研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

日本の国制と陪審員制度(2・完)

2005-09-20 00:58:01 | Weblog
日本の場合はどうか。私は大学の学部時代、法史学の石井紫郎先生の集中講義を受けたことがある。その講義の中で印象的だったのは、「十六夜日記」の事例であった。「十六夜日記」の著者である阿仏尼は、亡くなった夫の残した所領が親戚に横領されたため、その所有権確認の訴訟のために京から鎌倉へ下った。文学作品として国語の時間に習う「十六夜日記」とは、この京から鎌倉へ下る過程での出来事の日記である。考えてみれば、鎌倉幕府とは司法裁判所だったわけである。それはそうで、坂上田村麻呂の時代はいざ知らず、鎌倉幕府とはもともと武士の土地分配の管理機関として源頼朝が打ち立てたものである。だから、幕府の機能とは裁判所である。これは徳川幕府に至るまで変わらない。

それにしてもこれは驚くべきことではないだろうか。鎌倉幕府とは1192年に設立されている。つまり12世紀ころには、日本では自力救済の放棄の流れがはっきりと進行しており、阿仏尼のころには、女が訴訟を起こせたのである。石井先生曰く「日本の場合、西欧に比べて自力救済の放棄はかなり早い段階から進行していたといえるのです」と。もちろん、その後の日本史のさまざまな展開の知っての通りである。しかしながら、司法制度の流れとしては、明治維新まで基本は変わらないのである。室町幕府のように効果的ではないものもあれば、徳川幕府のように絶対的なものまであったが、あるべきとされた型に変化はない。朝廷から司法警察権力を委ねられた幕府がこれを行った。

明治維新以降はどうか。明治政府の権威のもと、東京帝国大学法科出身の秀才たちが法学士の後光を帯びてこれを行った。第二次世界大戦以降は、司法試験という最難関試験を突破した者が、その試験カリスマを帯びてこれを行った。いずれもその権威の源泉を辿っていくと皇室に行き着く(笑)。これだけは、鎌倉時代以来かわらない。執行者が源平の血統か秀才かの違いはあるが、お上の権威に我々日本人は服してきたのである。我々日本人は、平時は世間に服すが、訴訟においては同格者の裁定には従わなかった。同格者の判断には権威も正統性もなかった。同格者は同格者であるがゆえに従う筋合いはなかった。判決は、お上(天皇)を源泉とする公方様(幕府)の任命した奉行か、法学部出身者の中の最優秀者(東京帝大法科または司法試験合格者)によるものである方が納得がいってきたのである。悲しいほどのガヴァナビリティだが、仕方がない。そうなんだから。

こうしたわけで、陪審員制度はわが国の国制(コンスティテューション)には存在したことがなかった。これだけは確かである。

だから、陪審員制度は日本が採用すべきではないといっているのではない。英米の歴史を見ると、陪審員制度によってコモン・ピープルの間に政治訓練が進んでいたことは確かで、それが彼らのリーガル・マインドを育み、フランス革命のような狂乱から彼らを救ったことはトクヴィルが『旧体制と大革命』で指摘したとおりである。民主政治において、「正統性は、国民にあるべきである」という思想を貫徹する意味で、あえて採用するのは意味のあることかもしれない。いずれにせよ、「日本人は、感情的だから陪審員制度に向かない」ということは根拠がない。(以前、若い弁護士がそうほざいていたので、面白いからいじめたことがある)。

また、法学部出身なら想像できると思うが、専門的な法実務において「証拠」なり「事実認定」なりは、我々が通常の生活で考えるものとはぜんぜん違うのである。「だから一般人には無理だ」というのは正しくない。我々の裁判である以上、そういう特殊な思考様式で考え出されたものは、それ自体、正統性がないのかもしれない。裁判は科学ではない。妥当性と正統性がすべてである。真実など神しか分からないし、神の声は聞こえないのだから。だとしたら、特殊な考え方をする専門家の判断は、専門家の判断であるがゆえに正統ではないのかもしれない(アメリカの陪審員制度の思想的起源の一端にはこうした「反知性主義」もある)。言われてみれば、裁判官には変なのが多い気もするし。専門知識を要する量刑や手続きはそれこそ専門家に任せるべきだが、それ以前の判断は、専門知識をもたない人々が行うべきなのかもしれない。今後多様化する社会において、日本人に一番欠けている資質―リーガル・マインド―を養成するという意味でも、あえて国制にない異国の制度を採用してみるのも悪くないのかも知れない。