世界の歴史を眺めると、紛争解決における「自力救済権」が放棄されたのは、歴史的には最近の事柄だったのに驚くことがある。紛争とは、本来自力救済が基本であった。つまり、土地を奪われれば、自力で取り返す。暴力にさらされれば、自力で防衛あるいは復讐する。現在では復讐を自力で行えば、警察に捕まってしまうが、考えてみれば理不尽な話である。自力救済は自然権なのだから。
しかし、自力救済には報復の連鎖という危険が存在した。例えば、ある人がある人に片目を潰されたとする。すると、潰された方は、報復の際に相手の片目を潰すかというと、たいていは両目を潰すのである。すると、今度は両目を潰された側は、報復の際に、相手の命を奪う。すると今度は命を奪われた側の息子が、相手と家族の命を奪う。すると今度は報復に、その一族が相手の一族の命を奪う・・・・・。こうして、どんどんエスカレートし、紛争は最後には地域を二分する戦争に発展する。
これに困った領域君主は、次のように説得を開始する。「落とし前は、かならずつけるから、お前が復讐するのは止めよ。片目を潰した者の片目は俺が潰す。だからそれで勘弁しろ」。考えてみれば、復讐は簡単ではない。返り討ちの危険もある。そこで大きな武力を持つ地域の第一人者に、復讐の代行をゆだねるかわりに、報復の範囲を制限することを受け入れる。つまり、片目を潰されたことの復讐は相手の片目で我慢する。こうしてハムラビ法典のような「リベラル」な法律が形成された。日本の戦国時代の諸大名の法もこうした紛争による領国の混乱を防ぐことを目的に作られた。「喧嘩両成敗」の原則とは、自力救済権の放棄を迫ったことの現れである。
つまり、国家とは司法警察権力の独占によって形成された。しかし、これは簡単な作業ではない。当初は比較優位の武力を持つ君主は存在しても圧倒的な武力は持っていなかったのだから。そこで、君主は知恵を絞り、公正な判決文を書き、説明に努め、手打ちを求める。それでも紛争当事者が、それに必ず従わなければならないということはまったく自明ではなかった。仮に君主主催の法廷に出廷しても、裁定に納得がいかなければ、プイと踵を返して、外に出て、戦闘を継続した。こういう作業が中世以来、延々続けられ、長い年月をかけて少しづつ司法権が確立していったのである。つまり、公正な裁判を行うこと、説得力ある判決文を書くことは、統治の正統性にかかわる重大事項だったわけである。自力救済は人間が本来もつ自然権である。司法権の独占とは、この自然権の放棄を各人に要請するということであり、それゆえ、非常な緊張をともなう作業であるべきである。また、それゆえ、司法制度とは、その領域の住民が受け入れることの出来るものでなければならない。つまり、文化・慣習を同じくする人々に限定されなければ、正統性をもたない。だから、司法制度が適応できる範囲が、その国の領域なのであり、異なる司法観をもつ領域との境目が国境となるのである。そして、この国境のあたりに軍隊が置かれることになる。
中世ヨーロッパの王室の特徴の一つに、それが転々と移動し続けるというものがある。王室が一ヶ所に固定されたのは、近代になってからである。転々と移動し続けながら、キングたちは何をやったかといえば、裁判を主催していたのである。つまり各地に自分主催の裁判を行い、その司法制度の普及に努めていたのである。こうして、各国のコモン・ローは形成されていく。ちなみに、アメリカの場合、巡回裁判所がこの役割を果たした。
こうした、各コモン・ロー集団の一つに、アングロ・サクソン世界がある。彼らは陪審員制度を採用していた。陪審員制度の起源は、マグナ・カルタに遡る。それは、基本的に「同格者による判断のみが判決に従わしめる正統性である」という考え方である。つまり、男爵の有罪・無罪は男爵たちが判断する。公爵の有罪・無罪は公爵たちが判断する。判決は、共通の君主の権威の下、プロの司法官の判決文によって履行される。これが原型で、あとは民主化の過程で変容していく。アメリカの場合、身分制度が存在していなかったので、「その地域のpeopleの有罪・無罪はその地域のpeopleが判断する」ということになった。いずれにせよ、判決に従う「正統性」が問題なのである。
発想としてはこうである。まず第一に、「神ならぬ身に真実は分からない」。第二に、「しかしながら紛争は解決されねばならない」。第三に、「で、あるならば、何をもってその判決を『正統』とみなすか」。これである。司法に従うのは人間にとって自明ではないのである。人間が人間に何かを強制するのはまったく自明ではない。自明ではないがゆえに、「正統性」がすべてである。アングロ・サクソン世界では、同格者の判断をもって正統性とした。
