研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

一票の格差についての別論(2・完)

2005-09-13 03:57:49 | Weblog
「各州平等に2議席」ということは、要するに人口の少ない州ほど多くの連邦の利益にあずかれるということを意味している。これがアメリカ合衆国の西部への拡大において威力を発揮した。19世紀の西部開拓史を調べると、西部開拓にいかに巨額の連邦予算がつぎ込まれていたかが分かる。西部開拓には伝統的に、「フロンティア」の神話がある。すなわち、独立自営の開拓者たちが、自力で荒野を開拓したというアメリカの神話である。しかし、実際には、西部開拓は連邦の力をたくみに引き出すことによって行われた。西部の新州の代表者は上院議員として、ヴァージニアやマサチューセッツの上院議員と対等の立場で連邦議会に乗り込む。建国時の東部13州の上院議員に対して、人口の少ない西部新州の議員たちはより多くの連邦予算を代表していた。彼らの存在がそれ自体利益誘導の機能をもっていたのである。上院がもつ代表制の特徴によって、実はかなり早い段階から連邦の予算は西部につぎ込まれ、連邦政府は西部開拓を推進していく原動力となった。

しかし、それ以上に重要なのは、新たに誕生した辺境の人々が連邦政府に疎外感をもつことを防いだことである。辺境であっても、その利益は上院を通して、中央政府に代表されることが保証されているのである。どんな辺境の新州であっても、アメリカ合衆国の領域に属するかぎり、連邦上院においては、東部の古い名門州と対等の権利が約束されるのである。これにより、合衆国は西部に拡張し続けていながら新州の独立運動を経験しなくてすんだのである。(連邦離脱は、まさに名門州であった南部諸州において起こり、それを鎮めるには悲惨な南北戦争が必要であった)。

さて、今日、我々は「一票の格差」は憲法違反であると考えている。その是正は正義であると基本的には考えている。なるほど。しかしである。本当にこれが是正されてしまったら、田舎は事実上中央で代表されなくなるのは間違いない。人口が少ないからである。統治ということを考えたとき、本当にそれで良いのだろうか。もし私が沖縄県民ならば、日本離脱を考えるかもしれない。だって、不愉快だから。「一票の格差」によって、都市の人々は「苦しんでいる」だろうか。そんなことはないだろう。私も都市の住民だが、別に苦しくはない。泥臭い田舎にいるよりはよっぽどマシである。都会は楽しいし、能力さえあれば個人的にはチャンスの宝庫である。

さらに、中国や韓国の田舎を見てみるとよい。確かに、ソウルは繁栄している。上海や北京は繁栄している。しかし、田舎のみすぼらしさは凄まじいものがある。同じこの地表にありながら、明らかに別の時代である。同じ国家内で、違う時間の空間が存在しているのである。これが、国家統治のうえで、ゆがみにならないはずがない。中国の都市と農村の格差は、中国そのものの崩壊要因ですらある。真の先進国とは、実は田舎の生活水準の高さにその基準があるのではないか。都市どうしなら、先進国も途上国も大きな差はないのである。都市はどこでもコスモポリタンであり、世界のどこも同じようなものである。先進国と途上国の決定的な違いは、田舎の風景なのである。

頑迷な百姓・漁師が、鈴木宗雄的なる人物を通して国家の富を過分に浪費している様は、不愉快きわまりないかもしれない。あるいは、非常に非効率で無駄に感じるだろう。この富をもっと効率的に使うべきではないかとも思うだろう。しかし、辺境において消費される富は、実は国家全体の安全弁なのかもしれないのである。確かにそれは目に見えないので証明はできない。無駄である側面はいくらでも数字を挙げて証明できるだろう。しかし、忘れてはならないのは、我々の理性などは、もともとどこか欠陥があるのである。ひょっとしたら、理外の理というものが存在しているのではないか。はっきりしているのは、中央と地方の格差が酷いのは、間違いなく途上国なのである。さらに歴史を見るかぎり、疎外された辺境の存在が、常に国家そのものを脅かし、都市の繁栄そのものを葬り去っているのである。

