NTVの正月番組で四方拝を見た。
旧暦の正月にする行事なそうなので、ちょいと時期ずれかも。
とは言え、北斗七星が出てきたのには驚いた。
秦に敗れた燕と斉は朝鮮半島に逃れていた。
漢が朝鮮半島を支配した時、100年頃、燕と斉の一族は日本に逃れた。あるいは既に日本に渡り出雲に勢力を広げていた、たぶん。
徐福伝説は紀元前218年である。佐賀に上陸した斉の徐福は鉄を求め四国へ渡り、さらに吉野に達していた。
北斗七星は戦国七雄に重ねられ、徐福にも七星は登場する。
詳しくは、
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/770736/
で。
神武東征は漢が魏に滅ぼされた時期と一致する。
漢は奴国を拠点に瀬戸内海から大阪までを勢力圏としていた。
つまり神武東征は、斉一族の失地回復の戦いだった、もしかすれば。
漢の勢力が衰え、替わって魏が登場でした。魏も七星のひとつ、歴史はこんがらかる。
始皇帝は本当に、不老不死の薬を求めたのだろうか。
戦いのない地に、子孫の繁栄を願ったのかもしれない。
誰の子というよりは、民族の子として扱う習慣は昭和初期までは有った様な気がする。
モンスターペアレンツは新しい渡来人かもしれない。
さてはて、今日はNHK。桓武天皇の背中には北斗七星が描かれていた。
日本は西を向き始めたのだろうか。
シルクロードの支配者、ソグド人、旅する彼らには北斗七星は神だったのかもしれない。
日本人はコーカソイドだと言われる所以はこれか。
以下、コピペ
7つの強国とは、春秋末期に中原(ちゅうげん)で最大の領土を占めていた普国を分割して独立した韓、魏、趙の三国のほか、東方に拠った斉、東北方の燕、長江下流域を占めた南方の楚、西方の秦であり、いずれも公然と王号を称したので、戦国の7雄とよばれた。
もともと7雄のなかで最後進国であった秦は、西北に隣接する遊牧民族から騎馬戦術を導入して戦力を強化するとともに、諸国からの亡命者を受け入れて内政と外交に利用し、国力を増強させたのである。
このころには「英雄」でも扱われる任侠(にんきょう)の風習が本当にあったそうです。「有力者の庇護のもとに入った賓客には、さまざまな事情の下に既成の秩序からはみ出した異能の人士のみならず、人殺しや泥棒までも含まれていた」
「彼らは家族ぐるみで抱え込まれていた」そうで、「こうした連中を集団として結びつけたものは、血縁関係でもなく、利害関係でもなく、社会秩序の流動化にともなって姿をあらわした<男伊達(おとこだて)>つまり『任侠』の精神であった。
その当時の出雲国は日本海側の越後までを支配していた。昔は日本
海側が船交通の要所であり、ここを抑えていることが日本を押さえ
ることになっていた。朝鮮からの物資も日本海を通らないと日本に
来ない。三輪王朝が大和朝廷になれたのも出雲国との同盟と国譲り
があったことによっている。
そして、出雲国は、治水工事など米作の技術でも優れていた。この
出雲の豊作の神である豊受大神を祭っていたのが籠神社であり、同
盟で天照大神が来て、そして出雲の神である豊受大神を伴い、伊勢
神宮に移ることになる。この同盟関係が大和朝廷にいかに重要で
あったがわかる。
旧暦の正月にする行事なそうなので、ちょいと時期ずれかも。
とは言え、北斗七星が出てきたのには驚いた。
秦に敗れた燕と斉は朝鮮半島に逃れていた。
漢が朝鮮半島を支配した時、100年頃、燕と斉の一族は日本に逃れた。あるいは既に日本に渡り出雲に勢力を広げていた、たぶん。
徐福伝説は紀元前218年である。佐賀に上陸した斉の徐福は鉄を求め四国へ渡り、さらに吉野に達していた。
北斗七星は戦国七雄に重ねられ、徐福にも七星は登場する。
詳しくは、
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/770736/
で。
神武東征は漢が魏に滅ぼされた時期と一致する。
漢は奴国を拠点に瀬戸内海から大阪までを勢力圏としていた。
つまり神武東征は、斉一族の失地回復の戦いだった、もしかすれば。
漢の勢力が衰え、替わって魏が登場でした。魏も七星のひとつ、歴史はこんがらかる。
始皇帝は本当に、不老不死の薬を求めたのだろうか。
戦いのない地に、子孫の繁栄を願ったのかもしれない。
誰の子というよりは、民族の子として扱う習慣は昭和初期までは有った様な気がする。
モンスターペアレンツは新しい渡来人かもしれない。
さてはて、今日はNHK。桓武天皇の背中には北斗七星が描かれていた。
日本は西を向き始めたのだろうか。
シルクロードの支配者、ソグド人、旅する彼らには北斗七星は神だったのかもしれない。
日本人はコーカソイドだと言われる所以はこれか。
以下、コピペ
7つの強国とは、春秋末期に中原(ちゅうげん)で最大の領土を占めていた普国を分割して独立した韓、魏、趙の三国のほか、東方に拠った斉、東北方の燕、長江下流域を占めた南方の楚、西方の秦であり、いずれも公然と王号を称したので、戦国の7雄とよばれた。
もともと7雄のなかで最後進国であった秦は、西北に隣接する遊牧民族から騎馬戦術を導入して戦力を強化するとともに、諸国からの亡命者を受け入れて内政と外交に利用し、国力を増強させたのである。
このころには「英雄」でも扱われる任侠(にんきょう)の風習が本当にあったそうです。「有力者の庇護のもとに入った賓客には、さまざまな事情の下に既成の秩序からはみ出した異能の人士のみならず、人殺しや泥棒までも含まれていた」
「彼らは家族ぐるみで抱え込まれていた」そうで、「こうした連中を集団として結びつけたものは、血縁関係でもなく、利害関係でもなく、社会秩序の流動化にともなって姿をあらわした<男伊達(おとこだて)>つまり『任侠』の精神であった。
その当時の出雲国は日本海側の越後までを支配していた。昔は日本
海側が船交通の要所であり、ここを抑えていることが日本を押さえ
ることになっていた。朝鮮からの物資も日本海を通らないと日本に
来ない。三輪王朝が大和朝廷になれたのも出雲国との同盟と国譲り
があったことによっている。
そして、出雲国は、治水工事など米作の技術でも優れていた。この
出雲の豊作の神である豊受大神を祭っていたのが籠神社であり、同
盟で天照大神が来て、そして出雲の神である豊受大神を伴い、伊勢
神宮に移ることになる。この同盟関係が大和朝廷にいかに重要で
あったがわかる。