイツ風の名前(OtziでOはウムラウト)だ。これは氏が発見された当初位置がアルプスのオーストリア側にあると思われていたため、オーストリア「所有」になってしまったからだ。今はイタリア側にいたと確認され、イタリア人は「ヒベルナトゥス」という名前をつけた。自分が全く理解できない「国境線」の概念の故に名前まで変えられた「エッツィ」氏はずいぶん当惑しているに違いない。

 そうなのだ。北京原人も「エッツィ」氏も幻の「高森原人」も、現代に蘇ってからの不幸の原因は、国家や国境線、戦争や愛国心というすべて彼らが理解不能な概念のせいである。これらの「概念」は人類の進歩にとって本当に不可欠なものだったのか、むしろ人類の愚かさを「原人」達の不幸が逆照射しているのでないか。「呪い」でも何でもいいから、ホントに「原人」達が「逆襲」して我々に警告を与えてくれることを望むばかりである。

「オホーツク人」の電子紙芝居

2006-01-01 23:20:36 | 発見
 年頭は普段考えもしない長い時間軸で、大きなこと、例えば「民族」の将来に想いを巡らせてみるのもいいかもしれない。許認可権をお役人が握っている電波メディアでは愚民化政策の徹底からなのか、少なくとも正月には決して流さないテーマだからなおさらだ。

 「日本」にある限られた時代にだけ存在して消えていってしまった民族を題材にした電子紙芝居「オホーツクの物語」が公開されたというニュース(北海道新聞2006年1月1日)。作成したのは北海道の枝幸(えさし)町
 この民族の痕跡は遺跡によってのみ知られる。同町の「紙」芝居につけられた解説では、
「オホーツク文化」は本州の古墳時代から平安時代に、サハリンから北海道のオホーツク海沿岸、千島列島にかけて分布した海洋狩猟民の文化です。オホーツク人は続縄文文化の終わりに宗谷海峡の周辺にいた人々がサハリン北部から来たグループと出会ったことで生まれた集団で、オホーツク海の沿岸を巡るように広がっていきました。
 さらに詳しくは北海道新聞社が作成したページなどを参照されたいが、この「オホーツク人」、13世紀頃には姿を消している。民族として滅亡したのか、アイヌ人と合流したのか、果たして「日本人」の中にその末裔がいるのかも分からない。

 この電子紙芝居はその謎の民族「オホーツク人」の少年タオの物語だ。25枚の絵からなる(上はその1枚)ストーリーは乱獲による生態系の破壊など文明批評的要素も含んでいる。

 「オホーツク人」が北海道にやってきたのは4ー5世紀頃の気候の寒冷化がきっかけというが、「国」の概念がない頃は民族の行き来は自由だった。日本列島にも色々な民族がやってきて、あるいは生死を賭けて争い、あるいは混じり合った。したがって他の民族と異なった、固有の「日本民族」を見出すことは不可能である・・・・

 と思っていたら、それはその人の受けた教育によって認識は大きく異なることに気付いた。例えばこのBlogにも登場いただいた麻生外務大臣は「(日本は)一国家、一文明、一言語、一文化、一民族。ほかの国を探してもない」と昨年10月15日に講演している。さすがにこれには少数民族の北海道ウタリ協会から抗議があって釈明したらしいが、麻生氏の年齢から考えても「皇国史観」教育を受けた年代ではないはずだし、少し不思議な気もする。

 今では民族の系譜をたどるにはいわゆる「ミトコンドリアDNA」の遺伝子配列の解読(あの「エッツイ氏」の親戚をつきとめたのもこれだった)が活用され、日本人の「混血性」は明らかである。極めて大雑把に言えば、「原日本人」(縄文人と言おうか)は大陸からの渡来人に駆逐されて、北海道と琉球に逃れた。縄文から弥生で日本列島の中心「民族」の交代があったのだ。だから麻生氏の言う「日本人」とはいったい誰を指すのか実は必ずしも明確でない。外務大臣としてはちょっと困った認識かもしれない。