そこで、あえて私は主張したい。あるていどの「一票の格差」は、中央と辺境の格差をもっとも人為的な作業なく穏やかに是正する有効な装置なのではないかと。一票の格差を完全に是正した上で、辺境に適切な行政的措置を講じるなどということが本当に可能なのだろうか。人間の知性はそこまで優れているのだろうか。人為的な要素は少ないほうがいいのではないか。また、本当に完全なる地方分権はできるのだろうか。もちろん、地方分権は大切であるし、あるていどは必ず出来る。しかし、それで辺境の疎外感を克服できると主張する人は、あまりに意地が悪い。辺境が辺境である理由は何か。それは、優秀な人材がみな都市に出てしまうからではないのか。野心ある若者の都市への誘惑を抑えることは不可能である。人材がおらず、人口も少ないから田舎なのである。そんなことはみんな知っているのに、わざと黙っているのは、明らかに悪意である。「都市において主張される」地方分権思想は、明らかに悪意にもとづいている。

以上の理由から、私は現在ていどの一票の格差は、快適な先進国ライフを送る上での当然の負担だと考えている。今ていどなら是正の必要はない。

一票の格差についての別論(1)

2005-09-13 03:56:42 | Weblog
アメリカ合衆国の連邦議会は上下両院による二院制である。下院(House of Representative)は、各州の人口に応じて議席数が比例配分されており、上院(Senate)は、各州等しく2名の議席が与えられている。下院の議席数は、厳密な人口調査にもとづき常時議席数が調整されているので、一票の格差というものは極力抑え込まれている。それに対して、上院は人口に関係なく2名ときまっており、そのため各州間の一票の格差はかなり大きいまま放置されている。

こうした非常に対照的な代表のありかたが並存しているのは、アメリカ建国期における連邦形成(連邦憲法作成)時における妥協の結果であるとされている。独立戦争に勝利し、イギリスという共通の敵を失ったアメリカ諸邦では、戦争後も各邦の連合を維持・強化し一つの国家となるべきか、それとも独立戦争前のように各邦がそれぞれで自治を行う伝統に戻るべきかが議論の焦点になっていた。連合を維持・強化すべきと考えたのが、いわゆるフェデラリスツ(党派としてのフェデラリストの起源は、第一議会におけるハミルトンの財政案賛成者が名乗ったのが始まりである)、各邦の自治の伝統に立ち戻るべきと考えたのが、いわゆるアンティ・フェデラリスツ(この「アンティ」という呼び名は、フェデラリスツが論敵つけた戦略上のレッテルである)である。ただし、この両者の間には幾層もの強調点の違いが存在しており、1787年にフィラデルフィアに参集した憲法作成者たちも、この両者の間で揺れていた。最終的に合衆国憲法に賛成した人々は、強調点の違いこそあれ、対外的な必要性や内政的安定という観点から、アメリカ諸邦は連合すべきであるという観点に立っていた。しかし、ここで問題になったのは、「民主的であるとはどういうことか」そして、「大州の利益に対する小州の利益をいかに守るか」ということであった。民主的であるためには、より多数者の主張を尊重しなければならない。しかしなら、そうすると結局、大州の主張のみが常に採用されることになり、小州は独自の利益をいつも放棄することになるだろう。そもそも人民の自由という観点にたったとき、単純に多数者の利益のみが優先されることが、はたして民主的といえるのだろうか。それぞれの州の人々の利益が尊重されてこその民主制なのではないのか。こうした、議論の妥協点として、二つある議院のうち、一方は人口比で、他方は各州平等にという結論が出来上がった。多数決の論理と、各州の対等性を二院制によって並存させたのである。『ザ・フェデラリスト』において、ハミルトンは、「下院とは、合衆国が国民を一元的に支配する仕組みであり、上院とは各州が対等に自立していることを保証する仕組みである」と述べている。

ただし、ここには民主制に対するこの時代特有の考え方も反映されている。それは、両院の名称の違いにより明らかである。「上院」の英語名はSenate、すなわち「元老院」である。独立時は13州だから26名しかいない。任期も下院より長く、この当時は民衆による直接選挙ではなく、各州の議会の代表者から選ばれていた(上院が、民衆の直接選挙で選ばれるようになったのは、1913年の憲法修正17条が通過してからである)。『ザ・フェデラリスト』におけるマディソンの言葉を用いるならば、「少数であるがゆえに優れている」議院として、まさに建国期の第一人者たちによる議会であった。

とはいえ、連邦憲法作成期においては、国家の一元支配に対する危惧をもつ人々に対して、各州の自立性と対等性を保証するという側面があったことは確かである。ところが、この上院が、アメリカ合衆国の拡張と統合を推進する存在になったということは歴史のパラドックスであろう。それには、上院に参集した建国期の第一人者たちが、その名望をもって各州の地域利益を抑制し、連邦強化に貢献したという側面もあるが、それ以上に、上院という代表制がもつ「一票の格差」が実は大きかったのである。