風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

おんなこどもの知性

2013-01-20 15:10:46 | おんなこどもの哲学
15歳か16歳の頃、「魔術入門書」というショートストーリーを書いた。
そのとき、自分が魔術という言葉をどのように理解していたのかは定かではない。
ただ、主人公が一連の体験をした後で、老人がこのように言う。
「お前は今、お前の第三を体験した。あとは悲しみだけだが、それは誰もが体験できる第三だ。」
当時のぼくは無意識のうちに、魔術は「誰もが体験できる悲しみ」と結びついていると感じていたようだ。

最近になって、「タロット&シュタイナー講座」などで、魔術という言葉をオープンに使うようになった背景には、十代の頃の直観が働いているのかもしれない。
意識の上では、ぼくは、アメリカの魔術研究家ロナルド・タイソンが「儀式魔術」という本の冒頭で、「魔術とは、権力をもたない民衆の力だ」と定義したことに影響を受けている。

公的権力からみれば、民衆が独自に考え、独自に研究を重ねて力を蓄えていくとき、それは「いかがわしい魔術」に映る。中世の魔女裁判の時代には、病気を治したい一心で薬草を研究し、その知恵を引き継いでいった人々が、魔女や魔法使いとして処刑された。彼らは教会の神ではなく、自分自身の意志に従った。それが「悪魔」と見なされたのだ。

今日でも、この「神」は姿を変えて生きている。
学校、病院、国家など、権力をもつ組織の中には、
一般の人々を見下し、
お前たちは愚かなのだから、自分で考えたりせず、
難しいことは、専門家に任せるのが賢明だ、というメッセージが生きている。

国家権力からみれば、
市民運動は現代の魔女の群れなのかもしれない。
さらに、たちが悪いことには、
そうした市民運動のなかにさえ、権力は入り込み、
力ある人、知恵のある人に、人々を傾かせる。

だから、誤解されないことを願いつつ書くのだが、
ぼくにとって、アントロポゾフィーは魔術であり、
魔術とはアントロポゾフィーのことなのだ。

そして、その核心をぼくは「おんなこども」と呼びたい。
今、必要なのは、おんなこどもの知性だ。
生活のなかで、自分のために、子どものために、
あるいは愛する人のために、情報を求め、考えて
決断していく知性。
生活のなかの知性とでもいうのだろうか。

それはすべての人に宿っている。
ふたたびそれに触れることができれば、
それを信じることができれば、と思う。