 しかしそれよりももっと驚くのは「一文化、一民族。ほかの国を探してもない」と民族の”純粋性”が長所だと思っていることだ。犬の血統書なら純粋性を自慢するのは分かるが、これが「民族」の場合は”純粋性”は最大の弱点になるという認識がない。
 そもそもある程度進化した生物が、無性生殖でなくオスメスの遺伝子を混合して子孫を残すのは、遺伝子を多様化して環境に適応する個体を残すためだ。子孫が同じ遺伝子ならば環境の変化でその生物は簡単に絶滅してしまう。「民族」も同じだ。遺伝子的な多様性がないと例えば同じ感染症で全滅ということになりかねない。

 しかし本居宣長以来か、近代・現代史で、日本人の「純粋性」を唱える学説は、繰り返し政治家によって唱えられれ、「皇国史観」なんて極端なものまで教えられたこともあった。とにかく近代以降は、意識の上での国民的同一性が生物学的に不自然なまでに強調され、少なくとも古代日本の「おおらかさ」の正反対になった。つまり遺伝子的には大丈夫なのに、「意識」が環境の激変に耐えられないほど硬直化している恐れが強い(例えば太平洋戦争直前の時には「一億一心」になってしまいその他の選択肢を出せなくなっていた)。

 このBlogでも登場いただいた某有名占い師の方が元旦の番組で「予言」されていた。日本人は30年後に「難民」となるのだという(その理由まではお付き合いしなかったので知らない。そもそも30年後はこの方「私はもう地獄に落ちてるわよ」年齢だから責任を問われることもない)。ついに「日本民族」滅亡の時だ。しかし慌てることはない。昔、北から南から「難民」として日本列島に流れ着いた人達が「日本国」を創ったのだ。それが三々五々「流れ解散」していくだけのことだ。その時に備えて、「いったい日本人って何なんだ?」と外国人が混乱するほど多様な人材を輩出しておくことが生き残るコツだ。そうすれば世界に散らばって”優秀な”遺伝子を拡散して人類の進化に貢献できるだろう。

ミイラの「呪い」か?7人怪死:イタリア

2005-12-31 14:40:56 | 発見
 ミイラの呪いと言えばエジプトのツタンカーメン王が有名だけど、こちらはイタリアで発見されたミイラの「呪い」で関係者が次々と変死しているというニュース。
 イタリアの地元紙が報じているということで、まあこれも地域興しかなと思うけど、「イタリア北部のアルプス山中で1991年に発見された約5300年前の男性のミイラにかかわった7人が次々に謎の死をとげ」ている(読売新聞)というのはツタンカーメン王の「呪い」の話しに似ている。

 先にツタンカーメンの「呪い」についての誤解を解いておくと、「発掘に関わった全員が変死している」などというのは全くの作り話であることが分かっている(たとえばこのサイトなどを参照)。と言うよりも、なぜぞのような話が捏造されたのかその動機を探る方が、よほど興味深い仕事になるはずだ。
 もちろんツタンカーメンの発掘(1922年)に携わった人物はすでにみな死去している。死に方も色々であるが、それは発掘に関わらなくても同じだ。

 今回のミイラ(『エッツィ』と愛称がつけられている)は日本では通常「アイスマン」と呼ばれ、日本でも展覧会まで開かれた(上の写真はそのポスター。もちろん「山男」は復元された「アイスマン」)ほどの”有名人”だ。解剖したときに背中に傷があり自然死ではなかったことが判明した。ポスターに『エッツィ』氏の最後の瞬間が図解されているのがお分かりだろうか(白で書かれたマンガ)。

 氏が非業の最期を遂げていたことも、「呪い」伝説を産み出す原因だろう。しかし発掘から15年も経つと「関係者」(で、その範囲は?)の中に亡くなる人がいない方が不思議だ。今年10月に亡くなった研究者は「パソコンから『エッツィ』研究データが消えていた」というが、我々でもパソコンから意図しないのに「データーが消えていた」ということはよくあることだ。それも「呪い」なのかもしれないが、せいぜい「さっき殺した蚊の祟りかな」と思うくらいで、まさか5000年前に生きていた人が「介入」しているとは夢にも思わない。

