研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

政党制の契機―流血なき政権交代(2)

2005-09-16 22:33:35 | Weblog
「立法者ハミルトン」の決闘による死亡を目の当たりにして、みんなが「さすがにまずい・・・」と思った。建国以来、延々行われてきた血なまぐさい行為に人々が嫌気を感じ始め、このころには決闘そのものがはっきりと減ってきた時期でもあった。誤解の招きやすい人格ではあったが、死なれてみて、改めてハミルトンを思い返すと、なるほど凄い業績であった。高潔な人であった。同時にバー非難が起こる。バーは、建国以来のアメリカの超名門の出身であり、母親はかの大神学者ジョナサン・エドワーズの娘であったので、財産・教養ともに抜群であったが、その後の彼の公的生活はまったく振るわなくなった。この時の、バー非難の要点は、personal criticismとpolitical criticismをごっちゃにしたのは、如何なものかということである。つまり、ハミルトンの政治的判断(バー批判およびジェファソン応援)にたいし、バーは個人的遺恨をもってハミルトンを殺したと。政治的批判は自由になされるべきなのではないか。それに個人的な遺恨を持ち込むのは、誤りではないのかと。

しかし、そもそもその根本にある問題は、政治があまりに個人の資質や徳によって行われすぎていることであった。そしてなにより対立が流血に結びつきすぎるのである。この理由は何か?逆説的だが、それは対立を公式に認めないからである。対立は、「あってはならないもの」と考えるから、対立を無くすために一方が死ななければならないのである。これは、集団レベルでは、党派の生成および対立と同じ現象である。党派心は古典的には「あってはならない」のである。党派対立は、忌むべきアナキーなのである。しかるに党派は必ず出来る。だから悪徳を認めないためには、自分が党派の一員であることを認めないことが必要であり、党派対立をなくすためには、反対党派を殲滅しなければならない。

ジェイムズ・マディソンは、『ザ・フェデラリスト』のなかで、「人間の嗜好性の違いを認め、その活力を認める以上、党派ができるのは必然であるし、それゆえ党派対立が起こるのは必然である。だから党派が悪いからと言って、その原因を除去することは、人間を殺すことである」ということを繰り返し述べ、「そうであるならば、本当に悪いのは党派ではなく、その対立に適切な均衡を与えない制度である」と喝破した。すなわち、党派対立は滅殺できないのだから、それを所与として、制度化せよということである。「邪悪を制度化し、善を実現する。これぞ悪魔への報復であり、その術が政治である」というのが、『ザ・フェデラリスト』の智慧である。それは、ジャン・ジャック・ルソーが、「天使の国に政治なし」と言ったことのちょうど裏返しなのである。

こうして、邪悪な党派が「政党」になり、反逆者は「野党(ロイヤル・オポジッション)」となり、内乱が「政党政治」になっていく契機が生まれた。政治における対立は、システムのなかで収斂されなければならない。そうすることで、国家を消耗させる内乱は、国家の活力となる。

政党政治とは、要するに、流血なしに政権が交代できるシステムである。それまでの人類史の基調では、政権交代の多くは戦争を経てなされるか、暗殺によって実現した。しかし、ひとたび党派を政党とみとめ制度化することによって、敗者は命を保ち、次の活力の構成者となった。本来死んでいたはずの人々が、次の政権を狙えるようになった。1800年の大統領選挙で勝利したジェファソンが自らの勝利を「1800年の革命」と呼んだのは、実はそれほど危険な状況だったことの裏返しである。大統領就任演説において彼は次のような有名な一節を述べた。

  「意見の相違は必ずしも原理の相違であるとは限りません。われわれは異なった名で呼び合ってきましたが、皆同じ原理を奉ずる同胞であります。われわれは全員、リパブリカンズであり、フェデラリスツであります。」

非常に、格調高い演説に見えるが、これは必死の調停の呼びかけだったのだろう。しかし、それと同時に重要な、形跡がすでに見える。ジェファソンは、はっきりと党派名を自ら口にし、そのうえで両党派は同胞であるとしている。実は、これは当時の文脈では画期的なことだったのである。それゆえ、アレクシス・ド・トクヴィルはその著『アメリカにおけるデモクラシー』において、アメリカ政党政治を語る際に、ジェファソン政権から筆を起こす。その慧眼おそるべしである。

政党制の契機―流血なき政権交代(1)

2005-09-16 22:32:07 | Weblog
アメリカ合衆国というのは、新しい国だが、歴史のない国ではない。例えば、君主のいない政治体制を単純に「共和制」と呼ぶならば、アメリカ合衆国は現在まで生き残っている国では世界最古の共和制国家である。また、合衆国憲法は、成文憲法としては世界最古である。その本文は、1787年に起草されて以降、今日に至るまで改正されていない。(修正条項という形で、事実上の憲法改正はなされつづけているが)。思えば、アメリカが辺境の弱小国であった18世紀につくられた枠組みが、超大国となった今日まで変化していないというのが、さまざまな問題を発生させているのかもしれない。そして、世界最古といえば、「政党政治」も、実はアメリカ合衆国において初めてなされたと言えば、意外に思う人も多く、反論する人も多いだろう。

