風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

東洋と西洋の自我

2013-01-15 08:36:56 | おんなこどもの哲学
この3日間、久しぶりに通訳の仕事をした。
ドイツ語から日本語へ、あるいは英語から日本語へ通訳するたびに思うのは、
東と西の違いである。

言語の違う人々、
生まれ育った環境が違う人々が、ひとつのテーマについて考え、
理解を共有すること、
いましきりに言われる「つながり」が、
実のところいかに困難であるか、を思い知らされる。

もちろん、昔から語られ続けている、あまりにも大きく果てしのないテーマだ。
以前、今は亡きナム・ジュン・パイク氏が行った
「バイ・バイ・キップリング」というパフォーマンスを思い出す。

思い出して検索したら、
松岡正剛氏が、パイク氏が亡くなった2006年、
「千夜一冊」に彼とのことを書かれていた。
「バイ・バイ・キップリング」は本になっているらしい。
ぼくはこの本を読んでいないのだが、
松岡正剛氏のこの時の文章に触れて、改めて80年代の自分自身の問題意識がよみがえってきた。

「東は東、西は西、ふたつが出会うことは決してない」
というキップリングに「さよなら」を言ったこのパフォーマンスは、1986年だったらしいが、
それを中継したテレビ番組を見ていて、かなりのインパクトを受けたことは覚えている。

キップリングの詩を見ると、
先のことばに続いて
「しかし、東も西も、国境も、血統も、生まれも存在しないのだ、
地の果てから来た、ふたりの強者が面と向かって立つならば」
と語っている。
この詩人は決して「東と西は分かり合えない」と宣言したのではなく、
彼の意図は、
東と西が分裂していることの意味、
さらには、この分裂をもたらしている「神の審判」の意味を問うことだったのが明らかだ。

パイク氏は、この問題意識にさよならを言ったのだろうか。

いつか、「バイ・バイ・キップリング」という本を読む機会があったら、
そのあたりを確かめてみたい。

ぼくには、現在でもなお、
人々がおたがいに分かり合えないこと、
異なる文化、民族、そして個人を隔てているものの背後には、
この「神」の問題が依然として潜んでいると思うのだ。

西洋の自我と、
東洋の自我は、明らかに異なっている。

それは自分の外に「唯一絶対なる神」を感じてきた人間が、
その神を自己の内に取り込んで生み出した個人主義と、その孤独。

そこを通過せずに、現代を生きつつ、
べつの形で自我を形成してきた人々との違いにも見える。

ぼくにとって、「おんなこども」は、
東洋における、そして日本における「自我」の問題と直結している。