八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆いまの戦争を考える!〝戦争とテロ、そして国民〟(第3部・現代史)の講座開講☆☆

2022-03-28 15:52:14 | 〝哲学〟茶論
 西欧よりは東欧を旅した人は、ふと東欧の人びとの表情の厳しさに、一瞬、たじろいだことがあるかと思います。
 プラハ、ザグレブ、ブダペスト、リュブリャナ、サラィエボ、それにワルシャワ、クラクフ、ブラチスラバなどの街を歩くと、古さびた灰色の壁面に小さく窓があって、その向こうには人びとがひっそりと静かに暮らしている。そうした息をひそめるような悲しみをふと街並みから感じてしまう。
 夏であるならば長めにおとずれる夕暮れがあたりを覆うと、街全体に寂寥が住みついたような、そんな日本とは異質な感慨に襲われることもしばしばあったかと思います。
 
     <ポーランド・クラクフの街区>
 考えてみると、中世以降、いやもっと以前からこの地は、突然外からやってくる自分たちとはちがう種族の兵馬と吶喊、そして砲声に蹂躙された歴史にあった土地でした。
 そうした時代のヨーロッパの地図を見るまでもなく、つねに国を示す境界線は不安定なもので、ときどきにローマ帝国、十字軍、イスラム軍、蒙古軍がやってきては人びとの生活を破壊し、支配のための建設を行い、その後の「近代」となっても、それぞれが一定の言語によって「国家」という集合体を形成しても、ハプスブルグ家の支配、さらにオーストリア=ハンガリー帝国の膨張、ナポレオンの東征、ロシア帝国、ナチス=ドイツの侵攻、スターリン・ソ連の支配・・・。
 なんどもローラーをかけられたように支配と被支配が繰り返され、人種・血族が戦禍の軋轢で分断・融合を余儀なくされ、そのたびに言語が支配者の言語のそれに変わり、伝統的な暮らしのありようは混濁し、何重にもおり重なり合うようにして屈辱と痛苦と悲惨と絶望が、大量の血を吸った大地のうえに歴史とともに積み重なっていく。

 わたしたちのような、いわば極東の島嶼に、無自覚になんとなく国としての集合体が存在した者には、そうした寂寞とした忍従と屈折の歴史の深層はもとより理解し得ない。そう思うべきなのでしょう。そして、それがそうした国々や人びとへの、わたしたち日本人が取るべき、最低限の礼儀のように思います。

 戦争がはじまったのだから、圧倒的な敵がやってきたのだから、逃げろ、国を出たほうがいいなどと、あたかも親切ふうに語った者たちの無知と無能さは、まさに呆けた日本人の不様な地金を露呈したに過ぎないものでした。テレビ芸者にすぎない彼ら彼女らは、いくらいい学歴を積んだとしても、あるいは弁護士だとか知識人だとか言っても、自らの無知を恥じ入るべきではないか。
 およそ、歴史の浅瀬でゴミのような名誉と金穀を貪って知識人ぶる愚かさ、そしてそれを許容していること自体、まさに屈辱でしかないように思います。

 かつてロシアおよびソ連の脅威に苛まれた国のなかには、ナチス=ドイツの枢軸に加わった国々や地域があります。
 ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、フィンランド、そしていま戦禍のもとに置かれているウクライナなどは、そうした歴史を含まざるを得なかった。
 ソ連・ロシアからすれば、それらの国や地域は「ナチ」なのだと言うことになるのですが、それが現代にも払拭されず残っていて、それがロシアの独裁者の言葉に乗っかって叫ばれる。すると、すでに「ナチ」とは言えぬ、いわゆる愛国右翼を形成する集団を、あたかも陰謀団か破壊集団のようにレッテル付けされ喧伝されていく。
 そんな言説が根拠もなく、いまの日本のnet界隈にも、陰謀めいた薄笑いとともに囁かれているようです。
 歴史を知るということは、あるいは歴史を観察するということは、手間がかかるものといっていい。
 簡便にすぐに結論など出てこない。世界の僻地である島嶼国家にいるわたしたち日本人は、そうした鍛錬され形づけられる歴史の合理性にまったくタフではありません。すぐに謀略史観にとびつく、あるいは逃げ込む癖がある。

 いま戦禍のなかに苦しむウクライナも、近代以降、何度もローラーをかけられるように、ナチス=ドイツに、ソ連に、そしてロシアに、その領土を削られ、言語を支配されてきた国でした。愛国右翼もテロ組織も赤色テロ集団も、そのときどきに出現し、混乱をつくっていきました。
 そして、それが「国民」国家が形成され、排他的領土権が広くコモンセンスとされた21世紀の現在になっても続いている。その惨状を、浮ついた言葉やあり合わせの思想で語るわけにはいかない。
 歴史を知る意味とは、知識を得ることではなく、人びとの哀しみを知ること、その積み重ねを精神としてとらえることにあるのではないか。
 おそらくEUにつくとか、ロシアにつくとか、そんな片々たる問題よりも、これまでの何層にも血で固められた歴史を見据えることの意味を、少なくともわたしたち極東の住民は思いやる必要があるように思います。

 確実なのは、いま21世紀の現代も、〝核戦争〟の時代におかれている現実を見据えるべきでしょう。
 浮ついた言説をまき散らす弁護士上がりの政治屋やブルーとイエローのドレスを着て、空疎な言葉を吐き散らす参議院議長をもつ恥辱を、もっと見据えるべきであるように思うわけです。
 そして、利権にまみれたロシアびいきの国会議員も、この国の利権まみれの上っ滑りな無知の標本であろうと思います。

 長々と書きましたが、最後に4月24日からはじまる
 日本〝近代・現代〟のプロフィール<第3部>の紹介をさせていただきます。
  テーマは「戦争とテロ、そして国民」です。
 お話しする時代は、1945年の敗戦時の日本人から現在の日本人の戦争への意識についてです。
 こんな時代です。空疎で浮ついた講釈ではなく、しっかりと地に足がついた対話を積み上げていきたいと思っています。
 以下、flyerを貼っておきます。
 お問い合わせは、メールでNPO新人会講座担当まで。
 npo.shinjinkai1989@gmail.comです。

 
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