そもそも今日政党を意味する英語partyとは、18世紀までの政治思想においては、「党派」と呼ばれていた。それは、公共の利益に対する部分利益を意味し、党派抗争とは公共の利益を私する者たちの間で争われる非道徳的なものであった。党派対立はすなわち、内乱の要因であり、党派心とは、政治にたずさわる人間が克服すべき悪徳であった。それゆえ、18世紀までの政治家は、自分が党派に属していることをけっして認めようとはしなかった。例えば、建国期のアメリカには、FederalistsとRepublicansの対立があったことは有名だが、実は双方は自分たちは党派ではないと主張していた。相手が、建国の精神から離脱している党派なのであり、自分たちは本来の姿を守るために努力しているのだと考えていた。ジョージ・ワシントンを我々は、「フェデラリスト」だと考えているし、ワシントン=アダムズ政権は「フェデラリスト政権」として今日整理されている。しかし、ワシントン自身は自分は何の党派にも属していないが、ジェファソンたちがおかしな党派をつくり対立状態を作り出しているので、困ったものだと悩んでいた。これは、トーリーvs.ホィッグあるいはホィッグvs.ネオ・ホィッグで争っていた英国においても同じであり、エドマンド・バークが政党の効用を主張したとき、それは明らかに異様な発言と捉えられていたことは、岸本広司先生の『バーク政治思想の展開』(御茶ノ水書房、2000年)に詳しい。政党人バークとは、今日の我々の理解なのであり、当時にあってはロイヤル・オポジッションとは語義矛盾だったのである。

こうしたpartyに対する理念と現実との間のズレが最高潮に達した時、人々にそれを強く認識させる事件が起こった。1804年、アレクザンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘によりハミルトンが死亡したのである。

私は非常に興味深いと思うのだが、アメリカにおいて「決闘」がもっとも盛んであったのは、独立戦争に勝利し、新国家を建設した直後だったという。植民地時代のアメリカには、決闘というのはあまりなかった。決闘とは貴族の習慣であり、貴族をもたない植民地社会では風習として定着していなかった。しかし、独立してみると困ったことが起こった。「人は何ゆえ、人に命令することができ、何ゆえ、その命令に従わなければならないのか?」が急に自明ではなくなったのである。イギリス臣民であったころは問題がなかった。権力は国王から流れる伝統的諸権威によってすでに正統化されていた。しかし、人間の間に差異をもたないアメリカにおいては、こうした正統化装置はなかった。権威を正統化するには差異が必要だったのである。ここで登場したのが、ジェントルマン同士の決闘である。それは、「生命よりも名誉を重んじる」行為であった。並みの人間には決闘など恐ろしくて出来ない。それは動物だからである。しかし、それをあえて行うのは、理性が本能を克服していることを証明する行為であった。精神が肉体的本能を超越している人間こそ、「自然が認定した貴族」なのである。伝統的貴族などは認められなくとも、「真の貴族」ならば、これに従うのが当然なのではないのか。そう考えられたわけなのである。

こうして、意見が対立すると決闘になるという事態が頻発した。もちろん、そこは人間どうしであるから、政治的見解の相違のみならず、私的遺恨でも決闘は起こる。困ったことに決闘をふっかけられると、断るわけにいかないのである。断ったら「卑怯者」と言われてしまい、政治生命は終ってしまう。こうなると、おちおち暮らせなくなるので、やらないですむルールが作られていく。例えば、「匿名の批判なら、『相手が特定できない』(本当は簡単にできるのだが)ので決闘にならない」とか、「自分への批判を耳にしなければ大丈夫」とか。だんだん江戸時代の武士の危機管理みたいになっていく。この中から、「政治的見解の相違は決闘の対象外にしよう」というルールが完成すれば、いよいよ成熟であるが、ハミルトンとバーの決闘は、この直前に起こってしまった。

有名な事件なので詳細は省くが、要は1804年の大統領選挙においてジェファソンとバーが拮抗した際に、ハミルトンは政敵であったジェファソンを押したのである。この鶴の一声で、バーは敗れた。ハミルトンとバーは、これまでもニュー・ヨークで何度も対立しており、個人的遺恨が蓄積していたところに、大統領への道もハミルトンに閉ざされてしまい、そのためバーはハミルトンに決闘を申し込んだのである。勢いで決闘を申し込んでしまったが、口に出した以上、撤回はできない。ハミルトンも断れない。こうして決闘は形式どうり行われ、ハミルトンはバーに撃たれた傷がもとで翌日に死亡した。