研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

中央政府にとっての辺境の意味(1)

2005-09-29 05:31:15 | Weblog
1783年、パリ講和条約の正式調印によって、独立戦争は終結した。イギリス帝国という巨大な敵をどうにか破ったアメリカ諸邦連合は今度は自分たちの未来像をめぐる問題に取り組まなければならなくなった。「さて、この連合をどうするか」という問題である。

「さらに強化し、ナショナル・ガヴァメントをつくるべきだ」と考えたのがフェデラリスト。「戦争が終わった以上、本来の状態、すなわち各邦の独立自治に戻るべきだ」と考えたのがアンティ・フェデラリスト。「ナショナル・ガヴァメントは必要だが、主体はあくまでも州であるべきだ」と考えたのがジェファソンで、彼と考えを同じくする人々と、その傘下に入ったアンティ・フェデラリスツにより形成されたのがリパブリカンズである。

要するに、アメリカ革命を戦った東部13州の統合は、この時点ではなんら自明ではなかった。自分たちを統合する中央政府など、そもそも入植以来160年間にもったことなどない。伝統や経験にないというのは、元イギリス人たちにとっては重要であった。しかし、それ以上に問題なのは、3000マイル彼方の君主をようやく追い出したと思ったら、今度はもっと近くに、再びウエストミンスターを構成しようなどというのは、革命の理念に反するではないかと考える人たちも多かった。「ジョージ3世を倒したと思ったら、ジョージ1世が即位するのか?」と反対者たちはいったものである。言うまでもなく、ここでいうジョージ1世とは、ジョージ・ワシントンのことである。この時期、ワシントンをアメリカ国王にしようという考えは普通に検討されていた。

このように、議論は錯綜していたが、結局連邦形成派に最有力な人々が結集していたため、とにもかくにも連邦憲法はつくられ、各邦の批准会議をからくも通過し、1789年ジョージ・ワシントンを満場一致で大統領に選び、第一次合衆国議会は開かれた。後にリパブリカンズの領袖になるジェファソンは、初代国務長官になる直前まで駐仏公使としてヨーロッパにいたため、この時点での彼の視点は地域主義よりは「アメリカ」という単位に重点があった。また、マディソンも『ザ・フェデラリスト』の主筆者として、連邦形成の理論的主柱として、連邦下院の第一人者の立場にあった。ジョン・アダムズは、初代副大統領として、連邦上院の首座にあった。ハミルトンは、初代財務長官として、中央政府の財政政策を矢継ぎ早につくっていった。連邦政府は、「建国の父たち」の個人的な力量によって不安定な基盤の上に力ずくで打ち立てられた。

つまり、制度としては明らかに不安定であり、いつ崩壊してもおかしくなかった。まさに雄藩連合を統合することは非常に困難だったのである。イギリスから独立することは、連合の目的だったが、独立後の統合など、最初の契約になかったのだから当然である。

この状況を打開した歴史的契機の一つが、「西部の辺境」であった。パリ講和条約によって、イギリスはアレゲニー山脈以西の広大な土地を放棄したが、そのさしあたっての管理者は連邦政府(講和条約の時点ではまだ大陸会議)であった。そして連邦政府にいた建国者たちは、この西部の土地の処分権を独占することにしたのである。すなわち、既存の各州に西部への領土拡張を放棄させた。