八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

高橋和巳と魯迅~〝時代に杭を打つ!〟第二講について

2020-06-19 21:56:00 | 〝歴史〟茶論
 先週からスタートした講座は、この21日(日)で第二講目を迎えます。第二講は文学者「高橋和巳」についてのお話しです。

 高橋和巳といっても、ある時代、ある世代の人びとにはよく知られている文学者だと思いますが、若い世代には、なじみが薄い人物のように思います。
 高橋和巳は、いわゆる1960年代後半から70年代にかけての「全共闘」世代には、絶大な感化力のあった小説家であり、学者であり、それらを統合して「文学者」でした。
 1968年から69年にかけての京都大学学園紛争のなか、政治権力の不正と強制に憤り、その縛りからの解放をはかろうとした学生の視座に沿いながら、高橋和巳は学問と文学の真実の意味をひたすら追い求め、わずか三十九歳で病魔に冒され夭折します。
 どのような「文学者」であったかは、21日の講座で具体的にまた現代的意味を交えてお話しすることになるかと思いますが、すくなくとも言えるのは、破滅的衝動につねに駆られながらも、身を賭してそこにある現実にひたむきに、また彼が好んだという「まっさらなシャツ」のように、清冽な抒情をたたえて表現をなそうとした「文学者」だったと思います。
 京大の学園紛争時に高橋和巳は京都大学助教授として中国文学を講じていました。専攻は3~4世紀の中国六朝文化でしたが、9世紀の詩人である李商隠という、ときに変節漢とされ不遇を託った詩人にも惹かれ、さらに近代人であった魯迅にも深くひきこまれていきます。
 李商隠については講座で触れるかと思いますが、いうまでもなく魯迅とは、近代中国の悲哀と悲惨を、まさに十字架を「血債」のように背負って生きた文学者でした。その魯迅について高橋は痛切かつ哀情をこめた一文を草していますが、その一部分を引きます。

 ・・・魯迅の作品は暗い。限りなく暗い。「阿Q正伝」のように風刺的な諧謔筆致によって一つの典型が描かれている場合も、「故郷」のように回顧的な発想に伴なう抒情によってうるおいをもって事件や人物が浮彫りにされる時も、その基調には常に癒しえぬ悲哀と寂寞が底流する。・・・中略・・・いったい魯迅は人間のうちに何を見、自己の内部から何を発掘しようとしたのだろうか。彼が属した中国民族(略)は、どういう運命にあるものとして映っていたのだろうか。(『民族の悲哀ー魯迅』)

 魯迅についてのこの冒頭の一文を読むだけで、高橋和巳にとって、文学とはいかなるものか、その姿勢が読み取れるように思います。
 少年時代に「超軍国主義」「国家主義」の洗礼を受け、大阪全域をなめ尽くした1945年3月の「大阪大空襲」を着の身着のままで逃げ出し、やっとの思いで死を免れたこと。その後、あわただしい教育制度改革で、旧制高校を一年経ただけで、新制大学に移ることになり、朝鮮戦争、共産党の分裂など大学ではさまざまな政治運動、文学運動を経て、戦後の軽薄で片々とした時代の変化に不器用にしか振る舞えない自分への自覚。そして、貧しさから安逸への堕落。
 そのなかにあって、批評家や社会運動家、政治家らは、自らを無垢な被害者として加害者を呪詛し、被害者の団結を促して政治変革を声高に叫ぼうとする。
 高橋和巳は、それに対峙するように魯迅の言葉を引きます。・・・魯迅はそうはしなかった。外なるものは内にあり、そこに一つの悲惨があるとき、自らもその悲惨を分有するとともに、また加害者の一員でもあると、魯迅は感じた。(前掲)
 世の中の矛盾、悲惨さ、狡猾で尊大な、そして卑劣なありよう。それらは、なにも自分以外のところにあるのではなく、自らのなかにも存在するのだ。だからこそ、自らの内面を抉り出すようにしてでなければ、真実の文学は生まれない。
                  

 いまどきの文学ならびに出版のありようは、そうした本来、切れば血の出るような自己内面性を追求せず、どこかで脱色し、緩く脱力してみせるところでのみ価値を見いだそうとしている。
 その意味で、高橋和巳はあまりにも重く、あまりにも硬質な問いかけをする作家でした。それがある時代の若者にはしたたかに響き渡り、その若者がその後、老いていくなかで高橋和巳はいつしか忘れ去られ、あるいはノスタルジーのなかに消化され、老いたかつての若者は消費社会の富裕を謳歌する。そして、その後の若者は、いつしか「net」社会の肥大化や人間関係のささくれ立つ希薄さに世の矛盾や悲惨は視野から遠ざけられ、生きていくという重さそのものに耐えられなくなっていった。
 
 今回の〝時代に杭を打つ!〟第二講は、そうした日本戦後の意識の変化を、高橋和巳という地表軸を中心に考えていきたいと思います。
 
 生きていれば今年でちょうど八十九歳になる高橋和巳ですが、もし生存していたなら、彼の眼にはたして現代はどのように映っているのだろうか。
 思うに彼の眼には、現代の人びとがいかに自分以外の他者に対して、忌み嫌うように差別し、分断によって不可視化してきている。そんな風に映っているのかもしれません。
 さもなければ、真摯な苦悩や葛藤から逃げ、糖衣で包もうとばかり、家族だの愛情だ絆などと、これ見よがしに披瀝して、自らの虚弱な安全と安心を得ようとしている。すでに、家族は空疎なものになっているのだし、愛情は慣れ合いに溶かされて心を通わすものになってはいない。絆は虚偽と欺瞞に満ちているのではないか。むしろ、その矛盾や悲惨さは肥大化し、そうした人びとが見えなくてはならない悲哀や懊悩を、誰一人として内面化しようとしない。

 ところで、前回の講座では、さまざまな悪条件のなか、思いがけず多くの方々の参加がありました。
 講座をやる意味は、講座を通じて、目には見えないけど、言葉で感知できる双方向の「対話」のネットワークができることにあります。それは一方通行的なやりとりに制限されるSNSといったネットワークとは違い、会場自体がおおきな「対話」空間になることを意味するのだと思っています。
 というわけで、お時間がありましたら、ご参加ください。いろんな方々との質疑に、なにか感じるところがあればとこころから思っているしだいです。

 まずは、今回はこれまで。

 

 


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