「各州平等に2議席」ということは、要するに人口の少ない州ほど多くの連邦の利益にあずかれるということを意味している。これがアメリカ合衆国の西部への拡大において威力を発揮した。19世紀の西部開拓史を調べると、西部開拓にいかに巨額の連邦予算がつぎ込まれていたかが分かる。西部開拓には伝統的に、「フロンティア」の神話がある。すなわち、独立自営の開拓者たちが、自力で荒野を開拓したというアメリカの神話である。しかし、実際には、西部開拓は連邦の力をたくみに引き出すことによって行われた。西部の新州の代表者は上院議員として、ヴァージニアやマサチューセッツの上院議員と対等の立場で連邦議会に乗り込む。建国時の東部13州の上院議員に対して、人口の少ない西部新州の議員たちはより多くの連邦予算を代表していた。彼らの存在がそれ自体利益誘導の機能をもっていたのである。上院がもつ代表制の特徴によって、実はかなり早い段階から連邦の予算は西部につぎ込まれ、連邦政府は西部開拓を推進していく原動力となった。
しかし、それ以上に重要なのは、新たに誕生した辺境の人々が連邦政府に疎外感をもつことを防いだことである。辺境であっても、その利益は上院を通して、中央政府に代表されることが保証されているのである。どんな辺境の新州であっても、アメリカ合衆国の領域に属するかぎり、連邦上院においては、東部の古い名門州と対等の権利が約束されるのである。これにより、合衆国は西部に拡張し続けていながら新州の独立運動を経験しなくてすんだのである。(連邦離脱は、まさに名門州であった南部諸州において起こり、それを鎮めるには悲惨な南北戦争が必要であった)。
さて、今日、我々は「一票の格差」は憲法違反であると考えている。その是正は正義であると基本的には考えている。なるほど。しかしである。本当にこれが是正されてしまったら、田舎は事実上中央で代表されなくなるのは間違いない。人口が少ないからである。統治ということを考えたとき、本当にそれで良いのだろうか。もし私が沖縄県民ならば、日本離脱を考えるかもしれない。だって、不愉快だから。「一票の格差」によって、都市の人々は「苦しんでいる」だろうか。そんなことはないだろう。私も都市の住民だが、別に苦しくはない。泥臭い田舎にいるよりはよっぽどマシである。都会は楽しいし、能力さえあれば個人的にはチャンスの宝庫である。
さらに、中国や韓国の田舎を見てみるとよい。確かに、ソウルは繁栄している。上海や北京は繁栄している。しかし、田舎のみすぼらしさは凄まじいものがある。同じこの地表にありながら、明らかに別の時代である。同じ国家内で、違う時間の空間が存在しているのである。これが、国家統治のうえで、ゆがみにならないはずがない。中国の都市と農村の格差は、中国そのものの崩壊要因ですらある。真の先進国とは、実は田舎の生活水準の高さにその基準があるのではないか。都市どうしなら、先進国も途上国も大きな差はないのである。都市はどこでもコスモポリタンであり、世界のどこも同じようなものである。先進国と途上国の決定的な違いは、田舎の風景なのである。
頑迷な百姓・漁師が、鈴木宗雄的なる人物を通して国家の富を過分に浪費している様は、不愉快きわまりないかもしれない。あるいは、非常に非効率で無駄に感じるだろう。この富をもっと効率的に使うべきではないかとも思うだろう。しかし、辺境において消費される富は、実は国家全体の安全弁なのかもしれないのである。確かにそれは目に見えないので証明はできない。無駄である側面はいくらでも数字を挙げて証明できるだろう。しかし、忘れてはならないのは、我々の理性などは、もともとどこか欠陥があるのである。ひょっとしたら、理外の理というものが存在しているのではないか。はっきりしているのは、中央と地方の格差が酷いのは、間違いなく途上国なのである。さらに歴史を見るかぎり、疎外された辺境の存在が、常に国家そのものを脅かし、都市の繁栄そのものを葬り去っているのである。
そこで、あえて私は主張したい。あるていどの「一票の格差」は、中央と辺境の格差をもっとも人為的な作業なく穏やかに是正する有効な装置なのではないかと。一票の格差を完全に是正した上で、辺境に適切な行政的措置を講じるなどということが本当に可能なのだろうか。人間の知性はそこまで優れているのだろうか。人為的な要素は少ないほうがいいのではないか。また、本当に完全なる地方分権はできるのだろうか。もちろん、地方分権は大切であるし、あるていどは必ず出来る。しかし、それで辺境の疎外感を克服できると主張する人は、あまりに意地が悪い。辺境が辺境である理由は何か。それは、優秀な人材がみな都市に出てしまうからではないのか。野心ある若者の都市への誘惑を抑えることは不可能である。人材がおらず、人口も少ないから田舎なのである。そんなことはみんな知っているのに、わざと黙っているのは、明らかに悪意である。「都市において主張される」地方分権思想は、明らかに悪意にもとづいている。