 そうなのだ。日本の伝統的な考えでは死者の魂が「この世」に留まるのは「49日」で、あとは別の人間に生まれ変わる。時々成仏できない魂があったとしても、まさか5000年ということはない。そもそも「皇紀」でも二千六百何年だから、「日本国家の歴史」の倍以上まだ現世に執着している「魂」という概念は日本人には全く理解できない。
 発見された『エッツィ』氏は享年「46歳ぐらい」(なぜ”ぐらい”が付くのか分からないが)というから、まだ「呪い」をかけ続けているとしたら、「この世」よりも100倍以上も長く「あの世」にいるということだ。「輪廻転生」に失敗し続けているのだろうか。

 「輪廻」という言葉を使わなくても、魂の「転生」は別に東洋に固有の考えというわけではない。西洋でもあのピタゴラス学派は魂の生まれ変わりを力説していたという。ただ東洋とちょっと違うのは、古代の哲学者の間で「転生」説批判派が持ち出した論証法だ。「肉体を離れた魂はどこで待機しているのだ。受胎したら飛び込もうと他人のセックスを天からジーと観察しているというのは滑稽ではないか」というのだ。ハハハハ・・全くその通りですが、人類がスケベなのはそのせいでは?

 古代や中世と違い、近・現代においては「輪廻転生説」は独自の困難に直面する。それは人口の急激な増加だ。肉体と魂の一対一対応という「カントール集合論」的立場に固執すると当然魂の側の「不足」が避けられなくなる。しばらくは再エントリーできなかった古代人の魂の「ストック」でしのげるがすぐに限界がやって来る。他の動物からの「魂」の供給が避けられなくなった。
 よく芸能人などが「あなたは××の生まれ変わり」と「霊能力者」に言われたなどと吹聴しているが、××は「天草四郎」だったり「沖田総司」などの”好感度”の高い歴史上の有名人がほとんどだ。まあそう言わないと「霊能力者」はおまんまの食い上げになるからだが。ただ名前を失念したが、ある芸能人がテレビで、「私は虫の生まれ変わりだと言われた」と告白していた。「過酷な真実」を告げた霊能力者には「天晴れ」をやりたい。ちなみにピタゴラスは人間と他の動物の魂の相互転生を主張していた。

 さて、『エッツィ』氏の肉体はミトコンドリアDNAを解析され(母方の親類関係を調べる)、例えばオックスフォード大学のブライアン・サイクス博士によって、平凡なイギリスのマリー・モーズレーという主婦は『エッツィ』氏と同一のDNAを持っていることが発見された。『エッツィ』氏の子孫であるか、少なくとも親戚関係にあるということだ。

 一方『エッツィ』氏の魂は恐らくは100回以上?の輪廻転生を経て(”ローテション”の早い日本式ならそれくらいだ)、現在は生身の体を持っているだろう。すでに述べたように現在では「魂」の需要は逼迫しており、「人間経験者」の魂は引く手あまたであるから。
 その肉体は「アイスマン展」で”自分”の5300年前の肉体を食い入るように眺めながら、「こいつどんなもん食ってたんだろうね」と隣の恋人に水を向け、彼女に「あんたに似てるわね」と言われて、「こんな”原始人”と一緒にするな!」と食ってかかっていたかもしれない。
 最早『エッツィ』氏の魂は5300年前の怨讐を忘れ屈託ないが、DNAは姿を変えずに今に受け継がれているのだ。そして殺し合いの習慣もまた。これこそどんな「呪い」よりも恐ろしいものではないのか。殺し合いをし続けるべく「呪われ」ているとしたら!

 今日は除夜の鐘。鐘の数が108回なのはそれが煩悩の数だから。心を縛りつけて修行を妨げる10種の煩悩(十纏<じってん>)と、人々を輪廻の世界に結びつける98種の煩悩(九十八結<くじゅうはっけつ>)とを合わせて百八煩悩と数える(他にも諸説あり)。ああやはり「輪廻」からは逃れられないのですね。