風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

Patti Smith & 自由の哲学

2013-01-25 15:31:38 | おんなこどもの哲学

前回、今井重孝さんの「自由の哲学入門」について書いたが、
この本を読みながら、久しぶりにシュタイナーの自由論に触れながら考えたことが、
その後に行ったパティ・スミスのコンサートで感じたことと不思議に重なった。

シュタイナーの『自由の哲学』は、ぼくにとっても、
最も大切な本の一冊である。
30代の半ばに、市立図書館に通い、
哲学辞典を引きながら、ドイツ語で少しずつ読み進めていた頃を思い出す。
シュタイナーを読むたびに、ぼくはその新しさに驚いていた。
自分の外に一切の外的規範を認めず、
ひたすら「個」としての自分のなかに行為への根拠を見出そうとしたシュタイナーは、
最終的に、善悪の判断でも、思想でも理念でもなく、
「行為への愛」だけがすべてだと語る。
「私が何かをなすのは、私がその行為を愛しているからにほかならない」と。
(初版では、「その行為に恋している verliebt sein」という表現だった。)

そして、きわめて過激なのは、
そうやってなされた自分の行為が「世界秩序」から見て善なのか、悪なのかは、
後になって初めてわかる、と言い切っていることだ。
行為をなす前に、それが善につながるのか、悪につながるのかといった判断でさえも退け、
自分がその行為を愛しているかどうかだけを唯一の基準とするシュタイナーの考え方は、
当時のぼくには、危険な香りがするほど反権威的で、
「アントロポゾフィーって、ロックだなあ」と心底、思ったものだ。

ただ、今回、今井さんの本を読みながら、改めて思ったのは、
それは、シュタイナー自身が自分の代表作とみなしていたこの「自由の哲学」という本は、
「西洋の『神』との対決のなかから、格闘するように獲得された思想」なのだ、ということだった。

先の「世界秩序」という言葉にしても、要するに、
唯一絶対なる神がもたらす秩序のことだ。
西洋には、この世界(宇宙)はそのように神の叡智によって秩序づけられている、
という感覚が息づいている。
しかし、その神の叡智による秩序も、人間の内面に取り込まれると、
善悪の判断基準として、あるいは、
「人として、どのように振る舞えば 、神の秩序を乱すことなく、世界進化に寄与できるのか?」
という問いとなり、
「理性」や「良心の声」となって、道徳的に人間を縛ることになる。

ニーチェの『善悪の彼岸』も、
その同時代を生きたシュタイナーの『自由の哲学』も、
理性や社会規範に姿を変えつつ人間を縛り続けようとする「神」への、
徹底抗戦のなかから紡ぎ出された思想なのだ。

だから、シュタイナーは、生命の進化のなかにさえ、
そのような「あらかじめの理念」を見ることを拒絶した。
進化が、あらかじめ定められた何らかの目標に向かって進んでいく、
という考え方も、「自由の哲学」とは合致しない。
たとえ、それが「自由」という目標であったとしても、である。

理念は、自分と一致した行為、すなわち自分が愛する行為がなされた後に、
その振り返りのなかで見出されるにすぎない。

この世界がどこへ向かって進んでいるのか、
自分は何のために生きているのか、
それを決めるのは、人間の「外」に想定された神ではなく、
人間自身、それも一人ひとりの私である。

シュタイナーの「自由」は、神からの自由と独立。
「神智学」から「人智学」へ、
神の叡智から、人間の叡智へ。

そこにある唯一絶対なる神との対峙は、
きわめて西洋的である。
そして、シュタイナーが「キリスト」という存在を重要視した最大の理由は、
イエス・キリストこそ、
神でありながら人間になり、
人間の側に身をおいて神と対峙した、「最初の人間」だったからだ、と思う。
いわばキリストは、
人間を神の縛りから解放したのだ。

そして、パティ・スミスのコンサート。
ぼくがこの人の歌に触れたのは、10代から20代にかけてで、
彼女の生き方や考え方もだが、
一番には純粋な言葉の美しさに魅かれていたと思う。

今回のコンサートには、素直に心を揺さぶられた。
大地震と津波で命を落とした人々に捧げられた、
彼女がグレート・マウンテンと表現する富士山に呼びかける歌。
仙台を訪れたときの思いを、言葉を探り当てるように歌った歌。
愛する家族を失った人々に捧げる歌。
バンド全体が一つのフレーズをたたみかけるように奏で、
その音が次第に高まっていくとき、
「ああ、この人たちは、本当に祈っているのだ」と感じた。

彼らはひたすら聞き入っているようにも見えて、
ぼくは、リルケが祈りを描写した言葉を思い出した。
「声、声。聞け、わが心よ、かつて聖者たちが聞き入ったように…。
聞け、静寂のなかから形づくられるものを…」