以上の理由から、私は現在ていどの一票の格差は、快適な先進国ライフを送る上での当然の負担だと考えている。今ていどなら是正の必要はない。
しかし、それ以上に重要なのは、新たに誕生した辺境の人々が連邦政府に疎外感をもつことを防いだことである。辺境であっても、その利益は上院を通して、中央政府に代表されることが保証されているのである。どんな辺境の新州であっても、アメリカ合衆国の領域に属するかぎり、連邦上院においては、東部の古い名門州と対等の権利が約束されるのである。これにより、合衆国は西部に拡張し続けていながら新州の独立運動を経験しなくてすんだのである。(連邦離脱は、まさに名門州であった南部諸州において起こり、それを鎮めるには悲惨な南北戦争が必要であった)。
さて、今日、我々は「一票の格差」は憲法違反であると考えている。その是正は正義であると基本的には考えている。なるほど。しかしである。本当にこれが是正されてしまったら、田舎は事実上中央で代表されなくなるのは間違いない。人口が少ないからである。統治ということを考えたとき、本当にそれで良いのだろうか。もし私が沖縄県民ならば、日本離脱を考えるかもしれない。だって、不愉快だから。「一票の格差」によって、都市の人々は「苦しんでいる」だろうか。そんなことはないだろう。私も都市の住民だが、別に苦しくはない。泥臭い田舎にいるよりはよっぽどマシである。都会は楽しいし、能力さえあれば個人的にはチャンスの宝庫である。
さらに、中国や韓国の田舎を見てみるとよい。確かに、ソウルは繁栄している。上海や北京は繁栄している。しかし、田舎のみすぼらしさは凄まじいものがある。同じこの地表にありながら、明らかに別の時代である。同じ国家内で、違う時間の空間が存在しているのである。これが、国家統治のうえで、ゆがみにならないはずがない。中国の都市と農村の格差は、中国そのものの崩壊要因ですらある。真の先進国とは、実は田舎の生活水準の高さにその基準があるのではないか。都市どうしなら、先進国も途上国も大きな差はないのである。都市はどこでもコスモポリタンであり、世界のどこも同じようなものである。先進国と途上国の決定的な違いは、田舎の風景なのである。
頑迷な百姓・漁師が、鈴木宗雄的なる人物を通して国家の富を過分に浪費している様は、不愉快きわまりないかもしれない。あるいは、非常に非効率で無駄に感じるだろう。この富をもっと効率的に使うべきではないかとも思うだろう。しかし、辺境において消費される富は、実は国家全体の安全弁なのかもしれないのである。確かにそれは目に見えないので証明はできない。無駄である側面はいくらでも数字を挙げて証明できるだろう。しかし、忘れてはならないのは、我々の理性などは、もともとどこか欠陥があるのである。ひょっとしたら、理外の理というものが存在しているのではないか。はっきりしているのは、中央と地方の格差が酷いのは、間違いなく途上国なのである。さらに歴史を見るかぎり、疎外された辺境の存在が、常に国家そのものを脅かし、都市の繁栄そのものを葬り去っているのである。
そこで、あえて私は主張したい。あるていどの「一票の格差」は、中央と辺境の格差をもっとも人為的な作業なく穏やかに是正する有効な装置なのではないかと。一票の格差を完全に是正した上で、辺境に適切な行政的措置を講じるなどということが本当に可能なのだろうか。人間の知性はそこまで優れているのだろうか。人為的な要素は少ないほうがいいのではないか。また、本当に完全なる地方分権はできるのだろうか。もちろん、地方分権は大切であるし、あるていどは必ず出来る。しかし、それで辺境の疎外感を克服できると主張する人は、あまりに意地が悪い。辺境が辺境である理由は何か。それは、優秀な人材がみな都市に出てしまうからではないのか。野心ある若者の都市への誘惑を抑えることは不可能である。人材がおらず、人口も少ないから田舎なのである。そんなことはみんな知っているのに、わざと黙っているのは、明らかに悪意である。「都市において主張される」地方分権思想は、明らかに悪意にもとづいている。
以上の理由から、私は現在ていどの一票の格差は、快適な先進国ライフを送る上での当然の負担だと考えている。今ていどなら是正の必要はない。