研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

アーサー・シュレジンガー・ジュニア、『アメリカ大統領と戦争』を読んで

2005-09-10 01:23:55 | Weblog
アーサー・シュレジンガー・ジュニアのWar and the American Presidencyが『アメリカ大統領と戦争』というタイトルで邦訳されたのを読んでみた。論旨は明瞭で、ブッシュがいかにたくみに、論争無く、アメリカの外交政策、ひいては国制に悲劇的な革命をもたらしたかを論じている。ひっかかる箇所はあるものの、とても面白く読めた。というか、このところのアメリカ非難の出版ラッシュに辟易としていたので、久しぶりに力量ある人物の書物を読めてとても精神衛生によかった。このところのありきたりの帝国論を土台にしたぶつくさ言うに過ぎない非生産的なアメリカ非難にうんざりしていた。知識人の無力さ以前に、その無能さ、たいしたこと無さにぼんやりした気分でいた。あんなに優れた研究をしていた人物が、低レベルの評論家になりさがっている風景ばかり見てきた。どうせ、リベラルならば、せめてシュレジンガーくらいみごとにやってほしいもんだとつくづく思う。

ただ、第五章の「アメリカ民主主義の民主化」という章には、首をかしげざるを得なかった。この章においてシュレジンガーは、2000年の大統領選挙において、一般投票の勝者が、選挙人制度のせいで大統領選挙の勝者になれなかったことを論じている。つまり、単純多数派の見解が、大統領選挙の結論と結びつかなかった2000年の選挙を嘆いている。私が気になったのは、シュレジンガーが、一般投票の結果を単純に国民の意思としていることである。そして、その一般投票の結果と大統領選挙の結果のねじれを建国の父たちの意思からの離脱であると論じているのである。そのうえで、選挙人制度を撤廃する必要を論証しようとしている。アメリカのリベラルにとっては、アメリカの今日の苦境は、そもそも2000年の大統領選挙では、ゴアが勝っていたはずなのであり、本来勝つべきではなかったブッシュが勝ってしまったことに由来しているという思いが強いのだろう。

しかしながら、ここには明らかにシュレジンガーの意図的な誘導がある。彼は、『ザ・フェデラリスト』を豊富に引用していながら、肝心の部分を隠蔽している。それは『ザ・フェデラリスト』第10篇において、ジェイムズ・マディソンが、共和制と直接民主制を区別し、合衆国は前者を採用すると述べている箇所である。すなわち、1787年にフィラデルフィアに参集した立法者たちは、人民の多数者の意志がそのまま反映されることをあえて避けたという事実があるのである。当時においては、「民主制」というのは、悪い政体であった。封建制の伝統をもたないアメリカにおいては、正統性は民主的基盤を持たなければならないのはやむをえないとしても、建国の父たちはそれがダイレクトに国家の一般意思となることには、強い危惧の念を抱いていたのである。より正確に述べるならば、その時々の状況で変動する多数者の意思は、必ずしも国民の意思ではないのであると考えていた。そこで彼らは、あえて大統領選挙の仕組みを複雑にしたのである。すなわち、選挙人制度である。

選挙人制度をスラスラ解説できる研究者はそう多くないだろう。アメリカの学者にも難しい。さらには、各州で異なる選挙方法が加わる。選挙過程はさらに複雑になる。この複雑さを建国の父たちは意図的に放置した。ここには、彼らの人間に対する冷めた見解がある。彼らは、自分たちの能力にすら全幅の信頼を置いていなかった。なぜ、彼らはこんな制度をつくったのであろうか。

それは、多数者の意思がそのままダイレクトに国家の意思となることを妨げるためである。自分たちですら把握できないプロセスの中に国家の最高権力者の選出過程を置くことで、神の見えざる意思が示されるのを期待したのかもしれない。少なくとも、おおむね多数者の意思が反映される制度でありながら、どこかに籤引きの余地を残しておいたのである。その結果、たしかにブッシュのような人物が大統領に選ばれることになったのは事実だが、では、そうでない場合、アメリカはつねに最善の大統領を選べたのか?というとわからないのである。実際に、ジョン・クインジー・アダムズ以来、一般投票で敗北しながら大統領に選出された人々は、一期で大統領職をあきらめざるを得なかった。しかし、4年で交代できるのである。2000年はたまたまブッシュが勝利したが、同じ方法で、ブッシュ的なる人物を回避できるかもしれないのである。そして、建国の父たちは、人民の直接多数よりも、籤引き的要素があるほうが、回避できる可能性は大きいとみたのである。こうしたアメリカ建国の父たちの意図を知ってか知らずか、選挙人制度撤廃の修正法案は、今日に至るまで、成立していない。

思えば、合衆国大統領の権力は必ずしも大きくない。その権力は行政に限定され、大統領には議会の解散権もない。行政権力に限定されているため、分割政府のように、大統領を選出した党と、議会の多数派の党が食い違う場合すらある。また、大統領の外交・内政の政策すら、司法権力によってひっくり返されることも十分にあり得る。ちぐはぐにも見える、不思議な政体なのである。それに引き比べ、日本の議員内閣制における首相の権力は強大である。首相は、行政府の長であると同時に、立法府も押さえている。自分の法案に議会が反対すれば、解散できるのである。ライブドアの堀江貴文は、スピード化の時代においては大統領制のような強力なリーダーシップが必要であると言っていたが、そうではない。大統領の権力は大きくないのである。こと権力という点では、議院内閣制の首相の方が強大なのである。

ともあれ、こうした歴史的経緯を知らないシュレジンガーではないはずであり、このあたりにアメリカのリベラルズの錯乱が見て取れるのである。