リルケの詩は、神との対話のなかから生まれていると、ぼくは思うのだが、
今回、ぼくはパティ・スミスの音楽のなかに、
あるいはその祈りのような精神性のなかに、
神との対話、もしくは対峙を感じた。
そして、それもまた、きわめて西洋的と思ったのである。

パティ・スミスは「Be free!」といって客を迎えた。
そして、アンコールで「Rock n roll Nigger」と「Gloria」という
代表曲が演奏されたとき、
彼女は「あなたたちが未来だ。あなたたちが明日を決めるのだ」と言った。
原子力や核問題に触れたその言葉、
いつもなら、ただ共感し励まされていたであろう
その言葉が、今回は、
シュタイナーの「自由の哲学」の言葉のように、
神の支配から身を振りほどき、戦ってきた人の言葉に聞こえた。

そして、ぼくの内面からは、改めてどうしようもなく、
深々とした問いが湧き起こってきた。
現在、この日本を生きるぼくたちにとって、
「自由」とは何か?
なぜぼくたちの意志は、時代を逆行するまでに希薄なのか?

この問い(the same old question…)とともに聞いた
アンコールの2曲は、これまでとは違う聞き方を与えてくれた。

「ロックンロール・ニガー」は、
パティ・スミスという詩人のキリスト理解を表現したものなのだ、
と改めて思った。
Baby was a black sheep, baby was a whore...
(彼女は黒い羊、彼女は娼婦…)という言葉から始まり、
Jesus Christ was a nigger...
(イエス・キリストはニガーだった…)
という言葉を含むこの詩は、
Outside of society, that's where I want to be...
(社会の外、そこに私はいたい…)
というフレーズを繰り返す。
ニガーというのは、黒人への蔑称であり、
黒い羊は、白い羊(善人)の群れのなかで、
やましさを抱えて孤立している人のことだが、
まさにキリストとは、そういう人のことだ。
本来のキリストは社会の外に、
虐げられた者たちの中にいる。
キリスト自身が虐げられた者なのだ。

そこまで考えて、ハッとした。
このbabyは女性ではないのか?
パティ・スミスはキリストを女性として捉えたのではないのか、と。

そして、アンコール曲は「グローリア」に移行し、
有名な、
Jesus died for somebody's sins but not mine....
My sins belong to me...
(イエスは誰かの罪のために死んだけど、私の罪のためじゃない…
私の罪は私のもの…)
という言葉が唱えられた。
これまでぼくは、この言葉は、
キリストによる贖罪(罪のあがない)への拒絶だと思っていた。

しかし、今のぼくには、
パティ・スミスが歌うこのグローリアが、
新しい神、女性の神のように思えたのである。

懺悔によって罪を洗い流すのではなく、
自らの罪を自らの「所有」として抱きつつ、
進化や救済を求めることもなく、
ひたすら地上を生きようとする神、もしくは人間。

そのとき、ぼくは自分が求めている
「おんなこども」という新しい神性が、
パティ・スミスを通して、西洋の側から反射されたように感じたのだ。

いちいち断る必要もないと思うのだが、
以上はあくまでもぼく個人の解釈、受け取り方であって、
それを誰かに押しつけるつもりはない。
およそ作品というものは、
それを受け取るすべての人の解釈に開かれていると思う。
それは、シュタイナーにしても、パティ・スミスにしても、
あるいは聖書にしても、変わらない。

おそらくすべての表現活動の意味は、
それが受け手の生命に何らかの刺激を与え、
さらなる創造活動を促すことにあるのではないか。
しかし、それが誤解され、批判や破壊、憎悪につながることもある。
そこに公表するということのリスクと可能性がある。
(ここでぼくは、シュタイナーの自由大学のテキストが公開されたことを想起しているのだが、
それについては、いつか別の機会に書きたいと思う。)

ぼくは、今、希望を求めている。
人間と世界、すなわち自分自身を信じる可能性を探っている。
この日本という国の可能性を見出したいと思っている。
どうすれば、この日本に生きる人々の内側から、
本当の、ぼくたちの、私たちの「共有」の意志が現れるのか?
果たしてそんなことがありうるのか?

これは危険な発想に思われるかもしれない。
しかし、ぼくが言っているのは、個人の意志を呑み込むような、
国家意志や、一般意志のことではない。
一人ひとりが自律した個であるからこそ、
それらの個を前提として浮かび上がる、共有の意志があると思うのだ。

(生命進化が、あらかじめ定められた理念を目指して進んできたのではなく、
個々の生命活動が展開した後、そこにさまざまな意味や理念が見えてくるように、
一人ひとりがひたすら個を生きるなかで、
そこに浮かび上がる理念、結果として皆が共有していた意志というものがあると思う。
それが働くなら、人類は戦争や原発のように、生命に逆行することを志向するはずがない、
とぼくは素朴に考えている。
そして、シュタイナーという人も、そのような社会のあり方を模索した。
最初は、戦後の社会三分節化運動を通して、
次には1923年のクリスマス会議における普遍アントロポゾフィー協会の設立を通して。)