しかし、自力救済には報復の連鎖という危険が存在した。例えば、ある人がある人に片目を潰されたとする。すると、潰された方は、報復の際に相手の片目を潰すかというと、たいていは両目を潰すのである。すると、今度は両目を潰された側は、報復の際に、相手の命を奪う。すると今度は命を奪われた側の息子が、相手と家族の命を奪う。すると今度は報復に、その一族が相手の一族の命を奪う・・・・・。こうして、どんどんエスカレートし、紛争は最後には地域を二分する戦争に発展する。
これに困った領域君主は、次のように説得を開始する。「落とし前は、かならずつけるから、お前が復讐するのは止めよ。片目を潰した者の片目は俺が潰す。だからそれで勘弁しろ」。考えてみれば、復讐は簡単ではない。返り討ちの危険もある。そこで大きな武力を持つ地域の第一人者に、復讐の代行をゆだねるかわりに、報復の範囲を制限することを受け入れる。つまり、片目を潰されたことの復讐は相手の片目で我慢する。こうしてハムラビ法典のような「リベラル」な法律が形成された。日本の戦国時代の諸大名の法もこうした紛争による領国の混乱を防ぐことを目的に作られた。「喧嘩両成敗」の原則とは、自力救済権の放棄を迫ったことの現れである。
つまり、国家とは司法警察権力の独占によって形成された。しかし、これは簡単な作業ではない。当初は比較優位の武力を持つ君主は存在しても圧倒的な武力は持っていなかったのだから。そこで、君主は知恵を絞り、公正な判決文を書き、説明に努め、手打ちを求める。それでも紛争当事者が、それに必ず従わなければならないということはまったく自明ではなかった。仮に君主主催の法廷に出廷しても、裁定に納得がいかなければ、プイと踵を返して、外に出て、戦闘を継続した。こういう作業が中世以来、延々続けられ、長い年月をかけて少しづつ司法権が確立していったのである。つまり、公正な裁判を行うこと、説得力ある判決文を書くことは、統治の正統性にかかわる重大事項だったわけである。自力救済は人間が本来もつ自然権である。司法権の独占とは、この自然権の放棄を各人に要請するということであり、それゆえ、非常な緊張をともなう作業であるべきである。また、それゆえ、司法制度とは、その領域の住民が受け入れることの出来るものでなければならない。つまり、文化・慣習を同じくする人々に限定されなければ、正統性をもたない。だから、司法制度が適応できる範囲が、その国の領域なのであり、異なる司法観をもつ領域との境目が国境となるのである。そして、この国境のあたりに軍隊が置かれることになる。
中世ヨーロッパの王室の特徴の一つに、それが転々と移動し続けるというものがある。王室が一ヶ所に固定されたのは、近代になってからである。転々と移動し続けながら、キングたちは何をやったかといえば、裁判を主催していたのである。つまり各地に自分主催の裁判を行い、その司法制度の普及に努めていたのである。こうして、各国のコモン・ローは形成されていく。ちなみに、アメリカの場合、巡回裁判所がこの役割を果たした。
こうした、各コモン・ロー集団の一つに、アングロ・サクソン世界がある。彼らは陪審員制度を採用していた。陪審員制度の起源は、マグナ・カルタに遡る。それは、基本的に「同格者による判断のみが判決に従わしめる正統性である」という考え方である。つまり、男爵の有罪・無罪は男爵たちが判断する。公爵の有罪・無罪は公爵たちが判断する。判決は、共通の君主の権威の下、プロの司法官の判決文によって履行される。これが原型で、あとは民主化の過程で変容していく。アメリカの場合、身分制度が存在していなかったので、「その地域のpeopleの有罪・無罪はその地域のpeopleが判断する」ということになった。いずれにせよ、判決に従う「正統性」が問題なのである。
発想としてはこうである。まず第一に、「神ならぬ身に真実は分からない」。第二に、「しかしながら紛争は解決されねばならない」。第三に、「で、あるならば、何をもってその判決を『正統』とみなすか」。これである。司法に従うのは人間にとって自明ではないのである。人間が人間に何かを強制するのはまったく自明ではない。自明ではないがゆえに、「正統性」がすべてである。アングロ・サクソン世界では、同格者の判断をもって正統性とした。