シュタイナーがなし得なかったこと、
むしろナチスの台頭によって徹底的に破壊された彼の理想を、
今、この荒涼とした日本の精神生活のなかで、
あるいは文明そのものが危機に瀕している現代において、
今、ふたたび一人ひとりの個人の生活の中で取り上げ、
破壊と崩壊へと奔流のように突き進む時代の流れを転換すること。

日本においてこそ、それは可能だとぼくは思っているし、
そこにおいてこそ、アントロポゾフィーはその本来の力を発揮するだろうと思っているのだが、
そのためには、つまり日本の内側から共有の意志が目覚めるためには、
一人ひとりが、
つまり自分に引き寄せて考えれば、ぼく自身が、
アントロポゾフィーを「外」から受け取るのではなく、
自分自身の内部にそれを見出さなければならない、と思っている。
それがぼくが「おんなこども」を求める理由なのだ。

おんなこどもにおいてこそ、
一人ひとりの意志は発動する。
それが、今のぼくが見ている、
西洋とは異なる、東洋における「キリスト」への道。
一人ひとりの個における、
西と東の統合の可能性である。

希望…、信仰…、愛…。

今井重孝著 『自由の哲学 入門 』

2013-01-25 13:11:17 | 隠された科学
今井重孝教授の「シュタイナー自由の哲学入門」(イザラ書房)を読了した。
コンパクトな一冊だが、大変な力作だと思う。
何よりも、この本を読むことで、
著者自身の「自由の哲学」との取り組みを共にたどることができる。
そのことが非常に貴重なのだ。

平易な言葉で書かれているが、それでも難解に感じられる人には、
第3章「『自由の 哲学』と『自由への教育』」から読んでもらいたい。
いかにシュタイナーの教育理念が、
「自由の哲学」で描かれる「自由な人間のあり方」を目指すのものであるかが、
今井さん自身の理解と言葉で解説されている。

この本がもつ、もう一つの価値は、
著者が現代のさまざまな「自由」をめぐる考え方にも目を向け、
できるだけ今日の文脈のなかでシュタイナーの自由論を捉え直そうとしていることだろう。

シュタイナーは、ヴァルター・ヨハネス・シュタインという人に、
「あなたの書いた本のなかで、千年後も残っている本があるとしたら、どの本だと思いますか?」
と尋ねられたとき、
「それは『自由の哲学』でしょう」と即答したという。

それほどまでに、シュタイナーにとって、
自分が若い頃にこの本のなかで展開した自由をめぐる思考は、
その後の自分のすべての活動のベースになっていた。
そして、現代思想の流れのなかでも、この『自由の哲学 』は一つの古典として評価され、
後世に受け継がれる価値を有しているという自負があったのではないだろうか。
実際、イギリスの評論家コリン・ウィルソンも、シュタイナーを論じた本のなかで、
「もしシュタイナーが『自由の哲学』や自叙伝だけを残して死んでいたら、
ベルグソンと並ぶ現代の代表的な自由主義的思想家のひとりとして評価されていたことだろう」
というような意味のことを書いていたと記憶している。

しかし、ここは同時に、シュタイナー教育をめぐる大きな矛盾が現れてくるところであり、
そのことは今井さんの本を読んでも、否応なく意識にのぼってくる。
今井さんの言葉では、このように書かれている。

「何の外的な基準にもよらず、ましてやイデオロギーや教義によらず、
一人ひとりが自分の体験、自分の感覚、自分の思考、自分の直観、自分の良心、自分の判断に基づいて行動する
自律的人間へと前進していくことが、「自由の理念」であり、「自由の哲学 」なのです。」(65頁)

まさにそうなのだ。しかし、それでは今日のシュタイナー教育のあり方は、
「イデオロギー」や「教義」になっていないだろうか?
シュタイナーの思想と出会い、それに真剣に取り組んでいる人の多くが、
現在、このことに自分自身の「自由の哲学」の問題として直面していると思う。
そこに、ぼくは、今井さんが今、
シュタイナーの「自由の哲学」についての入門書を出版された理由のひとつがあるように受け取っている。

そして、そのように考えたとき、
やはりこの本における最も重要な部分は、
今井さん自身が思考を働かせて、シュタイナーの思考を跡づけていった第2章であると思えるのだ。
そこには、シュタイナー思想を「外的な基準」とせず、自分の主体的な思考によって理解し、
自分の言葉で語り直そうとする著者自身の精神活動が見えてくる。
著者がシュタイナーと繰り広げる対話によって、
この本を手にする読者自身のシュタイナーとの対話的な出会いを可能にしている。

今井さんのように、大学で教育を研究している人が、
このようにシュタイナー思想の原点を踏まえつつ、未来へつながる教育のあり方を探っていることに、
ぼくは大きな力づけを感じるのである。